2010年3月17日水曜日
emotional architecture
globalization and human machinery
I think i understand the theoretical/philosophical angle you are developing. i am intrigued by your notion of international style equatingwith arch in some interpretations. i gather you disagree.
Saskia Sassen in Colombia university sociologist
This sounds like an interesting book.
Foreign office architecture in London
(INTRODUCTION)
This book is written about " human homogenize" of the contemporary society.
Homogenizing is important for the contemporary society. It is because hunger and poverty are solved by homogenize advancing, and communications can be advanced smoothly. However, it seriously important parts about necessary energies for people in that. Human has weakened as understood even if Japan today is seen. Japanese today is low-spirited even if it sees at a national level or it sees in the world. However, the young human who was born in rich Japan is low the sense of purpose, and doesn't have the so much zeal either. As for it, it thought whether the one "Homogenized" was related. It is understood that similar human exists in the contemporary society. They are actually conscious of there is existence that looks like me though they refuse the same thing with the person. However, it is not possible to actually slip out there. Young people may say that they are in the conflict. People are alive in the rail that the capitalistic society made as the hierarchy existing. It is the world where human exactly becomes a machine.
Globalization and information became to main factor the 21st century. Not only Japan but also world city consists of capitalism. This social structure where economy was assumed to the first made very reasonable, efficient rail a pressing need. The next stage in the advanced country was discovered in that. It is the one "Decline of the spirit". Because it is mass-produced by people in the rail that capitalism made, and a large amount of comes to be consumed, man is produced just like the car etc. Feelings become unnecessary there, and mankind becomes the cogwheel of the society.
If everything is used there more than the necessity, it is thrown away. It became to exist with mass production the friend and lover in consumption already.
It is "Purpose" and "Recognition." the first necessity to break this human's homogenizing. When man is vitalized, the purpose becomes important. If any action doesn't firmly recognize the world, it will fall through. And, there is the one necessary to recognize the world. It is "Nationalism", "Globalization", "Diversity", "Informationization", and "Airlines."This five relates closely to the contemporary society. It is important for vitalizing people with "Recognition" and "Purpose" after these are based.
1.Introduction
現代は機械革命から情報化革命へと移り変わる転換期。
情報革命により、デザインまでもが大量の情報の中で形成されている。
この本は現代社会の「人間の均質化」について書かれている。
均質化というものは大量生産、大量消費という点において利点のあるものである。
そしてそれらは世界中の飢餓の解決に貢献する。効率性や均質化が進めば世界中のいたるところが同じ環境になるからである。
しかし一方で見えるのは均質化による人々の力や活力の低下、同じ価値観の共有、そして同じ服を着ることにより人間が機械になるということである。科学者のテスラは「人間は肉でできた機械である」といった。そして人間にとって必要不可欠である多様性というものが現代では失われつつある。
機械であれば何も感じることのないままそのまま使用され、朽ちて同じ部品と取り換えられればいいのかも知れない。だけど私たちは人間でありたいと願う。命を持ち、時に笑い、時に怒り、時にうっかりミスもする人間でありたい。
大量量産、大量消費、情報化、これらすべては急速なスピードで進行している。現代における都市もグローバリゼーションによって世界規模で共有の価値観を持つようになっていった。
そして現代に至るまでに世界が画一化、均質化し全てのものが世界中で同じ顔をするようになっている。そして更に利便性があがり、大量生産、大量消費により、生活は豊かになったはずなのに、どういうことわけか人々に心という生気が宿らない。経済を絶対とする資本主義に支配された世界は一方で人間を機械にして冷たいものとしてしまったのではないだろうか?
私たちに今必要なのは情報化をふまえた上で機械と精神を統合させること。グローバル化が進んだ今、機械と精神をつなぐ人間としての新しい時代を作り出すことにある。
・目的
21世紀の始まりが訪れて、8年が過とうとしている、モダニズム、ポストモダン、また様々なデザインを模索する試みがあるが、人々は本当に快適な住居に住んでいるといえるだろうか?そのような疑問を常に持っていた。産業革命以降、人々の生活は、利便性においてのみは追及されるようになってきた。一方で人々は人間にとっての根源たる温かさや豊かな心、理論では具体的には表しづらいものを失っている。本書は21世紀を迎える中で、グローバリゼーション、国際様式、大量生産、大量消費、情報化革命に関する問題に焦点を当てて、その解決策を模索するというものである。機械時代を20世紀初頭からの現代様式として呼ぶが、それらがいたるまでを大量生産が始まる17世紀からの技術史、世界史を基にして論じていく。そしてそれらの問題を解決するものを生時代と呼ぶ。要約するならば、機械と精神を統合するデザインまたは文化的要素である。自分は建築出身の人間であるが、この本は建築理論偏重の本にするつもりはない。いかにして人々をグローバリゼーション下で人々を心から豊かにするかということが目的であり、その解決にいたるまでに建築、情報、スポーツ、ファッション、物理学、化学、経済学、経営学、広告、不動産、文学、心理学、医学、栄養学、政治学、芸能、セックスにいたるまでの幅広い分野を基にしてできる限り専門家にインタビューを用いながら研究を行ったものである。
世界中がパソコンや携帯、そして世界都市の発達によって様々な人が入り混じるようになる21世紀には人々が豊かさの中で強さを持つということは何かと真剣に考えていた。均質化によって人々の力が世界規模で落ち込んでいるのはこの世界金融破綻によってアメリカ、日本、中国など様々な国で若者が就職難に陥り、リストラや雇用の問題が取り立たされている。世界は新しい転換期を迎えようとしている。世界の距離がなくなり、多国間の文化同士が入り混じる世界に一つの場所に留まる事は非常に危険なことである。自分は日本というある意味完成された国の若者として情報化の恩恵を受け、豊かさを感じとってきた。しかし人々の活力は失われているように思う。人々にとって経済効率、国家間の文化を超えた人間の活力とは何か?それが本書の最も重要視するものである。
人間は機械ではない。ゼンマイの音もすることもない。私はそう願いたい。
しかし、グローバリゼーションによって失われてきたものも確実にある。
人間が機械になる世界。その時代に私たちはいるのである。
2.グローバリズムと国際様式
グローバリゼーションは21世紀では当たり前の言葉になりつつあるものである。この言葉は日本語で言うと、「全球化」という意味になる。グローバリゼーションというものは1980年代から世界でも注目されていった言葉である。グローバリゼーションは産業革命と情報化革命が一番の原因であると考えられるが、この「全球化」という言葉は言葉どおり世界が国境を越えて一つになるという意味である。これらは18世紀にイギリスで産業革命が始まる以前では考えられなかった。広まるとしてもキリスト教、ヒンドゥーやユダヤなどの宗教を介して広まっていった。しかし現代はものすごいスピードで全球化が進行している。これはメディアの革命が起こった為である。そして今では何処の国に行っても同じものを着ていることを感じないだろうか?同じものを着て、そして同じものを食べ、同じ言葉を使い、同じ生活をする。これらは情報化と大量生産がもたらした産物である。そして国際様式は大量生産という言葉の恩恵を受けて広まっていったものである。
まずは経済を担う産業の中で最も大きな建築の観点から「均質化」というものを論じていきたいと思う。現在のオフィスビルに見られるような都市になるまで、装飾という概念があたりまえのようにあった。しかし、今では石造に彫刻を入れるような装飾は基本的には見られることがない。そして現在の近代建築(モダニズム)は20世紀前半にインターナショナルスタイルと呼ばれた国際様式が普及することにより始まった。ハーバード大学院の歴史家であるヘンリー・ラッセル・ヒッチコック、そしてMOMAのキュレーターでもあったハーバード出身の建築家フィリップ・ジョンソンが鉄とガラスとコンクリートによるオフィスビルに見られる箱型の建築が世界共通の様式であると提唱したものが国際様式と呼ばれるものである。その建築運動で紹介された建築家の中でもミ―ス・ファン・デル・ローエの影響力は非常に大きかった。何よりもレヴァーハウスを設計したSOMの役割は近代建築、特に先進国の都心部、現在では発展途上国の都心部にも広まっているが、今では世界で名だたる組織設計ではあるSOMの果たした役割は世界でも大きく、世界のゼネコン設計部、または組織設計等はこれらSOMのコピーとも言えるような組織形態であると言える。特に日本においては、鹿島建設等のデザインなどもミ―スから続く鉄とガラスのシンプルなデザインを色濃く受け継いでいる。日本のゼネコン設計部や組織設計、特に日本設計などは社長等がアメリカのイリノイ工科大学でミ―スに直接の教えを受けていることからも、特にミ―スの影響力は強いといえる。
もう1つ日本において影響を与えているデザインが近代建築の父と呼ばれた大建築家ル・コルビュジェの影響がある。20世紀の日本の建築家は前川国男が東京帝国大学でル・コルビュジェ著の「今日の装飾芸術」という本を読み、「ル・コルビュジェ論」を書いてすぐにフランスに渡仏してル・コルビュジェのアトリエを訪ねたことは後の日本の近代建築において、始まりを示すものであった。
日本の近代建築は前半は前川国男、そして後半は丹下健三に分けられるといえる。特に前川も丹下もまたル・コルビュジェを知って建築家になろうとしたぐらいで、ル・コルビュジェのデザインは日本中を圧巻していった。日本の近代建築の前置きはここらへんにしておくが、バウハウス、CIAMに始まる国際様式(モダニズム建築)のメリットは機能性、大量生産性、経済性である。
世界共通の建築を目指す国際様式が広まった一番の考えられる理由は世界恐慌や第一次世界大戦、そして第二次世界大戦の影響がある。何故なら日露戦争などによる第一次世界大戦、そしてナチスドイツによる日本やイタリアも含めて、欧州列強との第二次世界大戦などによっていかに早く、そして効率よく、経済的に大量に同じものを作るか、そしてルーズベルト大統領時代に起こった暗黒の金曜日と呼ばれる世界恐慌などにより、いかに効率よく大量生産するということが世の中で最も重要なものとなっていった。また建築における近代建築革命によっても大量生産、経済性、機能主義と呼ばれるものが重要視されたのである。そして装飾というものは経済や大量生産といった点で非常に不便なものである。装飾がないことになれば、職人の手間が省け、無駄な労力がなくなるのである。経済や大量生産を重要視すると装飾は不必要きわまりないものなのである。モダニズム建築は無駄なもの、装飾という無駄なものを省いたのである。合理化、経済性の重要性は特に資本主義社会にとって非常に大きな割合を占めるものである。2000年に入って建築の在り方は1960年代のポストモダン以降、ルーティンを繰り返している。モダニズムの原型というものを半分は保ちながらも、もう一方でそれにあらがおうとする建築で満ちている。形骸化したモダニズム建築を乗り越えようとする試みは数々の建築家が行ってきたものである。古くはスミッソン夫婦などのチーム10やまたは近年ではピーター・アイゼンマンのエニィなどが試みてきたが必ずしもそれらが解決に至っていないのが現実である。建築革命は間違いなく1920年の初頭に起こった。石造りで作られたものが鉄やガラス、コンクリートを使い新しい価値観のもとに新時代が作られてきたのである。だが都市は形骸化している。
イギリスの大統領チャーチルはこう答えた。最初は建築は人が作るが、最後は建築が人を形作る。大量生産、大量消費、機能性、合理性を求めた建築はチャーチルの言葉を借りるならば、人間の為に建造されたものであるが、それによって最後は人間までもが大量生産、大量消費されるのである。これらはどういうことになるか、人間が機械化する現実は動物にとってのある必然的ものが問題点となるのである。人間は動物と同じものであるのが私の見解であるが、これは進化論者であるダーウィンも言っているものである。大量生産、大量生産によって行われることは画一化、均質化である。世界中の人間が同じ価値観を持つようになり、同じ言語、英語といったものを駆使してグローバリゼーションのもと平坦な世界になる。それが21世紀の建築だけでなく社会の形成の在り方であり、20世紀の自動車や飛行機や電車などの交通の革命によるものと同じものとして世界に大きな変革をもたらすこととなる。交通の革命は確実に都市を変えた。現在は情報化革命とグローバリゼーションによる世界の変容と同じくして建築は社会を映し出す鏡というのであれば、建築や都市もまた形骸化した国際様式に始まるモダニズム建築ではなく、情報化時代にふさわしい形態に変容しなくてはならない。
国際様式は世界一の大国であるアメリカから始まったものである。大量生産の流れはイギリスの18世紀の産業革命から始まり、そしてご存じのとおり、植民地であったアメリカにいた、アダム・スミスやトマス・ジェファーソンなどが反旗を起こし、独立運動して現在のアメリカに至るまでになった。元はイギリスの民であったのだから、勿論のこと産業革命の技術や文化を受け継いでいるのである。資本主義、大量生産、大量生産を行う上で重要であるのがコストをいかに下げるかということである。そしてアメリカの第三代大統領であるトマス・ジェファーソンのころは厳格なギリシャ建築などを復興する新古典主義の建築が美しい建築とされていたが、20世紀にさしかかると世界大戦や恐慌などにより、装飾というものをいかになくすということにさらに焦点が置かれたのである。そしてドイツのバウハウスから影響を受けたフィリップ・ジョンソンが提唱したこの国際様式というものは資本主義社会の求めているものに当てはまっていた。そしてこれらの建築は装飾をなくし、いかに合理的に大量生産に適するかを説いたものであった。そして国際様式は場所という概念を必要としないものでもある。何処にいっても、どんな文化であっても通用する建築を目指したものであった。そしてこの建築は世界を圧巻することになるのである。現代においてもこれらの様式は通用する概念である。モダニズム建築革命が20世紀初頭に起こったが、それらから脱却しようという試みが1960年代に世界中で起こっていった。これらはポストモダニズムと呼ばれる概念である。日本はちょうど高度成長期の真っただ中であり、現代の中国のように開発が進み、黒川紀章、菊竹清訓が中心となってメタボリズムやまたは丹下健三、磯崎新などが次々と都市計画を提唱していった。東京1960という都市計画案は世界で丹下を知らしめた実現はしなかったが、未来を描く都市として世界の建築家に影響を与えた。ポストモダニズムの概念を通訳するという概念は非常に難しいものである。哲学者ジャック・デリタが提唱した従来の概念をぶち壊して新しいものを創造するという「脱構築」という概念を使って試みられたりもした。空間を国際様式にあるような四角いものではなくて、空間をずらしたり、曲げたりした建築が提唱されつつあった。しかしこれらは完全な表層にとどまっていて、それらが何故必要なのかと真実を問われると限界があるものであった。そして社会はそれらを芸術としては認めたが、様式としていうにはまだほど遠いものであった。国際様式の何よりも優れている点は経済性に優れているということであった。そしてポストモダニズムは形骸化しつつあるモダニズム建築を超えることはないのが現状である。
ここでの題材は国際様式とグローバリズムの関係性である。これらを繋げるキーワードは大量生産と大量消費である。そして軍事国家アメリカの世界への影響力であった。これらが主な要因として国際様式は世界中に広まっていった。そしてグローバリズムに非常に貢献した。
東京の都市群を見るとアジアの典型的な資本主義都市を学ぶことができる。東京はグローバリゼーションと国際様式によってできた都市であり、ニューヨークのマンハッタンに並ぶ経済都市となっている。オランダの建築家であるレム・コールハ―スはこのような都市群を彼の著書である錯乱のニューヨークでマン八ッタニズムと称した。 都市などの人間の理想などによって都市が急速に進行することによって追いつかなくなり、都市が人間の創造していた美しく調和を持った都市ではなくなるものになると言っている。まさに錯乱した都市となっているのである。国際様式ではこのような出来事は把握していたとは言い難い。ル・コルビュジェの理想都市は現実では半分は正解であったが、それらは完全には都市に反映されなかったのである。都市の発展は想像もつかないぐらいにものすごい速さで進行しているのである。特に東京という町並みはアジアで初めての高度成長都市としてアジアでモデルとなった都市でもあった。
都市の迷宮、都市のジャングルと呼ばれることもある東京という町並みはレムの言うマン八ッタニズムの都市であるとも言える。高度成長期は経済の発展を最大の目標にして大量生産、大量消費を促進していった。生活用品や自動車は石油を輸入し、食品は欧米等の輸入からまかない、日本は急速に発展していった。これはアメリカの恩恵を受けている。アメリカに闘いを挑み、敗戦国となってGHQに国を支配されることによって、ベトナム戦争や自動車の輸入などでアメリカの資本が日本に流れ込んだことも理由としてあった。都市は美しい調和を持った景観を目指したが、それらは経済という最も強いものからは無視され、都市は迷宮と化していった。
そしてアジアの都市群は東京と同じことを繰り返している。韓国やシンガポール、台湾そして中国までもが東京の街並みと同じ景観の都市になりつつある。現在の状況からも全球化はまぬがれない。同じ文化を保ちながらも個々の文化を保つことが必要である。国際様式は個々の文化から離脱することを目標にしていた。そしてどの国の文化や伝統を超えて、普遍的な様式を世界中に広めるということが最大の目的であった。
そして現代において国際様式というものは世界中に広まっていった。特にこれに貢献したミースなども自らの建築理念において「何処に行っても、そして誰でも簡単に作ることのできる」それらがミースの求めるものだった。そして国際様式は大量生産とも密室に関係している。産業革命の最初の地はイギリスであった。産業革命は17世紀に起こったものである。産業革命は繊維工業から始まったものであり、イギリスの優秀なブルネル等のエンジニア達がより合理的に生産を行う為に技術革新が起こったのが始まりである。エンジニアにとってこのような歴史的技術革新に出会えたことは素晴らしい時期であったと創造できる。そしてグローバリゼーション、大量生産、大量消費、情報化革命によって現代は均質化の道を歩んでいる。テレビにおいても、インターネットにおいても、服を着ることにおいても、同じものを世界中の人間が使うことが均質化をもたらすことの原因である。
ここであげるものであるグローバリゼーションと国際様式は現代社会に密接に関係しているものである。何故なら建築は人間が視覚や触覚を感じる物質において最大のものであるからである。自然環境から身を守る為に建築は生まれたとされているが、一部では人間の生まれた場所である胎児の母体から派生したものであると言われている。フレデリック・キースラーのエンドレスハウスは卵や人間の母体などが造形に関係している。キースラーはエンドレスハウスを雌の建築を呼んでいたことからも分かる。建築は人間における造形物の最も大きなものであり、社会においても多大な影響を持つものであることは確かである。そしてこれらは情報革命と同じく、必要不可欠なものであり、なくなることは人間が滅亡しない限りまずないと考えられる。そしてパルテノン神殿に見られる紀元前の頃の建築から、今の国際様式を比べてみると、柱と梁の構造という点では同じ要素である。これらは「建築を目指して」と呼ばれる近代建築の父、ル・コルビュジェが書いた本の中で、パルテノン神殿に多大な影響を受けたことを著書の中で書いている。近代建築と呼ばれたものは間違いなくギリシアの建築の影響を受けている。しかし18世紀のグリーク・リバイバルのフリードリヒ・シンケルに見られるような装飾の模倣などは一切行ってはいない。装飾は罪であるというのが国際様式の常識なのだから・・・そして装飾を復興させるべきではないのかというのも鈴木博之ら建築史家が行っているが、確かに全てを排除することはないのかもしれない。何故なら建築において装飾を排除しようとしたのが2000年遡って見ても現代以外にほとんどないからである。あるとするならばビサンチン時代のシトー教会が作ったル・トロネなどが作られた節制を重んじる時代以外ほとんどなかったからである。過去において様式が変容するのは100年から200年のスパンである。そして現代とは違い、交通の手段が船や馬車しかなかった中世などにおいて建築様式自体が世界中に広まると言う事はまずないことであった。そして西洋の様式はアジアでは全く関係のないことも多々あった。日本において西洋の文化が広まったのは明治政府が発足した18世紀後半以降である。そこで考えられるのが何故装飾がなくなったのかである。それは社会背景が大きな理由であると考えられる。ビサンチン時代はキリスト教がヨーロッパで信仰されていた。そしてその主体はシトー教会という節制を重んじる宗教であった。これらの社会背景と20世紀初頭の時代背景は共通する問題がある。それらは節制を重んじなければならなかったという点においてである。建築は社会を映し出す鏡である。これはミ―スの言った有名な言葉である。建築というものは社会性というものに密接に関係するものであるということを指している。
国際様式の始まった時はいかにして効率よく、合理的に大量生産するかにあった。そして時代背景として世界恐慌、2度にわたる世界大戦が密接に関係していた。ビサンチンと同じものとして節制というものが共通している概念であった。その中で経済にとって無意味な装飾というものは排除すべきものであったのである。経済性という観点において装飾というものは無意味なものである。図面においても、複雑化したポストモダニズムと呼ばれた装飾過多の建築はコストが非常にかかるものであり、結局はシンプルで、図面でも少ないものの方が安くすむのである。ミースは「より少ないことはより豊かなことだ」という言葉を自らの建築論を語るときに用いたが、彼のシーグラムビルと呼ばれた世界最初の高層ビルなどは当時においても画期的な構法であり現代都市において彼の建築を模倣する形でオフィスビル群は出来上がっていった。そして鉄とガラスでできた高層ビルが何よりも欲したのが、テナントやオフィル等の収益率と建設費用におけるコストであった。これらは歴史的な建造物でも言える。
ビン・ラディンが率いたアルカイダというイスラムの過激派はアメリカの旅客機2機をハイジャックしてミノル・ヤマサキという日系アメリカ人が設計をしたワールドトレードセンターに突っ込んだ。これによってこの2棟からなる高層ビルは崩れ去っていった。そしてこの再開発案は国際コンペによって選ばれたのだが、前衛的なフォルムを持つダニエル・リべスキンド案に決定した。彼はユダヤ系アメリカ人であった。そして国家的な建設プロジェクトは多くの場合、母国出身の建築家に行わせるのである。何故なら国家の権力の象徴とも言えるような建築物に外国の人間が携わるというのはあまり良くないという概念があるからである。ほとんどの場合、国際コンペと言っても形式だけで母国の建築家に任せることが多い。(中国の場合、国家的なプロジェクトの多くは外国の建築家に任せた。北京オリンピックスタジアムはヘルツォーク・ド・ムーロンというスイスの建築家ユニットが設計したものである。これらは21世紀のフラット化を象徴する出来事であろうと思う。)アメリカはユダヤ人が支配している国でもあるからリべスキンドはうってつけだったのであろう。しかし、彼の設計案は前衛的でコストがかかるという問題があった。そして歴史的なコンペティションで決まったにもかかわらず、クライアントがその施工を渋り始め、収益性とコストが良いSOM案を採用し、訴訟沙汰の問題となっている。SOM のディビッド・チャイルズが担当したフリーダムタワーと呼ばれる高層ビルはリべスキンドにとって代わって、新たな経済性というものを重視した建築になっている。それほど建築や都市を描く上で効率性や経済という概念は重要なのである。現代建築家はこれを超えようと試みるが結局のところなすすべもなく敗れているのが現状である。1960年代から日本では亡くなってしまった黒川紀章等がメタボリズムグループを結成し、そして丹下健三が1960年計画を出して世界に日本が認められた時期であったが、これ以降のデザイン論は理想があまりにも重要視されて現実に伴わなくなり、現在までの繰り返しては戻る現象が起きている。このように国際様式は非情なまでに力を持ったものである。資本主義の世界において経済効率の有利な国際様式は非常にマッチしていた。そしてこの建築の前の様式ではフランスの芸術学校であったエコール・デ・ボザールの教える厳格な装飾を持つ建築がヨーロッパやアメリカを中心として世界でも一般的であった。
歴史においても建築は社会と密接に関係する。19世紀の後半においてこの新古典主義と呼ばれる、ギリシャやゴシックに見られた美しい建築をもう一度復興させましょうという概念は建築において基本的なものであり、常識であった。現代ではそのような教育は全くと言っていいほどされていない。これは19世紀と20世紀の終わりにデザインに関して根本的な革命が起きたからである。それらは世界大戦等により大量生産、大量消費が加速度的に世界中に広まり、それらは工業デザインとしてより速く、より合理的に、というものが社会の中心的な事柄であったので装飾をなくすべきで、新しい工業の時代ということも起因してこの芸術学校を打倒しようとする動きが活発になっていった。それがル・コルビュジェであり、各地で同じ志を持った人間達がドイツのバウハウス等を中心として近代建築運動を起こした。鉄やガラスというものは18世紀などからあったが、それらは決して本質的なものを変えてしまうには至らなかったのである。それほど時代、社会の流れというものは建築や都市を描く上で重要なものとなっている。20世紀前半の時代は自動車産業においては3度の経営の失敗から大量生産方式を確立した自動車王、ヘンリー・フォードがT型フォードという車種を大量に民衆や、また軍用に売買していた時期である。また自動車産業は近代建築においても関係しており、ル・コルビュジェの計画でもフランスのシトロエン社の名前をもじってシトロアン住居という自動車を建築に置き換えた概念を基にして、いかにして安く、大量に量産するかということが急務であった。(当時フランスは戦争の真っただ中にあった。)また戦争後には大量生産型から車種やスタイリングを重要視することが車には求められていた。それを行ったのがGMである。ゼネラル・モータースはスタイリングや車種を増やし、業務を拡大した。そして建築も戦後は先進国においてはスタイリングを重視した建築が主流になった。これもまた様々な産業が社会性というものに関連しているということの指標にもなる。豊になればなるほど人々は生活にその他プラスアルファのものを求める。人々の欲求はなくなることはない。心理学でも生命の危機(貧困や睡眠)をまぬがれると、愛にいき、そして物欲に走る。これらは人間の変えようのない原理でもある。1960年以降にモダニズムを超えようとする試みがなされてはモダニズムに帰るという原理が繰り返されるのはこの人間の原理と、社会というものにあると感じる。社会、資本主義はやはり経済性を求めることが多いのである。しかしここ最近においてはそれらが移り変わる傾向にあると言って良い。
グローバリゼーションによって大量生産、大量消費が促されるようになると人々は豊になり、機能を超えたものを付加価値として求めるようになる。女性がピアスやアクセサリー等を装飾したがるのと同じ原理である。しかしそれは視覚で、デザインの形体として提示するのは非常に難しい。だが人間には普遍的なものがあるのも事実である。人間が生まれ、死んでいくというのは絶対に逃れることのできない人間にとって初めからある最も偉大な発明でもある。そしてそれと同じものとして機能を超えたデザインの付加価値を生み出すことが重要になっていく。それは中国のデザインにヒントがある。北京オリンピックのスタジアム等はあの外部の表層のデザインは全く内部の機能には関係がないし、雨もりにも使われることがない。まったくの装飾と言っていいものであるが、それらは人々を魅了する。あのオリンピックにはオープニングから驚かされた。中国のスタジアムなど、水を表現する国際体育競技上などはあれはまさしくモダニズムにおける機能を超えた何かがあるのではないかと考察している。
建築のみならず、現代を変える革新と言ったものは少数の人間から起こる。そこには大量の資本ではなく、少数の誇大妄想的な人々が作る。建築において新しい時代を築いたのはミース、グロピウス、コルビュジェと言った革命家達である。彼らは20代の頃から同じ事務所で働いていたという共通点を持つ。これらは偶然ではなく、必然であろうと感じる。例えば情報の革命はシリコンバレーからほとんどの事が起きる。これはイノベーターがここにいるからである。革新を生み出すのは集団や大衆ではない。1万人の中の指で数えるぐらいの少数の人間である。国際様式の革新はドイツで起こった。当時のドイツはナチスドイツが統治していたころでもあり、古来より厳格な帝冠様式が主流であった。そこで疑問を感じ取った若者達が工業を中心とした新しい学校を開く。これがグロピウスの作ったバウハウスである。そこでこの学校を反ナチズムの脅威に感じたヒトラーはバウハウスを廃校に追いやり、彼等は新天地を求めてアメリカに亡命するしか方法がなかった。アメリカに移ったバウハウスは世界の名門大学であるハーバード大学に多大な影響を与えた。グロピウスが建築学部の学長に就任したからである。そこで教えたのは工業を基礎とする鉄とガラスとコンクリートでできた現代の基礎となる教えであった。そして現在もまたハーバードデザインはグロピウスのモダンデザインは受け継がれている。世界のイノベーションの中心はアメリカであり、ハーバードやスタンフォード、エール等の大学に世界中から最も優れた知を持つ人間が集まることによって起こる。インド、中国、韓国、ヨーロッパ、中南米などである。特に外国人で多いのが中国人とインド人である。彼等は留学生の半数以上を占める。国際様式がこのように選ばれていったのは時代の流れがそれを求めていたと言える。
グローバリゼーションによる利点は何よりも均質化である。均質化が問題点と言っていて何を言っているのかと思う人もいると思うが、大量生産、大量消費は多くの人々に同じものを大量に消費・供給させることによって起こる。メディア、食物、服飾、映画、住居、車など人間が生活するものが世界中で同じものになるということである。これらは初めはキリスト教などの宗教の伝達から、その後イギリスの産業革命期から大量生産が始まり、そして現在ではインターネットという軍事目的に開発されたものが民間でも使用できるようになって普及していったものである。個人用のパーソナルコンピューターをスティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニアックの2人が作った会社であるアップルで開発された。これがグローバリゼーション、均質化を引き起こす一番の要因になった。均質化が起これば、世界中の国々の人々同士でも同じ価値観の元、英語という共通言語を使用して話すことができる。同じようにクールなのはアルマーニを着て、ポルシェに乗り、オメガを付けること。これはチリ人と話している時にした会話であるがこれもまた均質化というものの賜物である。世界で何が正しくて、何が悪いのかという価値観がアメリカを中心として普遍的なものが世界中の人々に植えつけられている。そう、それがグローバリゼーションというものである。そしてこれらは大量の供給と消費を促すために、地域の発展には大きく貢献する。中国を例に出してみると、飢餓で3億人が苦しんでいたものがグローバリゼーションの恩恵を受けて今では1億7千万人減少しているのである。均質化は世界を飢餓から救う可能性があるのである。これらがアフリカなどで教育によって英語やパソコンなどの技術が教えることができれば、アフリカの貧困や飢餓なども解決される可能性も出てくることであろう。しかし、アフリカを支配するのは植民地などを持っていたアメリカやヨーロッパである為、先進国の資本主義はこれらの発展途上にある国から大量に安く材料や食物を仕入れている為にそれらがこの地域が発展することによって先進国のシステムが崩壊してしまうのではないかという懸念が経営者などの声に上がっている。これらはアフリカなどの地域を発展させることを大きく阻害しているものでもある。また、イスラム等の地域は宗教によって外部からのものを排除しようとする習慣があり、これらも均質化を妨げる要因となっている。均質化というものは地域を効率よく発展させるのに役に立つ。
一方であるのは均質化によるデメリットである。これらを促進させていくことによって出てくるものはアイデアの普遍化、個人として能力の低下である。能力の低下によって見られるのは個としての能力は弱い反面、集団としての力は価値観が均質化することによって強くなるのである。個として弱くなるということにより、一番の問題となるのは指導的な立場を行う人間の欠如、そしてイノベーションである。破壊的イノベーションという言葉がある。これはハーバード大学教授クレイトン・クリステンセンの言葉であるが、世の中を大きく変えてしまうようなイノベーションである。例えば、最初はテレビもなかったし、パソコンもなかった。携帯電話もなかったし、誰もが空を飛べるなんて思っていなかったのである。そして地球が丸いこともである。これらを生み出したのは人間であることは間違いがない。だがそれは均質化にあるような大衆が生み出すものではない。ほんとうに少数である。圧倒的に少ないアウトローの人間が技術革新や世界を変えるような所業を生み出す。例に出すとライト兄弟が空を飛ぶために彼等は自転車屋であったが、それに翼を付けて空を飛ぼうとした時に大衆は頭のおかしい人間が何をしようとしているのかといった。そして当時の有名な大学教授もまた人間が空を飛ぶなんて物理的に不可能だと言ったのである。こんなこと言われたら尻ごみして諦めてやめてしまうが、彼等は本当に空を飛んでしまったのである。現在の飛行機を生み出したのはたった2人の自転車屋の人間が生み出したのである。個人用のパソコンもまた大学中退の2人がガレージで創業した会社で生み出したものである。均質化が辿るのはイノベーションの低下でもある。しかしイノベーションを生み出すのはADHDと呼ばれる人々であることが多かった。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、織田信長、坂本竜馬、エジソン、アインシュタインなどはこのADHDと呼ばれる障害を持っていた。これらを持つことによって他人と違う考えをもっていたことにより人々に大きく貢献する発明や考えを生み出した。人と違うということは革新を生み出す第一歩となる。
多様性というもの
多様性というものがある。人間は動物であるから他の動物達と同じようにあてはめて見ることができる。多様性とは何か、それは場の力であるし、その種それぞれの在り方かも知れない。しかし同種であっても多様性は存在する。人間であっても、黒人、白人、黄色人種とそれぞれに存在するし、基本的には言語も違う。しかし均質化することで色々な人々が共通の価値観をもって話すことができるしいいじゃないかという意見も出てくると思う。確かにグローバリゼーションの輪からは逃れることはできない。しかし多様性を持たない種は滅びていくという末路をたどっているのも事実である。均質化は競争という概念から見ても弊害が起こる。均質化は自分と同程度の人間が大量に機械的に増えていくということである。それが世界をとうして・・・人間にとっても動物にとっても、競争や争いというものは平和論から言うとなくても良いものだが、人間の発展に多大な貢献をしてきた。今必要なのは多様性を持つ国際様式ではないだろうかと切実に考えざるを得ない。そして国際様式はグローバリゼーションに多大な影響をもたらしてきたのは言うまでもない。人間の作りうる物理的に最も大きなものが建築であるからである。産業革命以降、建築を大量生産させるという概念が出てきてから現在に至るまで、国際様式は人類にとって均質化を促してきた。何よりも目的が世界中何処でも地域とかに関係することなく存在できる様式が国際様式だからである。だが今必要なのは多様性をもった国際様式ではないだろうか?自分にはそれが建築の持つべき本当の姿であると思っている。21世紀はますますグローバリゼーションが進むことになり、世界中の人々がパソコンを駆使して情報を扱うようになる。それは新聞やテレビが出来た頃と同じような偉大な革新である。しかし一方で考えなければ人類の発展を妨げるツールにもなりえるのであるということを言いたい。
3.情報化革命と利便性
「ハングリーであれ、馬鹿であれ」 スティーブ・ジョブス
彼等は反逆者であり、ヒッピーであり、ジーパン姿の若者であった。今でもアップルという会社は反逆心旺盛である。そして当時20代の若者達が本当に世界を変えてしまったのである。パーソナル・コンピューターの起源はスーパーコンピューターからなる。これは100年以上昔にチャールズ・バベッジという学者が計算機としてプログラムという概念を生み出したことから始まる。そしてこれらは迅速に計算するためのツールであった。それらはパソコンの世界のドンであるIBM等がスーパーコンピューターを作成し、そこからそれらを個人用のパソコンにすることを当時、高校生であったスティーブ・ジョブスやスティーブ・ウォズニアック等がHPという会社にインターンシップで働いていた時にスーパーコンピューターに出会ったことから始まる。彼等は大学を中退し、アップルという会社を創業。そして商業用の世界で初めてとも言えるパーソナルコンピューターを作ったことによって情報化は急速に進んだ。そしてこれらは人々にとって情報を簡単に収集できるツールとして、新聞として、テレビとして、ゲームとして電話として、仕事のツールとして使えるように進化していった。これらの進化により新聞やテレビなどのメディアに代わるものとなりつつある。情報化のもっとも効率のよい所は間違いなく距離がなくなるところにある。距離がなくなれば世界中何処にいてもコミュニケーションを取ることができる。インドにいながら、中国の人間やアメリカ等と情報を交換し合えるのが利点である。これらは軍事目的でできた情報網から発生している。情報は本や新聞などの紙媒体で行われていたが、テレビや20世紀後半から起こったコンピューター革命により映像により映し出された情報を得ることへ移り変わりを経ている。21世紀以降、情報の世界にも転換が訪れている。テレビによる映像の時代から、パーソナルコンピューターで自分の見たい情報を得る、ウェブ2.0と言われる検索の時代へと変わり、そしてウェブを巨大なコンピューターとして見るクラウドコンピューティングの時代へと移り変わりを経ようとしている。ウェブというものは膨大な情報の数により構成されている。その量は200億ページにおよぶテキストデータから成り立っている。これらは加速度を増して増えていることは言うまでもない。そして検索エンジンシステムの基礎を作り出したのは20代の若者であったスタンフォード大学のコンピューターサイエンス学科の博士課程に所属していたラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという若者であった。検索エンジンシステムで著名なのはGOOGLE、YAHOO、百度などである。これらの全社2社はアメリカで後者1社は中国で生まれたものである。彼等に共通するものは20代で変革をもたらしたということであった。世界中の知識を一つにすると言う試みは古代より神話などでもたらされてきたものであるが、それを現実のものとして成し遂げようとしたのがGOOGLEという会社の企業理念でもあった。企業理念は会社のスケールを決める上でも重要なものとなる。IBMという会社は基は小規模の雑貨類を扱う会社であったが、会社名などを世界規模の会社にすることによって会社全体が奮起し、名実ともに世界のIBMとなっていった。情報化による利便性はグローバリゼーションの促進でもある。情報が普及することによって地域の教育までもが促進されて生産性が向上することにより地域が発展し、飢餓がなくなるという利点もある。これはトマス・フリードマンのフラット化する社会でも書かれているものである。これはグローバリゼーションを論点において述べられているものであるが、これらの要因は情報化革命にあるのは言うまでもない。テレビ、パソコンという端末は間違いなく世界共通の概念、文化をもたらすことに成功した。そしてこれらを生み出したのはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスといった学校をドロップアウトした若者であった。そして何よりも距離をなくすことから、情報を集めて、引き出すという情報の転換期が訪れたことによって私たちの周りには膨大な情報が集められている。少し著名になれば検索することによってその人の評価やプライバシーまでを除くことができるのである。
広告においても全体を統一させて大量に普及させる時代から個人を対象にするダイレクトマーケティングの時代へと転換しようとしているのである。大衆から個人の時代へと確実に変化している。また文化は均質化を伴いながらも、地域を見てみると違いが一目で分かる。秋葉原にいるコミックマーケットにいる人間と、六本木のクラブに行く人間では間違いなく違う。検索エンジンによって好きな情報を取り出すことが容易になったために階層という概念は促進されることになる。古代より階層性は存在していたが、この民主主義、資本主義の社会においても、階層性は促進されることになるであろう。何故なら欲しい情報だけを取り出すと言う事はその人の個性や生活そのものが出るからである。また空間によっても変化が起こっている。それは情報を使う為の端末の派生により、建築においても機能の変化が起こっている。テレビが出来たことにより、テレビ、ソファーの概念が出来た。そしてパソコンの誕生により、パソコンと椅子の概念が出来たのである。現代社会は革新的な発明品とともに空間までもが変化してきている。自動者によって都市が変容したように、情報化革命によっても建築は変わらなくてはならない。そして検索エンジンの誕生によってデザインの構成も変わりつつある。誰でも最先端のデザインを知ることができるために、素人でもある程度のデザインを行うことが可能になっていったのである。「デザインは情報の集合である。」という言葉は確実に21世紀の定義となりつつある。もはや建築は機械ではなくなり、情報により構成されるようになりつつあるのである。
「デザインは情報の集合である。」と定義すると何が起こるであろうか?
膨大な情報量を基にして設計をするという事はどういうことであろうか?GOOGLE、YAHOO、百度、フォトショップ、イラストレーターを使い加工し、GOOGLE EARTHで敷地を決めて設計する。これらはすべて出版社の行う編集的要素である。これらは全世界規模で共通して行われることになるものである。そして編集作業の上手い人間がデザイナーとして成功する側に立つであろうと考えられる。しかしまた、これらの法則は創造というものの妨げになっているのも事実である。創造は大概は誰もが考えない、違う考えから生まれる。均質化したツールによるデザインの構成はグローバリゼーションの利点である共通の文化をもたらすが、その文化独自のデザインを生み出すことが難しくなる支障が出てくる。建築や工業デザイン等は情報により構成されるものになる。膨大な情報量によって構成された検索エンジンはデザインそのものまでを変えてしまった。もはやこの定義は情報化革命時代の不可欠な概念として捉えられることであろう。もはや住宅は住むための機械ではない。膨大な情報量によって建築までもがデザインされているのでいる。膨大な情報は本当に意味のあるものであろうか?膨大な情報量はもちろんのこと実際とは異なる情報も定義している。実際に物質を介して行くのと、情報だけでその場所を知ることはもちろん違う、そこには個人の偏見なども混じっているからである。例えば情報だけを頼りにして、秋葉原を知っているというのと、実際に電子機器の部品専門店や、同人誌ショップに行くのはわけが違う。それと同時に六本木の外国人が集まるナイトクラブに行くのと、ただクラブというものを知っているというのでは訳が違う。
一方であふれる情報は人々を混乱させる役割を持つことがある。無数ページの中で実際に真実を語られているものは少ない。しかし人々はそこに行ったきになる。知ったきになる。物質を介すことなくパソコンから与えられた情報により行動が決められてしまう可能性が起きる。これは非常に危険である。何故なら人間というものは物質でできているし、コミュニケーションを取る上で最大の方法は人と人が直接介して行うものである。そして建築は最大の物質であり、今物質とこのウェブという虚構に近い無数の情報により構成されるようになってきているのである。デザインは情報の集合であるという言葉は現実のものとなってきている。無数の情報で構成された虚構と人間から始まる物質の中で私たちは生活しているのである。そして情報化による利便性とは何か?第一に考えられるのはいい意味でも悪い意味でも個人が無数の情報を手に入れたことである。世界中何処に行っても検索エンジンをとうして欲しい情報がいくらでも手に入る。そして英語、中国語、英語で書かれたものがウェブの世界では大半を占める。これはアメリカで情報革命が始まった為、アメリカで広まるというのは当然のことであるが、日本はアメリカの影響を強く受けているため、その文化が流れ込んできたということ、そして先進国でなくてはパソコンを持つことは難しかったのである。そして中国は発展途上の国であったが、北京オリンピックでも承知のとおり飛躍的な成長率で一気に先進国の仲間入りを果たしてきた。そしてこの国は世界一の12億人の人口がいる国である為、インターネットが普及したことによって一気に中国語のウェブページが増えていったのである。そして次に考えられるのが発展を続けているインド、ブラジル、ロシアである。これらの国もアメリカのリーマン・ブラザーズ倒産から始まる金融破綻によって一気これらの国に資本が流れてくる可能性もあるため、資本は技術と同時に流れてくる事が多いため、一気にウェブの普及率も高くなる可能性がある。事実20年後はもはやインド、中国は日本を軽く超えるインターネット人口になるであろう。そしてインターネットは産業の発展に大きく貢献するのである。ウェブと英語が使えれば先進国の技術や情報などを知ることができる為、英語を公用語として使うインドは情報化革命において非常に強みを持った国になったと言える。特にインド工科大学は政府が国を発展させる為に力を入れたこともあり、世界でも数学や技術に強い大学として評価を得ている。むしろアメリカのアイビーリーグ校よりもインド工科大学を卒業する方が難しいと言われているぐらいである。そして中国もまた工科大学に力を入れている。特に精華大学は世界でも屈指の優秀な人材を生み出す学校である。ハーバード等の世界の一流校のリクルーターはこの大学に直接来て優秀な学生をアメリカに集めようとしているぐらいである。今ではハーバードやエール、MIT等の学校には中国人3割、インド人が2割である。情報革命の聖地であるシリコンバレーでも中国人とインド人は優秀なエンジニアが多いことで有名である。このような先進国になればインターネットの普及も早くなり、逆に発展途上国はパソコンの普及率が少ない。世界で見ればパソコンを持っている人口は全体の3%程度であることを忘れてはならない。パソコンを持っている時点で世界から見たら富裕層なのである。しかしグローバリゼーションが起こっている原因はパソコンにあると言える。電話、交通、新聞、テレビ等の発達で最初のグローバリゼーションが起こったが、確実に世界規模で国際化を促したのがパソコンである。それでは何故この少ない所持数なのに世界に対して影響を多く持ったかというと、イノベーションを起こす側が富裕層の人間であるからという理由がある。これらは現実であり、でっちぼうこうから成り上がるということは現実にはほとんど起きない。社会は西欧の中世社会のように与えられたレールみたいなものがあり、大半の人間はそこを歩いて一生を終えることになる。これらは希望をそぐものになると思うがそれは現実のものとなっている。しかし一方で飢餓をなくすのも事実である。情報化が伝達することにより、産業が促進されて飢餓が減るというものは現実に起こっている。これらは中国で例があり、1億7千万人いた貧困でなやんでいる人々がグローバリゼーションと産業の発展がもとになって5千万もの人が飢餓で苦しまなくなったのである。これらのグローバリゼーションの原因に少なくとも情報が起因しているのであるから情報は産業の発展や教育にとっても重要なものとなっている。それでは身近な所で情報化の恩恵を受けるものはなんであろうか?それはネットバイキングやネットショップなどである。ネットでほとんどの物を注文し、希望した場所にその指定した商品が送られてくるシステムである。例えばアメリカの巨大なスーパーであるウォルマート等はインターネットバイキングに力を入れている。広告も食品もまた大衆に均一のものを大量に提供するという時代から個人の注文するものを提供していくという時代に移り変わろうとしている。そしてブックストアではアマゾン・ドットコムやマネーバイキングシステムのPAYPALなどのシステムが発展し、インターネットさえあれば一年間全ての生活ができるようになってきている。これはギネスブックでも証明されているものである。そして情報を使うことにより空間を使う必要性が出てきた。必ずコンピューターを置く場所が必要であることである。これらの利便性は私たちの日常にインターネットを使用するという概念ができつつある。(先進国において)そしてこれらは21世紀においては世界中で確立するものとなる。必ず世界は一つになることは間違いない。
その兆候としてアメリカのエンパイアステートビルディングを日本企業である三菱地所が買い、日本の北海道の土地をアラブの投資家達が買っているということがすでに起こっているのである。現代社会は情報化を持ってして更に技術革新が加速度的なスピードが起こっている。もはや現代様式といったものも。大体芸術などの様式なども100年、200年単位ではなくもはや猛烈な速度で革新が起こっているのである。マック、マッキントッシュ、グーグル、Iポッド、バイオ、ノキアの携帯、YAHOO、ソフトバンクモバイル、百度などの革新はあっと言う間に世界に知れ渡るのである。もはや革新は300年前のような地域のみの革新ではなくて、地球全体で行われるようになっているのである。また携帯も軍事目的で発明されたものである。ケーブルを使用することなく無線で味方と交信する為にできたものである。そしてフィンランドの携帯電話会社ノキア、日本のNTTドコモ、などの会社は携帯を先進国の人間が当たり前に持つという文化を作り出した。アメリカ、韓国、日本などは20代の若者であれば持っている確率は更に高くなっている。日本ではほとんどの人間が携帯電話でコミュニケーションを取る。メール、電話、ウェブ、最近では携帯でテレビを見れるようになってきている。携帯電話の普及率は日本では信じられないほどのものになっている。実際に携帯電話がないと友人などとコミュニケーションが取れない、また携帯を使わないと生きていけなくなるような事態もまた起きているのも事実である。
また発明において携帯とウェブの世界を完全に繋げる商品としてIポッドなどの商品がでている。携帯電話、パソコン、そしてそれらから発展してできたIポッド、ミニパソコンなど情報化の加速化を進めるものは多角化して世界中に広まっているのである。
「情報化は進化する。」
ウェブブラウザ、検索エンジン、ウェブ2.0、3.0、クラウドコンピューティング。
情報化の世界もまた革新が起きている。これらは大衆の時代から個人への時代へと移り変わったことが原因としても挙げられる。ネットスケープのバーナード・リーと呼ばれる開発者がネットブラウザを開発した頃が最初のインターネット時代であると考えられるが、それらを大衆化し簡単に誰でも使用できるようにしたのがビル・ゲイツ、ポール・アレンが創業したマイクロソフト社のウィンドウズである。ウィンドウズはパソコンを大衆用に更に使いやすくしたものであった為、ネットスケープを超えて爆発的に普及した。それによりビル・ゲイツはフォーブス紙で世界一の大富豪となっている。ウェブブラウザの進化、そしてただの計算機としか使い道がなかったコンピューターを革命的に音楽や映画、ゲームなどをして日常の生活に近づけたのがアップルである。彼等もまたスティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニアックという2人の若者であったが、当時スーパーコンピューターあったヒューレット・パッカードでインターンで来ていた、ジョブスとそしてそこで後に働くウォズニアックが数年後に個人用のコンピューターを設計し、開発したことが最初の情報化革命の始まりであった。この2つの会社はお互いに協力し、またライバル社として争いながら現在もIT界を代表する企業として提携を結んでいる。彼等は世界中でこの便利なパソコンを広めたいという壮大な目的をもって設立され今にいたる会社である。
彼等は壮大な夢を持ち、創業されたものである。彼等は英雄として今に至っているが、それまでに至るまでたくさんの失敗があったことは言うまでもない。スティーブ・ジョブスのスタンフォードスピーチでの言葉、「ハングリーであれ、馬鹿であれ。」この言葉は本当に人々に活力を与えてくれるものである。
ここまでは最初の情報化革命の創生期の話である。創生期以後、パソコンは世界中に増え続け、そしてそれと同時に世界中の人々が誰でもウェブ上に情報を書き込むことができるようになったため、情報は膨大な量になっていったのはいうまでもない。これをいかにして整理し、引き出しやすくするかが次のIT業界の課題になっていったのである。そこで今ではよく知られる、YAHOO、GOOGLEなどの会社は時代にそくしていると同時に、スタンフォードの博士課程という共通する場所で生まれた会社であった。台湾から来たジェリー・ヤン、そしてアメリカ人であったディビッド・ファイロというスタンフォードの博士課程の時にウェブ上の情報を整理し、大衆にその検索エンジンをとうして必要な情報を提供するという目的でYAHOO(ヤッホーという掛け声をなじっている)は設立された。またこの創立の過程に日本のベンチャー企業であった今では日本を代表する会社となっている在日韓国人であった孫正義が資本提供することによって拡大していった会社であった。そして今では世界を代表する広告検索エンジンの会社であるGOOGLEは(10の10乗という意味がある。)彼等もまたスタンフォードのコンピューターサイエンス学科にいた博士課程のラリー・ペイジ、サーゲイ・ブリンという若者である。彼等はユダヤ系のアメリカ人である。ユダヤ系はアメリカで少数に位置していながらも経済界、政界に多大な影響を与えている。ユダヤという人種は5000年にも及ぶ歴史であったがほとんどが迫害の歴史であった。そこでユダヤ人達はこの現世で生き残る為にいやでも上に行くしかなかった。ユダヤ教の経典であるタルムードは非常に有名なものであるが、これは5000年間の歴史の中で現世でいかに生き残るかという処世術が書かれている。彼等の概念にあの世などはない。現実のみが世界なのである。建築家でもミース・ファン・デル・ローエ、ルイス・カーン、ダニエル・リべスキンド等はユダヤ人である。GOOGLEの創業者もユダヤ系アメリカ人であったが、彼等は先輩であったYAHOOの力を借りて操業を軌道に乗せていった。
情報化革命による価値観の共有
検索エンジンの特筆すべき所は欲しい情報を世界中の誰もがパソコンさえあれば簡単に取り出せるという点である。これらは情報化の新しい時代として移り変わっていった。そして検索エンジンはウェブ2.0と呼ばれた情報化の第二の時代へのきっかけとなった。日本で作られた2チャンネルと呼ばれたユーザーが書きこんで一大メディアを作り上げるもの。そして画像や動画を投稿してそのサイトを見た人間が好きな動画を見ることができるYOUTUBEなど、そして今では違法になっているが好きなアプリケーションや画像、音楽、ゲームを投稿して取り出せるようにするファイル共有サイトであったWINNYなどこれらは情報化の新しい時代としてメディアなどでも取り立たされるようになっていったのである。ユーザーが提供する情報によってそのサイトが作られる。ユーザーが中心となるのがウェブ2.0の特徴でもあった。そしてとくにYOUTUBEなどはGOOGLEが買収したこともあり、検索エンジンシステムに関する情報が見ることができ、また世界情勢や国際会議の様子などの世界の最新の情報を知ることがきるのである。また音楽もまた情報により変わっている。Iポッドなどのパソコンを介した音楽機器の誕生により、既存のCDを販売する音楽業界は一気に落ち込んでいるの事実である。またYOUTUBE、WINNY等でも最新の曲が無料で提供されることからも、っそこに個人の資本が行かない為にその結果音楽、または映画などの業界は業績が落ち込んでいる。そしてそれらはその他様々な業界に浸透している。やはり情報化の台頭と共にそれらに変わって落ち込む業界も多々に及ぶ。それらを説明したい。
情報化による台頭と衰退
情報化による台頭と衰退はどの業界にもある。特に痛手を被っているのはIポッドの台頭によって痛手を受けた音楽業界だけでなく、特にメディアの移行が情報化革命により起こった為に大打撃を受けている。もはやボディブローでもカウンターでレバーブローに入ったぐらい強烈である。特に新聞や雑誌といったメディアは下降ぎみになっている。特に創造していただきたいのは新聞である。新聞は現在の40代、50代、60代は購入しているものであるが、10代、20代はどうであろうか?これは深刻で今現在情報を頼りにしているのがテレビやインターネットと呼ばれるメディアである。若者の活字離れが起こっているので新聞をあまり凝視しない。特に新聞を見る時はほとんどの場合テレビ欄だけである。しかも情報を得る時には無料のインターネットというものを使えばことたりる。そして新聞は月々3000円以上かかるものであるため、今の若者が購入するとは言い難い。そして雑誌もまたネットで情報を見ることができるのでわざわざお金を出して買うものではなくなってきている。これらの業界はいやおうなしにネットの対策が必要になってきている。2009年になろうとする現代では金融危機とともに全ての業界の株価が減少し、どの業界も冷え込んでいるが、この情報化革命は産業革命時代に代わる新しい革命期なのでまだまだ続くと考えられるから新聞といった旧来の媒体は変革を求められている。人間の行動は一日24時間であるということは変えようがないから、そこに新しい生活であるネットというものができたことによって一方ではそこに従来あった文化は失われるのである。その中と言うのは勝つものがあれば負けるものもあるし、得るものがあれば、失うものもあるということである。産業革命時代に馬車や馬を使う文化から自動車の時代へと変わっていったように、産業革命時代の大衆を意識した大量生産から個人への情報化革命時代へと移行しているのである。そして情報化による台頭と衰退は確実に私たちの日常で起こっているのである。台頭はそれぞれの国にも起きている。アメリカがイギリスに変わり超大国になった20世紀はソ連などとの冷戦がったが、この国は圧倒的な軍事力を背景にして世界の支配者となっていった。そしてブッシュ政権から初の黒人大統領であるオバマが大統領になったが、ウォール街の金融危機は80年前のブラックマンデーである世界恐慌の再来を予感させる。経済を長年牛耳ってきたアラン・スパーリングなどの著書にも、世界恐慌が訪れると予見している。そして21世紀はアメリカではなく、アジアにその勢力が移っていくと考えられる。
特定地域に集まる移民
現在のアメリカの一流大学の留学生はほとんどがアジア圏の人間である。特に中国、インドの国から来ていることが多い。彼等は今までの成功のルートを考えるのであればアメリカに永住してシリコンバレーや外資系都市銀行に勤めて莫大な給料をもらって生活するという成功モデルがあったが今の金融危機によってアメリカの自動車業界であるフォード、クライスラー、GMなどのビッグ3が苦境に立たされていることもあることだけでなく、サブプライムローンの問題によりアメリカ企業への世界の信頼が一気に疑問視されてきたのである。今では中東、アラブなどの石油大国、ブリックスなどの経済組織を組んだ、ロシア、ブラジル、中国などの国に世界の資本が移動してきている。その現象として世界のドルは信用がなくなり、むしろ円等のアジア金融に買いが入り、円高が進んでいるのである。情報の世界でもジェリー・ヤンも台湾出身のアジア人であるし、韓国人である孫正義もまたアジア出身の人間である。またソフトウェアを扱うサン・マイクロ・システムの経営者もインド人である。アジアはアメリカにとって重要な人材供給の為の場所であったのである。中国やインドの人間はアメリカ人の10分の1の給料でアメリカ人以上に働いてくれるため、アメリカの外資系企業はこぞってアジア諸国に人材を求めて投資した。特にインドでは情報や数学に教育の力を入れているということと、英語が話せるということを武器にゴールドマンサックスの統計によれば20年後はもはや日本を越して中国とインドは世界で2位、3位を争う国になるであろうと予測している。そして2050年にはアメリカを変わる大国になると言われている。時代を読むということをうまくできた国が中国とインドであったし、それにこの2カ国には2カ国合わせて20億人に行くほどの人口がいるのである。これらが経済発展し、完全な先進国化すればもはやアメリカを代わる超大国となる。
イギリスからアメリカに以降した時も同じ現象が起きていたのである。アメリカは17世紀にアダム・スミスやトマス・ジェファーソン等が自由を掲げた国を作ろうとしたのが最初の起源であると言われているが、アメリカはイギリスの植民地だったのである。コロンブスがアメリカを最初に発見した時はインディアンが住んでいたが、イギリス人が深く大陸に侵入し、先住民を押しのけて植民地を形成した。アメリカはイギリス人の手によってできた場所であったので、古くから鉄を使う技術、織物などを大量に生産する技術などが母国であるアメリカから入ってきていたのである。これらはアメリカを超大国にする要因となったものである。鉄とガラスを精製する技術、そして量産化する技術がイギリスから入ってこなかったら、広大な領地を持ったアメリカが産業革命を成功させてイギリスから独立し、民主主義を掲げる超大国にはなりえなかった。ヘンリー・フォードの自動車の量産型システムもアンドリュー・カーネギーの鉄鋼技術もなかったはずである。それを背景に考えれば古くはイギリスの植民地であったインドや中国はアメリカと同じ広大な領地、労働力、そして資源をもってすれば次の超大国になるのは目に見えている。これらは情報革命という新しい産業が起因して起こっているものであると言える。また日本は第二次世界大戦後に大帝国主義から民主主義に変わったが日本国憲法を作ったのはアメリカである。日本はアメリカのベトナム戦争に必要な軍事機器や自動車の輸入などによって大きな利益を得て、高度成長期に突入し、経済大国の仲間入りした。日本は今でも携帯や情報機器に関する精密機器は世界屈指のレベルとなっている。
このようにしてその国の経済が発展するのは何かしら超大国であった国に関係しているというものが見つかる。これらは真実であって超大国との関係を持つことは重要なことであると言う事が時代背景から分かるのである。超大国であったイギリスにアメリカが影響を受け、次に超大国になったアメリカに中国やインドが影響を受けているのである。
情報は何から構成されるか?
では情報革命は経済発展に密接に関係するものとなっているが情報はどのようにしてできているのであろうか?これもまたイギリスから派生したものである。コンピューターの概念は計算機から生まれたが19世紀にイギリスで生まれたものである。パソコンは何から構成されているかと言うと1と0から構成される。これらの二進法の数字が無数に関係することによって現在のパソコンができているのである。プログラミングを行う時は今では人間に分かりやすい言語で入力するが、機械が読み取る情報は1と0で構成されているのである。これはシンプルな方が機械にとって分かりやすいことが利点である。全てのウェブブラウザ、計算機、フォトショップやイラストレーターなどのアプリケーション、GOOGLEなどの検索エンジンもまた元をただせば1と0の情報で成り立っているのである。あまりにも複雑化されたウェブ上のシステムは私たちにそれらを理解することを困難にするが、簡単に言うと1と0で構成されるものなのである。至ってシンプルであると言える。動画投稿サイトもこの単純な構成でできている。ス全てのものはシンプルの方が構成を行いやすい、設計しやすいのである。ミース・ファン・デル・ローエの言葉で「より少ない事はより豊かなことである」はウェブアーキテクト達にも反映されているのである。またその情報の波にも新しい概念が誕生しようとしている。検索エンジンで無数の情報を簡単に取り出せるようになってきたが、その無数の情報があるウェブ自体をスーパーコンピューターとして使おうとする試みである。それを「クラウドコンピューティング」という。
クラウドコンピューティングの時代へ
クラウドコンピューティングのクラウドはネットワークを指す。これは21世紀の始まりにできた概念であり、GOOGLEのCEOであるエリック・シュミットが検索エンジン会議で提唱した言葉である。これはネットワーク上を一つのスーパーコンピューターと考え手でデータやシステムの処理を行うことをさす。これらは従来は個人のパソコンの中で行っていたため、容量を大きくすれば処理能力が遅くなるということが起きたりしたが、ある程度の登録料を払えばネットワーク上でコンピューターのデータ管理を行うことができるため、ネットワークを巨大なコンピューターと化すことができるシステムである。クラウドコンピューティングはマイクロソフトでは2008年からこれらのサービスが受けられるようになっている。これらは情報化の新しい概念である。これらのサービスを取り入れている企業は多くなりつつある。何故ならあまりにもネットワークが巨大な為に会社でデータを保存するよりもセキュリティが保護される為である。この技術革新によりコンピューターはより速く、より効率よく作業できるようになるのである。このようにして情報は20年あまりの短期間でより便利に進化を遂げてきたのである。
利便性が生む弱体化
情報化などの利便性が進めば進むほど、人々にとって時間の短縮や労力を減らすことができるなどのメリットがある。しかし一方で失われるものもある。ストレスというものは最低限私たちにとって必要なものである。過多なストレスは内部だけでなく外部までも崩壊させるが、必要最低限のストレスは人間にとって必要である。何故ならストレスがまったくない状態で人は生きていけなくなるからである。世界大戦時のナチスドイツの人体実験場などで3日間五感をすべて遮断して人間を放置すると食べ物がなくて死ぬのではなく、何も刺激がないと発狂し、精神が崩壊して死んでいくという結果がでている。このように肉体的なストレスがなくなるという事は人間にとって有害な部分もあるということである。あまりに快適すぎる環境は人間を弱くする傾向がある。日本は経済が発展し、世界でも特に恵まれた国である。食べ物には困らない、格差社会はあるといっても、最下層に位置している人間でも食べ物が住居にはまともに働いていれば困ることはない。ある意味では資本主義社会が完全に定着し、治安などを含めて安定したものである。しかし一方では完全な安定、資本主義や経済至上主義、大量生産、大量消費が確立されたことにより、全てのものを取りかえることのできるものとして考えがちである。食べ物も、衣服も、携帯も、そして人間までもが取り換えがきくものとして捉えられるようになっている。友人や恋人でさえ取り替えて消費するという事態ができているのである。それらは完成されてしまった資本主義社会の問題でもある。そこからいかにして脱却するかが重要であると感じる。
安定や安全、ストレスがないものへと人間は古くから行動するようにできているが完全にそれらがない社会は人々の個々の能力の低下を生み出しているのである。個々の力が弱まれば集団の力も弱くなる。デザインの世界でも最早、個の時代ではなくユニットを組んでデザインを行う傾向が強まっているが、デザインを主に行うのは資本主義の確立した先進国であるため、個の力が弱くなったため、もはやユニットを組むことなしにはデザインを行うことが難しくなった為であろう。しかし弱い個同士で組んでも、世界で通用するものは生まれない。日本は横並び主義が強いので横並び同士で狭い世界で争っている。そこで優秀であっても世界で渡り合えるとは思えない。彼等は未だに日本が経済大国であるということを勘違いしている人間も多い。もはや日本は下り坂の国なのである。これらを私たち、特に10代、20代の若者は実感しなくてはならない。近い将来必ず中国やインドの優秀な人材達といやおうなしに競争しなくてはならない時代が来る。その中でその現実を知っているのと知らないのでは大きな差異が生じるのである。グローバリゼーションの波は東京においての外国人の増加を見てもわかるとおり身近なものとなっている。そして彼等は日本人の若者より大体が優秀である。それは当然のことであるが異国へ来る人間というのはある程度覚悟をもってきている。そして覚悟やリスクを承知で来た人間は強い。エネルギーが違うのである。彼等移民は大概が国境という隔たりがない。これは素晴らしいことである。例えばヨットなどを使用する競技を行う人間もまた国境がない人間が多いと聞くが、国境がないというのは21世紀にとって非常に強みになるものである。情報化の恩恵を私たちは受けているのだから、何処に行くにもある程度の情報を知ることができる。そして英語をもってすれば大抵は度胸と行動力があれば直接異国へ行って生活することも可能である。
特に現代社会の適正を考えるならば畑を耕しながら作物を得るタイプ、これが日本人は大半であるがこのタイプは大量生産、大量消費型の社会は非常に向いていた。しかし、様々な人々が入り混じり、彼等と交流を取らなくてはならない21世紀の社会人モデルは何処に行っても多種多様な人々と英語を駆使して違う文化を理解した上で彼等と闘っていかなくてはならない。同じ場所にいるということは安定をもたらすが、広い世界を知ることなく終わってしまう。世界は広く、様々な人間、文化、生活。そして言語がある彼等とリスクを冒さないで交流しないというのは自分にとっても有用であるとは言えないのである。いつもと同じ道からでて違う道を歩く、知らない人と話してみる。それを行うだけでどれほど広い世界を知り、自分の愚かさに気付くであろうか。自分はできるだけ強大な他者に会い、どれだけ叩かれたか分からないが本当に広い世界を知った。今必要なのは多様性というものである。どれだけ広い世界を知り、どれだけ違う人間を理解することができるかが重要である。本や情報だけに頼った知識は本当に違うことが多い。自分でその場所に行き、勇気を持って自分より強大な人々に挑むことに意味があるのである。これらは情報化で利便性が増してきた今、直接その場所を見て、聞くという物質的、直接の人と人とのコミュニケーションを取ることを忘れてはならない。噂と実際は絶対に違う。これは自分の体験から言えることである。
情報化による移民の流動性
インターネットの発達により、海外からの留学生はより増えたことであろう。これは何処にいっても英語で開設されたウェブサイトがあるために、情報を簡単に知ることができるようになったからである。これらは国境をなくすという役割に大きく貢献している。研究室内にいる留学生もまた、インターネットで研究室のサイトを見たことによって日本に来た。情報化は国境を越えた流動性を加速させた。外国人労働者、外国人留学生にとっても情報化により様々な国に比較的容易に行きやすくなっている。特に留学生が多いのがやはりロンドンやアメリカであるが、近年ではアジアへの留学生もおおくなっている。これはアジアの発展などにより世界情勢の変化が考えられる。イギリスやアメリカは英語圏であり、特に教育が世界でも屈指のレベルであり、世界の大学の順位ではトップ10はアメリカとイギリスで占めている。ハーバードやエールなどのトップ校はこれらの留学生を積極的に受け入れている。そして勿論のこと世界で最も優れた人材が競争をするため、母国に帰るとしても、アメリカに残るとしても、どちらの国でも重宝されるのである。彼らには国境という概念がない。インターネットにより、距離がなくなった為にできるようになったことであると言っても過言ではない。
3.大量生産と大量消費
大量生産と大量消費が作り出す社会・・・
大量生産と大量消費が作り出すものは何か?まず大量生産が始まったのは16世紀~17世紀のイギリスから始まった産業革命からさかのぼる。またこれと近い時期にフランスでも革命が起こり、ブルジョワジーと言った貴族階級中心の生活から、今までは中流に位置していた中産階級の市民が政権を取る新しい時代へと移行していった時代であった。またイギリスの産業革命は鉄鋼や織物等を中心としていかにして多くの市民に効率よく、同じものを大量に提供するかが経済や国を発展する為にも必要な事であった。それにより生まれたのが大量生産の概念である。大量生産は工場で生まれたと言っても過言ではない。そして経済が発展していく中で技術革新が起こり、多くの優れた技術者が育っていった。ブルネル等はその筆頭であるといって良い。イギリスは古来よりオックスフォードやケンブリッジと言った大学がこの産業革新の担い手になったのは言うまでもない。そこで有能なエンジニアになる為の教育が行われ、多くの優秀な産業人、エンジニアが育っていった。そしてポルトガル、スペインといった風に必ずその時代の大国というものは、時代とともに栄え、そして必ず衰退するという道をたどっている。イギリスは当時無敵艦隊であったスペイン艦隊をエリザベス女王率いるイギリス軍がそれらに打ち勝ち、軍事背景から見てもスペインからイギリスへと世界の中心が教育から見ても、技術革新からみても移っていったのである。この時代から大量生産する為の道具として機械とう概念が生まれた。これらはヨーロッパではルネサンスの頃からレオナルド・ダヴィンチのメモでも書かれているようにこの時代は私たちによく知られているジャンヌ・ダルクが中心となったフランス、イギリス間の対立などの為に戦争で鉄剣を使う技術や砲台などを大量に作る時に使用されていたが、このように機械を中心にして工場を使って大量生産を使うという概念はほとんどなかったのである。これは市民階級への移行と共に封建的な概念が政治とともに技術も革新されたからである。大量生産は量産するということである。量産化は確実に経済発展に貢献した。効率よく、質の良い、同じ製品を販売していけば確実に人々は良い製品であれば欲しがり、購入するからである。そしてイギリスはアフリカ等の地域を植民地にして奴隷を使い、大量の労働者を安く雇い、資源を外国から手に入れて自国で大量生産し、他国に販売したからである。結果、面積の少ないイギリスは大量の資本や国土の発展を産業革命によって手に入れたのである。イギリスは自国の資源がない分を外国に求めた。これは20世紀の日本にも言えることである。
現代においても日本はイギリスと同じことをおこなった。
量産化を行うと私たちにとって最も意義のあることは何であるか?古代より、災害や生活の定住、そして外部からの身を守る為に人間は周りにある道具を使い、そして狩りをして生活をしてきた。そして洞窟で生活をし、男がウサギなどの獣を狩りに行き、女が子供達を守るということがなされてきた。獲物がいなくなれば移動しなくてはならず、そこで生活の安定を確保する為に、同じ場所で田畑を耕し、そこで育つ作物を採取することによって生活をするシステムができてきた。これが農耕民族の始まりと言える。特に日本人の祖先は韓国から来たと言われ、日本では天皇が初めての人であると言われている。アマテラスオオミカミという神が日本にやってきたことで始まったとされるが、実際は韓国にいた類人猿の祖先がまだ大陸が韓国や中国が繋がってきたときにやってきたと言われている。歴史や神話は時に都合のいいように改訂されて作られる。そしてこれらは量産化と何が関係するであろうか?古来より、生活をする為に資源を多くもっていた方が得なのは事実である。資源、特に食物を多く持っていれば、同じ農民であっても格差が出ることは当然のことである。そこで貴族と農民という概念が生まれてくる。個人の資源の量に差がある為に支配するものとされるものが生まれる。これが古来より続く格差社会の始まりであると言える。量産化は資源を早く、効率よく獲得する為の最も良い方法である。ものを大量に生産することにより、人々が欲しがるニーズも供給することができる。そして経済が発展することによって、富が一般の人にも伝わるようになる。量産化は何よりも人の生活を豊かにする上で重要な要素である。
量産化の歴史、エジプトのピラミッド
世界的に巨大な建造物は古代は墓であった。これらは民衆の墓ではなく、王族の墓であった。特に特筆すべきなのはバビロニア、メソポタミア、エジプトのピラミッドである。クフ王の墓やツタンカーメン王の墓は巨大な石造を積み上げて造られる。これを作り上げるのは民衆や奴隷である。かれらは来る日も来る日も石を大地から削り、できた石を現地に川を使い、丸太などを使って現地に調達する。そしてその後は積み上げる作業であるが、その為には効率よく同じものをたくさん製造する必要があった。そこで型枠など規格、既成品という概念が生まれ、量産化するという概念が生まれた。
この量産化はイギリスの産業革命により進展したが、古来より同じ量産化の基礎はできていたのである。これはすでに紀元前BC10のバビロニアの時代から生まれていた概念であるが、この時代には数学という概念も生み出された。大量に生産するには角度を測ることや、計算をするという概念が生まれてくる。数学は量産化にとってなくてはならない概念である。また5000年の歴史があるユダヤ法典のタルムードにも数学があるがこれには1、2、3、4といった私たちにとってなじみ深いものがあるがそれぞれ角度の数を表している。1はひとつの角度を、2はふたつの角度を表している。3はみっつの角度を表している。これらの数学の概念は量産化する上で非常に重要であったのである。現代では投資銀行などで数学者が採用されるケースが多くなっている。資本主義社会で数学の概念は非常に重要なものである。資本主義社会はこの古来より作られてきた量産化の概念を産業革命により確立したものであると言っても過言ではない。ヘッジファンドやベンチャーの経営者にとっても数学は非常に重要なものである。
量産化と数学の関係。
そこで非常に用いられたのが計算機であった。電子計算機はイギリスのチャールズ・バベッジが生み出したと言われている。これは初めてのコンピューターであった。効率よく、生産するには大量に計算を行う必要があったため、計算機は爆発的な勢いで広まっていった。これは20世紀前半に2人の起業家が作ったヒューレット・パッカード社、そしてIBM社などがこの計算機を販売することによって巨大な資本を得てきた。このようにして歴史は必ずつながっている。歴史が繋がらない創造はほとんどありえない。ニュートンが万有引力の法則を発見した時も、リンゴや木がなければそれらを発見することはなかったし、アインシュタインがピアノを弾いた時に相対性理論を発見した時もまた彼に過去の物理という基礎がなかったらできなかったはずである。偉大な発明には社会や歴史が必ず存在する。歴史を断絶することはほとんどといっていいほど愚かな行為である。
量産化、資本主義、社会主義
現在は1920年代に訪れた世界恐慌の再来である。とアラン・スパーリングは言う。もちろん経済はいい時もあれば悪い時もあるというのは当然のことである。20世紀はスターリンやトロツキーなどの社会主義と資本主義の闘いがあった。アメリカとロシアである。この大国の間は冷戦と呼ばれる闘いが繰り広げられてきた。例としてドイツなどはこの被害を国レベルで受けてしまった国である。東ドイツ、西ドイツを分けられ国を隔てて資本と社会の衝突が起こった。ロシアの社会主義もまたロシアの帝国主義を打倒する革命軍によりなされたものであった。帝国主義により王族に力が行き、民衆はそれらに従うほかなかった。これらを打倒したのが、スターリン、レーニン、トロツキーなど中心として起こした社会主義国家であったが、彼等の社会主義の理念は国家がひとつとなって民衆に均等に富や食糧を振り分けるというものであった。これらは資本主義国家からすると無謀に近い思想であると言われるが当時これらが本気で行われていた。量産化を行うという行為は社会主義、資本主義関係なしに人々にとって利点のあるものであると言える。共産主義は人間の成長に最も意味のある競争という概念を希薄化してしまうものであった。競争がなくなれば安定が訪れるが、それは成長するということに関しては効率的でない。資本主義社会は逆に競争社会である。そして競争することによって成長が起きる。会社間でも競争がある為に格差が必然的に生まれるが、強いものが支配し、弱いものは淘汰される社会になる。しかし、共産主義よりも資本主義の方が人類に適していた。そして資本主義社会の基は大量生産、大量消費である。これらがなくして資本主義国家は周っていかない。経済を重要視するものが資本主義社会であると言えるため、量産化はその資本、資源を得るために重要なものとなる。そして人類にとって最大の産業である建築はこの資本主義社会に間違いなく貢献した。装飾をなくした鉄、ガラス、コンクリートを使う建築は経済性という資本主義の最も重要な要素に適していた。その為に国際様式は世界的な広まりを見せた。特にドイツから始まり、アメリカにその流れが広まることにより爆発的に広まった。そして現在においてもアメリカの技術革新は世界中を覆い尽くすものとなっている。情報革命はアメリカで起こったといっても過言ではない。第二の金融危機叫ばれているが、アメリカの影響力はオバマ政権に変わった後でもまだまだ続きそうである。
大量消費による過度の消費性
全てのものを大量生産することによって多くのものを作り出すことによって、勿論のことそれらを消費するという行為が行われる。人間にとって食欲は生命を維持する為に必要なものである。必要最低限の食物がなければ人類は繁栄することはなくなる。
先進国の問題で肥満や糖尿病などが騒がれるがこれらは過度の食物の消費によって起こる現象である。特に大量に人々に食品を提供する大型スーパーマーケット(ウォルマート等)ができた為にそれらにこぞって人々が大量の食品を購入していった。大量生産を助長することは大量の消費に繋がる。そして人々はより多くの食物を消費し、より多くの製品を使用することになる。そこで問題が起こる。過度の消費による支障は人体にも及ぼすものである。多くの場合、過度の食物をとれば入らないものは脂肪となる。特に肥満となる人々は過度の食物の消費により人体に死傷が出た人々である。これらは特に開発国では肥満は美の象徴とされてきたが、一方で食物に困ることのない先進国では肥満は体力の減少や健康を害するものとして問題となって来ている。これらは全て過度の消費によってもたらされたものである。またこれらの食品を提供するスーパーマーケットは生活の様々なものを消費するという概念を付け加えた。トイレットペーパーなどは特にこれに当てはまるであろう。トイレットペーパーは石油を原料として使用しているために、1970年代は石油ショックですでに資本主義社会の仲間入りを果たしていた戦後の日本はアメリカの文化が大量に流れ込んだ来た為に、もはや洋式のトイレにはトイレットペーパーが必需品であった。その為にようを足すことができないという問題が起こった。そしてこの紙は消耗品である。紙を大量に消耗して先進国の人々の生活を循環させるというものは日常で起こっている。また、ティッシュペーパーなどもそれらと同じものであるといっても良い。従来はハンカチやフキンなどを使用していたものが、大量生産、大量消費の流れによって取って代わったものである。人々は生活をより豊かに、より便利に運ぶように進歩や革新をおこなってきた。より豊かにするという試みは現在も行われている。これらには勿論のこと問題もある。
身近にある消費。そして現実におこるもの。
大量生産と大量消費はリンクする。大量生産すれば商品が人々の元にあふれ、社会の商品の流通が大きくなるからである。大きくなれば人間の個人の量は変わらないので必然的に個々の消費量が増える。よって大量消費社会ができるようになる。しかしこれらはあくまでも先進国や急激に発展してきたブラジル、ロシア、中国等のBRICS等やシンガポールやベトナム等に言えることであって、大量生産と大量消費社会はそれらの為に必要な技術、資本、教育がない開発途上国の国々はこれらの概念は当てはまらない。特に資本主義は世界共通の文化等をもたらし、経済効率を促進するものでもあるが、イスラム諸国のパキスタンの一部のイスラム教は閉鎖的で、アッラーを絶対の神とする1神教である為、他の文化を受け入れにくくなっている。そして必然的に文化が受け入れを拒否する体制ができる。そうなれば資本主義の大量生産、大量消費という概念は受け入れにくくなる。よってインドの地域や国家間の流れや、先端機器、パソコンなどの製品は本当の貴族階級以外に渡ることも知られることもない。パキスタンのアルカイダが支配する地域や、北朝鮮など国家レベルで情報の制限が行われている場所があるのも事実である。北朝鮮は元は大韓民国と同じ国であったが、東西ドイツのように区切られてしまっていた。北朝鮮がロシアを背景にする社会主義、南がアメリカを背景とする資本主義となった。これらの国は冷戦が終わっても統一することなく今に続いている為、格差がひどくなっている。北朝鮮は社会主義国家と言われてきたが事実上、キム・ジョンイルを国家主席とする帝国主義となっている。彼等の国もまたアルカイダのように情報が制限されて民衆がインターネットを使うことはまずない。特に社会主義の特徴である食料の支給などはまずなされていない。消費社会は地域によっては文化や宗教間の対立によって行われない。特に現代の資本主義は21世紀を迎えてウォール街の2度目の金融危機によってアメリカから他の国々への多極化が進んでいるがこれらの国家間との対立がある国や地域などはグローバリゼーション、情報化革命、大量生産、大量消費の流れは組まれていないのが事実である。
食品のグローバリゼーション
よくちまたでは伝統というものが重要であるということが聞こえてくる。しかし、現代の先進国社会の生活においてそれらを語るのは難しくなっている。何故ならまず食事の事を思い出して欲しい。朝はパンやコーヒーを取り、ランチタイムにはハンバーグ弁当を購入したとすると、これ等の製品は完全なグローバリゼーションを感じることができるものとなっている。マヨネーズやケチャップのボトルなどは何処で作られているだろうか?そうほとんどが外国から輸入してきたものである。特にこれらは中国で作られているものが多い。またコシヒカリ等も現在では種等は日本でできたものであるが、その後は中国で栽培をし、コシヒカリであると言って販売しているものもある。またグラスなどもほとんどが安価なものであるとアジア圏で作られていることが多い。精密機器では部品などを中国で作り、それらを中国人労働者に組み立てさせてから、日本に輸入する。これらはほとんどが日本企業が作った工場である。日本の賃金よりも中国やインドの賃金の方が10分の1程度で済むために、会社としてはこのような外国に頼る方が利益が出しやすいのは事実である。そしてアジア諸国は教育の普及も広まっているため、製品を開発できる技術者達が多くいるようになった。日本では精密機器などの輸出大国と言われているが、食良品やそれらの製品の原料は外国からの大量の輸入から成り立っている。テレビやメディアなどは共通の情報を流し、価値観の普遍性を促すツールであるが、製品や食品によっても同じ価値観が国を超えて普及しようとしている。日本は最初にアジアで先進国の仲間入りした国でもあるが、シンガポールやベトナム、インド、中国なども国外からの繋がりなしに国家間が成り立たなくなっている。現代社会のこれらの国々は情報革命、物品の流通によりリンクして繋がっているのである。そしてこのようにしてグローバリゼーションは私たちの身近なものの中にある。食品もまた国家間を超えて存在している。地域など、物理的な側面では簡単に移動できないものがあるが、確実に世界は製品や情報などでつながるものと、地域間の伝統やまたは建築などによって離れるものによって成り立っている。
つながるものと、はなれるもの
地域性は確かに非常に重要なものである。中国のヤオトンと呼ばれる穴倉住居などはここにしかない地域性と言える。穴倉に居住すれば気温による室内の温度変化がなくなる。この地域は穴倉を作るのに適している気候である為、彼等は昔から穴を掘ってそこを居住空間にしているのである。またこれらの住居はこの場所にしかない為に様々な地域、外国から観光客が訪れる。これもまた地域性のなせる業である。地域特有の文化はその地域を他の土地にはない魅力的な町並みにする。そして魅力的な街には多くの人々が訪れ、それらの人々の流れによって経済発展が行われる。これらが地域性の強みである。少数である、その地域に限定されているということは一方で他にはない利益を生み出すのである。または地域性を建築よって創造するという方法もある。アメリカの有名な建築家フランク・O・ゲーリーは彼の建築は湾曲した形態を建築として多用する。彼が世界的に有名になったのはグッゲンハイム・ビルバオ美術館の国際コンペ1等になったことである。彼の美術館は周りの伝統ある町並みの建築とは全く異なった湾曲したフォルムであったが、この寂れた街並みはこの圧倒的な外観を持つこの建築ができたことによって世界中からこの新しくできたグッゲンハイムのシンボルを身に多くの観光客が訪れるようになった。これによりこの建築の影響を受けて街は発展した。建築にはこのように町並みや人の流れさえもを変えてしまう力があるのである。これもまた新しくできたそこにしかない地域性によって様々な恩恵を受けたものである。ではまたこれらの地域性に大量生産や大量消費はいかようにして関わっているのであろうか?逆に言うと量産と消費の流れは地域主義に反対のものであると感じはしないだろうか?事実文化を共通のものとして国家間を超えて企業同士で競争をして大量生産や大量消費をとうして循環を促進させて経済発展させていこうというものが資本主義の流れにあるため、地域性はこれらにとって障害となる可能性があるのは当然のことである。国家間の伝統や独自の文化は繋げていかなければならない。そしてその中で、グローバリゼーションは今も加速度的に進行していることを忘れてはならない。つながるものとはなれるもの、現代社会はこれら二つに分けられている。これらの相互作用は相対するものとして扱うのではなく、相互が協力し合って発展していかなくてはならない。はなれるものとして地域性や建築、伝統文化、つながるものとして情報化や資本主義による大量生産と大量消費これらは両者ともに付加価値をつける方法があるはずである。
しかし大量生産と大量消費は人々の均質化を助長することは事実である。同じメディア、同じ情報を共有することがこれらを成り立たせるのに必要である為に、人々の均質化は進む。これらは人々を外国人であっても繋げることに役にたつのは間違いがないが均質化は一方で人間の弱体化を生み出す。人間は動物である為である。動物の生存に最も適しているのは多様であることである。アメリカが超大国たりえたのも、移民の国であったからであるという理由が間違いなくある。黒人、白人、黄色、ヒスパニック、インディアンなど様々な人種が各々の文化の価値観を保ちながら生活したことによって何処にもない先端的な価値観や強固な基盤が出来たと考えられる。様々な違いは人々の活力や強さを表す役割を果たす。現代では英語を駆使して約20億人以上の人間と話すことができるので違いを持ちながら共通の文化が入り混じる世界を形成することが可能である。
性と空間、クラブによる浪費
近年ではグローバリゼーションが進んでいるため、先進国の10代、20代の遊びや娯楽なども共通のものとなっている。夜の娯楽はナイトクラブがある。これらには20代前後の若者等が集まる場所となっている。これらの場所はアメリカ、ロシア、台湾、日本など世界共通にあるものとなっている。これらの共通の場所は若者を集めて浪費させる場所となっている。何故これらの場所に彼等は集まるのかと疑問に思っていた。これらはクラブ独特の空間性によるものであると予測できる。クラブの空間はほとんどの場合暗いことが多い。暗闇は人々を怖がらせるが、逆に大胆にさせる役割を持つ。これらの場所に彼等が集まるのは何よりも性が関係している。性は古来より生命を維持し、残していくために必要不可欠なものである。哺乳類が存在しなかった原始の時代はアメーバなどの単細胞生命は両生類であったが、より多くの生命の繁栄に効率の良い雄と雌からなるものへと変化していった。これらは最初は魚であったが、地上でも生活できるように進化していってやがてその魚類が地上にあがり、やがて哺乳類が誕生していったと現代では言われている。これらはダーウィンの進化論を基にしているダーウィンによればもともとは生命は一つの種であり、それらが環境に適応する為に進化していって様々な特性や形態をもった生物へと進化を遂げてきたものであるという。これらはもともとはアメーバやミドリムシなどの単細胞生物から始まると言われている。種は様々な種に分かれた方が生存しやすい。そして哺乳類は雄と雌に分かれながらも唯一、地球からある物質を変化させて新しい道具を作り出す能力に長けていた。これらは鳥やカモノハシなどが巣を作るときよりも更に高度な道具を人は作り出していった。そして人も元々は進化論ではひとつの生物であり元々はミドリムシ等の単細胞生物からできた生き物である。彼等は雄と雌に分かれてそれらがセックスによりつながることによって生存する。そしてナイトクラブはこれらの行動を誘因する為の事柄が多様にある。彼等はこれらの空間に性とまた酒などによる悦楽を求めて集まる。そして彼等はその行為の為にこれらの場所に集まる。そして自我を他者にアピールさせる為の方法としてもこれらの場所に集まる。これらの場所は通常にはない空間であり、これらの感覚は人を麻痺させる。そして麻薬の中毒のようにして空間に行くことによって自我を満足させている。彼等の人種は秋葉原にある人々とは大きく異なる。彼等に共通するのは自己に何がしかのセックスアピールできるものがあるという自信を少なからず持っている。またこの場所の相対的な空間として挙げたいのが秋葉原の同人誌を販売する店である。これらは同じ性を扱うものであるが、前者は物質的なつながりを求めて若者達はやってくる。後者は間接的な性を求めてやってくる。秋葉原は最初は男に限定されていたが、今では女性の為のボーイズラブと呼ばれる男同士が絡むという間接的な性の為の同人誌も販売されている。
秋葉原の空間に創造されるのが現実では起こり得ないと言われるものを疑似体験化させてできる街であるということである。これらと共通している都市として台湾にあるナナプラザである。これは疑似恋愛を楽しむ場所として有名な場所である。人々はこの街に性を求めてやってくる。ここでは実際に数千円(日本円)を払えば性的な営みが全く知り合いでない男女と絡み合うことができる。このように性的なものが絡んだ消費は多大な影響をもたらす。食欲、睡眠欲、そして性欲は人々にとって重要なものであるからである。性的な消費はウェブサイトにも反映される。ウェブの検索ヒット数で最も多いジャンルも男女の絡み等がある性的なサイトである。しかしこれらの消費は人にとって必然的な消費でもある。
夜の空間、人の距離。
人の距離による行動の変化は心理学者である。ジェームズ・ギブソンは物自身が情報を放っているというアフォーダンスというもので有名であるが、心理学の世界では対人距離というものがある。親密になればなるほど距離は短くなり、長くなればなるほど人は交流を持たなくなる。ナイトクラブという空間に見られるのは距離という概念がほとんどない。彼等は見知らぬ男女と密着し、ボディランゲージをとうして交流を交わす。ここに言葉の介入はあるが、酒飲によって理性が制限されている為、理性の制御がなくなっている。理性がなくなれば行動の統制や規制がなくなるので彼等の行動は益々エスカレートする。特に深夜は睡眠をする時間でもあるので睡魔がまたこれらの感覚を麻痺させるものとなっているのであろう。特にボディランゲージはこの空間においてはなんの違和感もなく男女間で行われるのである。
彼等は酒やつまみ、入場料でこれらの悦楽を求める。ナイトクラブは人の感覚を麻痺させるのに理にかなっている場所である。今日も夜な夜な人々はここに集まって欲望の為の消費が行われている。
間接的性の消費である秋葉原の同人誌ショップ
間接的なものとして同人誌ショップというものがある。マンガは日本できたものであるがこれらを主に一般の人々が作り上げてそれらを本にして販売するものが同人誌である。これらの本にはほとんどの場合男性が買う場合には現実ではありえない衣装を着た若い女性であったり、ガンダムなどの仮想世界にある物語をマンガの内容にして出版している。彼等に特筆すべきなのはこれらの特に性的な行為が間接的であるということである。そこに集まる人々は現実に存在しえないキャラクターに恋をする。彼等は疑似的な人間と関係を持つ。これらは間接的な性の消費である。これらによる性の消費は膨大な量に及んでいる。秋葉原にはメイド服を着た若い女性が定員をする店があるがこれらは秋葉原に集まる若者を人々を集める役割を持つ。これらもまた疑似体験を行うことによってそれらを現実のものとして扱う。意味がわかりにくいと思うが、仮想もやがては現実のものとなる。人々が思い描いた夢は不可能であったことは現実のものとなっている。人間は夢を現実のものとする可能性を持った生き物である。秋葉原という街は人の描く願望をどうにかして現実のものとしようとする若者達の作った町並みなのかもしれない。彼等にとっては一般の人が現実逃避だと見ても、全てが現実なのである。間接的な性の消費は男性にいきがちだが女性にも共通するものである。特に女性誌などは美を扱うものを特に扱っている。美を扱うのは男性がいるというのが最大の理由であろう。美を扱うことは自らの魅力をあげて、より優秀な男性と交わる為である。これは女性対してエチケットがないと言われる発現であるが、人を動物として考えるならばこれは人にとっては生存する為に絶対に必要なものである。じょせいが 美しくなろうとするのも生理的なものがあるからである。魅力ある女性には男性が集まるのである。女性誌もまた女性の願望を表すものである。ほとんどが現代において美しいとされる女性が着飾って写真に乗っている。これらもまた人間の生存の欲望を表している。
活目せよ、民衆よ!!
また政治的な面でも消費活動は行われる。ナチスドイツがプロパガンダを言うときもメディアであるテレビ、新聞、電話、街頭広告などによって大量の消費活動が行われている。これらは帝国主義であった当時のナチスドイツや大日本帝国にも言えることであった。特に戦争は様々なものを大量に消費する。特に消費されるのは軍備の拡大による武器などを製作する為の資源である。またそこには大量の人員を消費する。戦争による被害は確かに膨大な被害をもたらす。大量の量産と消費は人類の進歩をもたらす。国を挙げての膨大な消費とも言える戦争は多大な技術発展、競争による動物としての成長をうながす。多大な犠牲と共に多大な革新があるのである。パソコンのインターネットもアメリカとロシアの冷戦から生まれたものである。戦争に見られる消費は様々な革新をもたらす。そしてそれらを供給する会社は膨大な利益を得る。特に政商であった岩崎弥七は戦時下の軍備などで膨大な利益をあげ、日本で特に有名である財閥、三菱財閥の基礎を築きあげたことで有名である。戦争は非常に大きな犠牲もあるが、それらによって膨大な利益を得るものもいるのも事実である。しかし当然のこととして人権に反する行為であることは確かであるので戦争は行われるべきものではない。
宗教による情報の伝達
イエスキリスト、ムハンマド、アッラー、シヴァ、ブラフマー、マリア、ゼウス、オーディン、ヘラと様々な宗教の中に人々が信仰する神々が存在する。これらは偉大な王が死んで神格化されたものや人間にとって理解できなかった天災等を神と祀ったものがある。中国の伝記である三国志に出てくる知勇猛将の武将であった関羽なども現在では死後は神様として祭られている。彼等にとってその宗教の神は絶対であり、宗教間を巡って様々な争いが起こる。特にヨーロッパはキリスト教が古くから支配している。キリスト教はカトリックとプロテスタントに分けられるが、キリスト教は古くからイスラムの地域と対立してきた。特に宗教間の争いでも聖地を巡っての争いは深刻なものであった。キリスト教にとってエルサレムはイエス・キリストが処刑された場所であり、イスラム教徒にとっては指導者であったムハンマドが旅たった場所として知られている所である為、キリスト教とイスラム教は古くから対立してきたのである。特にイスラム教はアッラーという神を絶対神とする一神教であったため、他の文化を受け入れない所があった。その為、ワールドトレードセンターのテロリズムなどもそれらの宗教間の対立が背景にある。宗教では古来より新聞などのメディアがない時代より、情報を各地に広める手段としての意味もあった。仏教は特にアジア圏、インド、中国、日本等に広がった宗教であるが、これらの宗教の伝来と共に、日本では中国から大量の先端技術が伝来してきた経緯がある。またキリスト教なども羅針盤や地球儀などの情報を宣教師などが伝来とともにそれらの技術や文化をもたらしたのである。
宗教による伝来は各地に共通の意義をもたらすことに貢献した。これらは今とは伝達の速度が全く違うがこれらが最初のグローバリゼーションであったと言える。しかし、これらは全地域に行く事はない。何故ならその地域には元々の宗教や文化があった為に対立の経緯を踏んでいったのである。
キリスト教国側の十字軍や、イスラム側の聖戦などは各が信じている教義などの為にそれらの聖地を巡って争ってきたのである。しかし、現代のグローバリゼーションは宗教間のものではなく、パソコンをとうした道具がそれらを広めている為に、それらの衝突も少なくなり、これらのグローバリゼーションは加速度的に世界中に浸透していったのである。同じ文化や同じ価値観を持つことによって両者の戦争にまで発展するような深刻な問題は起こりにくくなる。そして情報を共有することによってコミュニケーションを取るのが非常に容易になっているのである。それではこれらの宗教が伝達していた時代には大量消費などの概念は存在していたのであろうか?
やはりこれらにも消費は関係する。ある地域からある地域へと宗教の伝来と共に新しい道具が伝えられたときに、そこには必ず生産が存在するからである。生産があれば消費があるのは事実である。しかし、ある特定の地域性を持ちながらの生産なので大量生産に行きつくのは難しい。よって大量消費もまたこれらの時代に起こることはあまりない。特に飢饉や戦争などが起きる時でなければ量産化を今ほど過剰に必要とする時代ではなかったのである。
大量生産、大量消費、情報化
このようにして様々な分野から量産や消費の流れを見てもこれらは密接に関係するものであることが分かる。これらを大量に行うという行為は同一の価値観、文化、食品、生活用品、精密機器などを地域性関係なしに広く供給する役割を持つ。これらは現在のグローバリゼーションと呼ばれる世界共通の価値観を持ち、世界が平らな世界になる現象にとってかかせないものとなる。これらの大量生産、大量消費、そして情報化がグローバリゼーションの重要な3つの要素である。これら3つの要因があって世界が共通の価値観を持つ、国境なき時代へと突入するようになったのである。グローバリゼーションなくしてこれほどまでに外国人が異国へと入ることもない。量産と消費は人々にとって情報の提供や共通の文化の共有をもたらし、物質的な豊かさをもたらす。これらは先進国である日本を見ても明らかである。しかし一方で限定された地域性や宗教によりわずかな情報しか来ることがなかった時代よりも人間の個人としての力は失われてしまったと感じる。多様性は人間にとっても生物にとっても必要なものである。量産と消費はこれら人間の力を失わせる効果を持つのも明らかである。必要なものがいつでも簡単に手に入る。何処へ行くのも安全であることによって人々は安心して世界中を廻り生活するようになったが、失われていくものも忘れてはならない。量産と消費の関係は資源を集め新たな製品を作り、それらを消費するというプロセスからなる。現代社会は不必要なものまでを過剰な生産により、消費するものとする。 これらの流通を経済至上主義の資本主義社会の中で見直すのは大変困難なことであるが見直す必要がある。過剰な供給は人の強さをなくす。これらを私たちは考えていかなくてはならない。
大量生産、大量消費、情報化は現代社会にとってかかせないものである。全ての業種にこれらは関係する。これらの欠点は均質化である。そして均質化は人間を弱体化しうる結果をもたらすのである。特に現代の日本の若者はそれらをよく表している。
4.機械時代の人間
人間は肉でできた機械である。ニコラ・テスラ(発明家)
これは電磁コイルの発明者で有名な科学者であるテスラの言った言葉である。人間は肉を付けた労働を行う機械であるといった。彼はエジソンと常に比較され、不遇な人生を送ったが、彼のこの発言は現代社会にとって現実のものとなろうとしている。
機械とは何か?
古代より機械は様々な場所で使用されてきた。ギリシャ、ローマ帝国、バビロニアからメソポタミアの時代にも歯車などを用いた描写が描かれている。人間にとって道具は他の動物に対抗するもの、身を守る為の武器でもあった。道具は狩りに使われ、取った食物を加工して食べる為のものとして周りに廻りにある石や土などを加工して鍋や皿を作り出した。これらが最初の生活用品であると考えられる。そしてこれらによってより合理的に、より効率よく生産を行う為の道具として機械という概念が生まれた。機械は特に19世紀は機械時代と言われ様々な量産、消費活動はこの機械なくしては語ることはできなかった。機械は量産を促進する為の道具なのである。現代では工場に行ってもほとんど人を使わないでコンピューティングによって機械を操作して、量産化を行っている工場がほとんどである。機械は幸せの為の宝石箱と言われたが、19世紀初期の鉄、ガラス、コンクリートを代表する国際様式と呼ばれる世界共通の様式を生み出すという建築の革命期には機械は冷たいものとしてではなく、人々に豊かさをもたらす為に使用されるべきものであると言われてきた。これらの時代には時代背景が必ずといって関係する。世界恐慌、第一次世界大戦、第二次世界大戦によって経済効率を最小限の資源でいかにして大量に生産するかという世界規模での共通の価値が浸透されてきていた。それらなくして鉄とガラス、コンクリートでできた国際様式は広まることは決してなかったはずである。産業にとって最も巨大である建築はその時代の社会性に大きく関係するものである。「建築は社会を写し出す鏡である。」と建築家として巨匠と呼ばれたミース・ファン・デル・ローエはこのような名言を残したが、社会性なくしてこの巨大な建築は成り立たないということを言いたかったのであろう。この時代にはバウハウスと呼ばれるドイツの工業大学など機械時代を世界に示す運動がヨーロッパを中心として行われていた。そこでは芸術と工業を目的とする絵画、家具、プロダクト、建築、にいたるまで生活の小さな部分からを統合して工業化の時代に適したデザインを模索する場所であった。また必ずしもこれらの機械や工業を主体とするインターナショナルスタイルと呼ばれら近代建築運動は様々な障害の中でなされてきたものであった。
より合理的により効率よく町並みを築きあげることは17世紀の市民階級のルイ王朝の打倒によって起こった革命期に遡る。古くからヨーロッパでは古き良き町並みは厳格な装飾を持った石造りの建築が最も美しいものであると言われてきた。ギリシャ時代、またはゴシック呼ばれる15世紀の大聖堂に使用されたデザインを復興させるという運動ゴシックリバイバルやグリーク・リヴァイバルと呼ばれるものが主流であった。政権などの様々な社会情勢の変化はその他の産業等に影響を与える。これらの時代にもまた芸術など様々な分野で革命運動が起きた。クロード・ニコラ・ルドゥーと呼ばれた王宮のお抱え建築家がいたが、彼はこの動乱期に現代を彷彿とさせる最初の近代建築革命を行った人物であった。この時代は装飾が建築にあるということは絶対の定義であった。今で言う建築に鉄、ガラス、コンクリート、木造を使用することと同じものであるぐらい絶対的に国家的規模の建造物や芸術には多くの装飾を付けなければならなかったのである。ここでルドゥーは装飾といった概念をほとんどなくすものを革命によって仕事が全く来なくなった際に書いた建築論に書き残した。これらは装飾をなくした建築が書かれ、また球状の建築が書かれている。彼の残した言葉は「新たな宗教を作り出すことほど困難なことはない。」である。新しい文化を作り出すことは確かに非常に困難なことである。広告の世界でも新しい文化を作る為に多大な出費を行うよりも従来ある成功した事例を使って広告を行った方が効率的であると広告界のオグルビィなどは著書に書いていた。またイスラム教を作ったムハンマドでさえも20年余りを神のお告げが来たと各地を周り言うことによって初期は頭のおかしい人間であると言われていたという話がある。普遍的にあるその地域にいる人々の価値観を変えることは非常に困難であることが分かる。ルドゥーの死後200年あまりの歳月が訪れて、装飾の概念を失くした、新しい工業技術を駆使した国際様式は20世紀に花開いた。これらの様式にはイギリスから続く産業革命が存在していた。工業を主体とする様式はバウハウスに始まる建築運動から始まったが、当時のナチスドイツは古典的な厳格な様式であったため、迫害を受けたのである。国家レベルで廃校に追いやられたため、指導者達はアメリカに亡命し、アメリカのハーバードやイリノイ等の大学を中心として国際様式が確立されていった。
それらが成し遂げられてから、100年あまりが立とうとしている今、それらの影響が各地で見られている。装飾と封建制を絶対とする時代から量産を資本主義を主体とする時代へとスペイン、イギリス、アメリカへと超大国が変わっていく中で確実に変容してきたのである。
建築は人が作るが最後は建築が人を作る。
(ウィンストン・チャーチル イギリス大統領)
第二次世界大戦時にイギリスの大統領であった名政治家ウィンストン・チャーチルの言葉は様々な名言があるがここに興味深い言葉がある。建築は人が作るが、最後は建築が人を作る。このような言葉がある。これらは建築に言える言葉だけではない。空間であれ、景観であれ、自然であれ、文化であれ、そこにいる場所によって人が形成される。その地域や文化が人を作り出すというのは自然の流れでもある。浅草などの賑やかな場所で生まれれば、祭り好きで喧嘩好きな江戸っ子のようになるし、新宿三丁目で万が一生まれたならば世の中の裏を知るいい意味でも悪い意味でも世渡りの上手になるであろうし、ニューヨーカーとして生まれればませたことを覚えるようになる。貴族階級に生まれれば貴族としての生き方が当たり前と思うようになるであろう。人間には必ず遺伝子というものがあり、それらを生まれてから変えると言う事はほぼ不可能である。しかし、人間はその場所、文化、言葉によって環境が変わることによってそれに適応する生き物であることを忘れてはならない。このようにして建築というものは人々を作る上で絶対必要なものであるし、人間が環境に適応して繁栄していくために建築が生まれたのだから建築が人を作ることは確実に起こりうる要因である。それでは現代はどうか?国際様式は世界に共通の材料と造形をとうして世界共通の価値観を生み出そうというものである。そして建築が人を作ることになると言うのであれば、世界中の建築が同じものになるというのであれば、現代の問題である。人間の均質化はこれらの国際様式から起きているものなのではないだろうか?建築は産業の世界で最も大きなものである。結果社会にもたらす要因も大きい。グローバリゼーションは情報化だけではない。建築の世界でも国際化、世界規模での価値観の共有が行われているのである。均質化の波はとどまることをしらず、情報化革命が20世紀後半に浸透することによって更なる進展が見られそうである。これらは非常に有利な所もあるが、欠点もある。それでは均質化が行われるとどんな悪い点があるのであろうか?
人間は本来は機械ではないのは当然のことである。機械そのものは人間が作った道具である。人間がこのような道具になるわけはないと誰もが考えることである。しかし、周りを見渡すと経済効率、合理主義社会の産業によって人間までもが生産ルートの一部として数えられている。まさに人間が機械となる社会である。赤ん坊の頃からキチンとレールとしての仕組みが確立されている。初期は教育のレールに私たちは乗ることになる。まず幼少期には幼稚園や保育園という3歳から5歳児までをこれらの場所で過ごす。ここでは大人になってからの集団生活の最初の段階である保育士を先生と置く集団生活がある。日本ではひらがなやカタカナと言った初歩的なこと、集団生活の基本を教える場所となっている。そして卒業すると義務教育と言われる。小学校と中学校での生活を始める。ここでは社会に出るにあたっての簡単な英語や文学、数学、社会、理科などの教育が行われる。ここで行われるのも団体での協調性といったものである。これらの教育に言えるのは合理的に教育によって生産性のある人々を育てることによって国家の力を強くするという目的がある為、政府もまたより合理的により効率よく教育のシステムを制度化し、規則などで最初のレールを作っていくのである。
この教育によって私たちは固定的な何が良くて、何がいけないのかといった普遍的な価値観を学ぶのである。これらを別に悪く言うつもりはないが、教育のレールによって最初の均質化が訪れる。均質化は教育の段階で訪れる。前に言ったように生産をするにあたって違うということは非常に効率が悪くなることがある。それは宗教や文化の違いなどによってお互いのやり方が異なる為である。これらは互いに争いを生み、時には戦争にもなりかねない事態を引き起こす。人々にとって普遍的な価値観の共有は互いに協力をしていく上で必要なものである。だからこそ義務教育という一本のレールを敷くことは資本主義社会にとって経済効率を高める最も適している方法なのである。幼少期からひらがなやカタカナ等の言語の基礎を教えるのも初期の価値観の共有であると言える。これらによって幼いころから資本主義社会に適応していく為の基礎を学ばせるのである。教育は資本主義社会にとって特に重要なものである。特に欧米は学歴社会が浸透しているのでハーバード、コロンビア、プリンストン、オックスフォード、スタンフォードなどの米英の名門大学に子供を入らせようと親は必死になる。何故なら大学によって確実に就業の階層性が存在するからである。これらは日本でも存在する観念である。旧財閥系の大企業は東大、早稲田、慶応しかとらない企業すらも存在する。これらは教育システムが作った階層性であると言っても良い。アメリカの企業は日本以上に学歴がその人の成功を裏付ける要素になっている。何故なら特に卒業することが非常に厳しいからである。一週間で本を10冊読むことなど日常茶飯事で毎日図書館に付きっきりの生活になってしまうことがある。しかしこれらの学歴主義は本当に能力に反映するのかと言うと疑問点が出てくる。ではエジソンは何かと言いたくなるし、スティーブ・ジョブス、坂本竜馬もまた義務教育などで優秀であったわけではない。彼等は確実にこれらのレールでは枠外者、落ちこぼれであったのである。
レールの形成、人間の機械化
私たちの日常には人々を見ても必ず何かしらの系列に分けられる。これらは様々な階層によって構成されている。大体が自分と似たような人間といようとする。これらは人間にとって自分と同じ人種といた方が楽であるし、価値観を共有することによって様々なことが円滑に進むからである。人間は本来は安定や調和を求めるのは動物の本能として当然のことである。安全に生活できるのであれば人間はそれに安住しようとする生き物である。人間が初めは狩猟をすることによって生活をしていたが、定住することによって生活のリスクを減らしたのである。ここに農耕民族として集団で生活することが生まれた。古くから現代のような定住して生産を行う行為は確立されていたのである。
製品ラインと人のライン
人々の生産ラインは現在にとって確実にできているものである。教育による最初のレールに人々は敷かれ、普遍的な価値観を植え付けられる。大学においても社会人になる為の最初の関門として就職活動がある。就職することはその人の学習を社会に還元することを示すものである。しかしこれらにもこの時期に就職しなくてはならないと言ったような定説も存在する。ほとんどの学生がさきほど言ったように義務教育やそのあとの高等教育によって普遍的、共通的な情報を持っている。そして大学でも同じことが行われる。そこで就職活動は最初の社会と若者を繋ぐものとなっている。
教育のラインと製品ライン
そこでこれらの教育ラインと生産ライン比較してみる。製品のラインは機械によって大量生産を可能にした。これらは自動車王であるヘンリー・フォードが組み立て式の対象生産システムを確立するなどして自動車だけでなく様々な産業が機械によって大量生産されていった。これらが確立されたのが18世紀から19世紀の初期である。
量産によって人々は同じものを持ち、大量の資源を得たのは言うまでもない。これらを人々の基礎を作る、教育のラインにあてはめてみると同じことが言えないであろうか?製品のラインは同じものを大量生産することによって大量の消費を促すものである。であるならば教育によって機械と同じ共通の特徴を持った人々が大量生産されているのではないだろうか?量産化が始まると同時にそれらは最初、食品や生活用品から始まったものが人にまでも侵食してきているのである。それではある事例を見せる。
これらは人間の量産化、消費に加わる情報によってできた新しい概念である。これらによって新しく人間の量産化が行われている。
秋葉原の人々
秋葉原に行く人々のイメージは日本の漫画でもよくあるが典型的なのはメガネを付けて紙袋を持ち、太って汗をかいているものが描かれている。彼等はオタクと呼ばれるある漫画やアニメなどにおいて様々な情報を持ち、それらを彼等は共有しながら、同人誌ショップやコミックマーケットに出没する。彼等の共通するものはアニメやフィギュア、漫画などの仮想空間のキャラクターなどに関するものである。ある秋葉原のアニメなどのカードの販売店に行くとそこに集まる人々はある特定の共通するものを確実に持っている。これが場所にある階層性である。秋葉原という街はある特定の情報を共有することによって人々が交流している。現代においてこのような階層性が出現するのはある特定の情報によって人々が集まる。これらは先進国においてたいていの場合はウェブの検索エンジンから始まる。検索エンジンでその個人の好きなものを検索し、そしてそれらの情報を集める。そしてある一定の知識を得て、そのあとにそれらの情報源となる場所に行く。これらは全ての人々にあてはまるものである。彼等は特定の情報を集めることによって行動を起こすのである。オタク、不良、老人、子供、サラリーマンなど様々な種類の人々でも情報がなければ行動を起こすことはない。 しかしこれらの階層は貴族階級などの封建的なものに代わる、現代の階層性と言えることである。
また、現代の若者が他にも集まる場所がある。それらはナイトクラブである。これらの場所にも特定の情報をもって交流している。これらも基本的には秋葉原の若者と風貌は異なっても、特定の情報を集めて行動を起こすことはどんなに違っていたとしても変わることはほとんどない。検索エンジンは限りなく人々と身近なものになっている。そして地域には様々な情報がある。浅草、ナナプラザ、ラスベガスであってもその地域で文化や人種が違うのも確かなことである。しかしこれらには新しく情報検索という概念が加えられようとしている。秋葉原という街はその場所にあるオタク、先端機器、アニメなどの場所はこれらの前提として検索という概念が加えられている。これらによって人々は個人の趣味や好きなものから、新しい階層を作り出しているのである。
趣味趣向が同じ人間が量産化される世界では人もまた特定の特徴を持った人が大量に生産されている。これらは経済効率を促進させる上で重要なものである。では人々が機械のように大量生産されるということによって得られるものと失われるものは何か?価値観の共有とコミュニケーションは容易に図れるものになる。人間は自分と同人種の人間には安心を求めるからである。機械になることによって生まれるのは機械は感情を持たない。笑うことも、怒ることも、泣くことも、失敗することもない。そして温度を持たない冷たいものになる。人々の同じ価値観を持った経済効率を上げるための教育や社会社会制度では人間の感情的な生きている証といったものが失われていくのである。
製品ラインに乗る人々
検索エンジンによって趣味趣向による新しい階層性が存在するようになった。これらは情報化時代の新しい文化である。社会にとってもこの新しい階層の定義によって私たちは分類することができる。検索エンジンでも様々な情報のカテゴリを分ける分類作業がネット上で行われているが、それらの影響もまた確実に社会に浸透してきている。人々はカテゴリ化された製品ラインの上に乗って同じ人間が大量に生産される社会、それが現代社会に本当になりつつある。発明家であるニコラ・テスラの言う人間が肉でできた機械に本当になりつつある。製品は大量にあった方がいいが、人間は大量に生産されるべきではない。人間にとって必要なものはもっと違う何かがあるはずだと切実に感じている。量産、消費、情報の流れは確実に人間の生産ラインまでもを生み出している。人間が大量生産され、大量消費される社会。本当に私たちはこれで良いのだろうかと考えなくてはならない。
製品ラインは確実にグローバリゼーション化している。私たちにとって一つの場所しか知らない、多種多様な人々を知ることのないまま量産され、消費されていくのは人生を生きる上でもいいことなのだろうか?社会が作った常識、制度はあたえられたことしか知らないということである。そして情報と実際の体験は非常に異なる。歴史などはメディア等が作るものであるから、経済によりあったものへと改編されていることが多い。人間という存在が機械になるということは確実に現実の世界で起きていることである。事実身の回りで周りと同じことをしなければ生きていけない人々が目につく。しかしそれは人もまた量産化されていって社会の与えられた仕組みの中で生活しているということを理解しなくてはならない。
人間という歯車
よくサラリーマンは企業社会の歯車であるという言葉が使われている。もちろんのこと機械にとって歯車は重要である。しかし一方でそれらは取り替えることがいくらでもできるのである。大量生産、大量消費の波は確実に人々を取りかえることが容易にできるような均質化した社会を生み出した。これらによって確かに多くの利点もあるが、現代社会は人間機械論などが論じられていたりするが、本当に人が取り換えのきく歯車となり、ただ言われたとおりに作業を行うだけの冷たいものとなりかねない。歯車は替えがきく。これは当然である。経済は歯車を効率よく廻すことで資本主義は成り立っている。しかしそれは人間にとって本当に良いことなのだろうか。
レールの内にあるもの
資本主義社会は経済をいかにして効率よく廻すかということが鉄則となっている。産業を効率より合理的に大量に生産する為には機械だけではなくやはり人が必要である。そして経済効率をあげる人を生み出す為には教育ラインを生み出す必要がある。よって人間は機械や生活用品を生み出す産業のレールと全く同じ構造を持った仕組みの中で育てられることになる。よって生産性をあげようとすればするほど人を効率よく生産しなくてはならない。よって人間が機械となっていくのである。そして人間は感情を持つが、それらの社会構造に疑問を思わないように教育する。与えられたものをより良くこなしていくことが人生にとって最も意味のあることだと理解するようになり、よって感情の欠落が始まる。これが人間が機械になるという現象である。これらは日本だけではなく、世界で起こっていることである。資本主義が確立され、経済が発展すればするほどより効率がいい方が良いと政府も企業も合理的に物事を行おうとする。しかし、それらの効率化を行えば行うほど、豊になればなるほど感情の欠落が始まる。これが資本主義社会の欠点である。日本はとかく経済効率を考えて政府も企業も合理化を推し進めてきた。それは人間の機械化を推し進めてきたことにもなる。機械は冷めたスープのようなもの。人としての暖かさも何もない。作業を坦々とこなすだけのものである。もし資本主義がこのようにして世界中を覆い尽くしていくのだとすれば世界全体の人々の感情の欠落が始まっていくことであろう。経済効率を推し進める前に対策を練らなくてはならない。機械はもちろんの事いくらでも代替えがきくものである。そしてやがてさびて使いものにならなくなる。これらを現在の雇用制度、若者の生き方にあてはめてみると確実にそれらに当てはまることではないだろうか?さびれば変えると言う事は老いれば変えるということに等しい。派遣等を簡単にやめさせるということは部品を変えていることに等しい。これらは日本国という先進国で身近に起こっていることである。
恋人、友人の大量生産、大量消費
これらを恋人や友人にあてはめてみる。基本的に人々は産業構造の中の与えられた階層の中で寄り集まって友達や恋人も作っている。自分と同じ人間といた方が快適であるし、同じ境遇にある人であれば価値観の共有も行いやすい。教育の敷く階層性、企業の敷く階層性、そして検索エンジンの敷く趣味趣向による階層性などがここに大きく分けられる社会の階層である。これらは現代社会にとって最早世界共通の価値観であると言える。この大きく3つに分けることのできる階層性の中で人々は友人や恋人までもを消費する、生産する行為として捉えられている。先進国の全ての基礎が大量生産、大量消費であるから、人間が機械であるとするならば当然のことである。
6.装飾と服飾を纏うもの
人々には確実にある特定のレールがあり、彼等はそれに従い、そこにある情報をたよりにして趣味趣向に従い行動をする。特にそれらが表わされるのが服やそれに付ける装飾にある。人々は服や装飾を身にまとうことによって日常生活を行っている。そしてこれらもまた世界規模で共通の概念がグローバリゼーションによってもたらされている。インド、シンガポール、中国、アメリカ、日本、台湾、フランス、イギリスにいたるまで祭りや行事の時以外はその地域の工芸品や服装を着ることなく、ジーンズやジーパン、スカート、パンツ、Tシャツといったものを世界共通の概念として人々は着こなしている。これらもまた世界の均質化を表すものである。特に男女の好みや美しい、ダンディ等とされる場合もまたミスユニバースやミスワールドなどの国際的な美女を決める大会などでも背が高く、胸が大きく、そして顔が整っているなどアメリカやプレイボーイ誌やフランスのパリコレクションのモデルを基本に置いた気世界共通の美しさの定義が厚生されている。日本の奈良時代などは女性の美しいとされるものはふくよかで、眼が細いことなどがある。そして地域によってこれらの美しさの概念は全く違っていた。特にアフリカ民族の中には首の線の数で美しさを決めるという民族もいるが地域性が現代において乖離してきたことによって美しさもまた世界規模で均質化をたどっている。
流行の世界化、ファッションの聖地
ファッションの聖地はパリである。パリは服飾界にとって世界的なデザイナーが集まり、彼等はそれらの腕を見せるようにコレクションを開く。コレクションは自らデザインし、モデルにその服を着させて世界にアピールしようとするものであるが、ここから最先端の服飾デザインが出てくるのは言うまでもない。初期はニューヨークを中心として流行が世界中に広がるようになったがもはや現代は自動車は日本、半導体は韓国、雇用は中国やインドなどその古くは地域間で補っていたものを世界規模で構成されるようになってきている。流行などがその国だけではなく、世界に多角化して存在しているのである。現代では特にイタリアやフランスが服飾やブランド品の発信地となっている。アルマーニ等はハリウッドのテレビ試写会やパーティ等でセレブが身に纏う必需品となっている。アルマーニはジョルジュ・アルマーニというイタリア人が作ったブランドである。彼のデザインはモダンデザインの中に華麗さや繊細さが存在する服飾となっている。彼のデザインは黒を基調とする。黒は人を落ち着かせ、知的に見える効力を持つ。彼のエレガントなデザインはモード界の帝王として世界的な富豪などに愛されている。アルマーニ、ヴェルサーチ、ルイ・ヴィトン、グッチなどはイタリアとフランスで始まったものである。これらは先進国の人々が好んで自分をアピールする為のものともなる。本当に美しいものは世界に広がっていくのである。クジャクが繁殖期に子孫を残す為に行うのが雄が羽を広げて美しさを雌に競わせる行為である。服飾は時にセックスアピールとしても使われる。そして装飾もまた同じことが言える。
装飾の起源、身に纏う装飾
哲学で使われるものごとにはかならず理由があるという目的論に従って言うと装飾は何がしかの意味を持つはずである。装飾と言う概念は人々がほら穴に暮らしていたころからあった。古くはほら穴に壁画や町の生活の様子などを書いていた。彼等はこれらの刻むという行為を記録の為に、または権力の象徴、自己の象徴として身に纏っていたのである。確かに装飾的な概念を人になくせば職人の労力も減るし、経済だけで考えれば人にとって不必要なものである。しかし装飾は使われていた。これらは歴史学的に見ても事実であるし、現代において装飾が極力なくなったのは時代背景と言うほかない。装飾というものはセックスアピールなど様々な意味を持つのである。特にエジプトの時代から化粧という女性を美しく見せる為の行為が行われていたがこれらも身に纏う装飾の一部である。装飾を纏うことによって更にその人、空間を際立たせるのである。身に纏うものとしてネックレス、リング、イヤリングなどがある。イヤリングやネックレスはそれらを他人にアピールするために使用するものである。これらは古代の装飾を身につけることから続いているものである。
人々はなぜ服を着るのか?
服を着るのは当然のことである。外を素っ裸で歩いていたら確実に捕まってしまうことは言うまでもない。では何故人々は服を着るのかといったら、現代において人間は毛が他の陸の動物と違ってほとんどないといっていい。これらは人間が外部の環境に適応していくために必要であったからだと言われている。では何故ネクタイをつけるのか、ネクタイは仕事をする時はスーツを着て、ネクタイをするという共通の概念がある為使用される。よってサラリーマンはネクタイとスーツという概念が生まれる。しかしネックレスをみにつけるのに意味はあるか?これらは均質化された社会の中で個を確立しようとする行為である。均質化された社会では人々は人と違うことを望みながらイヤリングやリング、ネックレスをすることによって他人と違うことを願うのである。しかし、社会や雑誌などで移った共通の服飾の流行を真似することによって個は保ちたいと願いながらも共通の輪の中に入って安心してしまう。周りの情報が共通する情報しか得ることが困難な為に、人と違う服装やファッションをしたとしても、10人ではなく100人の単位で考えると何処にでも自分と似たような服を着た人間が存在する。これが服飾の均質化である。何処に行っても、どの国に行っても、セレブはアルマーニを着て、若者はジーンズやスカートをはく。その中で個性を競ったとしても結局は自分と同じ服を着ている人間が100人集まれば1人はいるのである。服は世界規模での均質化の表れでもある。仕事をするのにスーツを着るのはこの均質化が世界中で浸透しているからである。
そして装飾もまた20世紀初頭にはヨーロッパで広がった様式があった。それをアールヌーヴォーという。フランス語でアールヌーヴォーは新芸術という意味であるがこれらの装飾の概念もまた一時期ヨーロッパ覆い尽くした様式である。ベルギーなどではぺリングスタイルでうなぎ様式、ドイツではユーゲントシュティルで若い様式と呼ばれた。これらはアントニオ・ガウディの建築を見れば容易に分かるものであると思う。曲がりくねっていて、植物などの造形を鉄を使用してそれと同じ形態に加工するものである。これらの装飾もまた20世紀の新しい様式として全盛を担った。またこれに繋がる様式としてアール・デコがある。これもまたフランスで生まれたものである。20世紀初頭のフランスは流行の発信であった。アールデコはアールヌーヴォーよりもより工業に近づいた様式であると言える。これらは時代背景を表している。必ず時代の転換期にはこれらの様式もまた生まれる。
流行の流れは創造、隆盛、衰退、そして復興である。
この流れを繰り返してはまた新たな様式が生まれる。しかし、物質には限界がある為に、それほど景観が根本から変わることはない。モダニズム建築革命やインターナショナルスタイルと呼ばれるものは完全に独立した様式ではなく、必ず何かの要因が繋ぎ合わさって創造されるものである。古くは日本の木造建築などはモダニズムの柱と梁の構成が同じであるし、特に現代様式はパルテノン神殿などの古代の建築を参照して作られている。時代の創造には歴史が存在する。
また、衣服には伝統的な衣装が存在する。
韓国の民族衣装のチマ・チョゴリと呼ばれる衣装、またはリオのカーニバルで使用される女性の服装などはその地域で行われる行事の為の衣装である。日本では和服や刀などが日本独特のものである。これらは世界共通のジーパンなどとは異なるものである。その地域に独特の文化や伝統があればそこには衣服にもそれらの特徴が存在する。世界が均質化する中での地域性ある。これらはじょじょに世界規模で失われつつある。
他人と異なる文化を持つことはこれからの社会には非常に重要なことである。均質化の中での多様性を考えていかなければ本当に全ての産業や人間が機械的、敬税効率を優先することだけに捕らわれてしまうことになる。服飾や装飾にも世界規模での価値観の共有している。
何故装飾や服飾を付けるのかということは一言ではいいがたいものがある。権力やセックスアピールの為につけるのであろうか?それだけではないはずである。それらを心理学や医学の領域から探ってみたい。人間が生み出す造形は古くは直線や直角と言ったものは存在しなかった。自然界を見渡しても直線や直角は存在してはいない。これら自然界の造形を作りかえることによってより合理的な直線や直角を人は生み出したのである。装飾に見られる造形は直線や直角というよりもむしろ造形には円や楕円が使われる。これらはヨーロッパの大聖堂のバラ窓にも見られるものである。これらで使用されるのは湾曲した形であり、造形を描くことはない。また人々は宗教的な絵画を描くときには必ず円を描く。これらには人間にとってこれらによって補えるものがあるのである。ユング心理学の曼陀羅という概念では人が心を描くときは必ず円や楕円を描くと言う特徴があるという。ユングは50人の心理的病気にかかっている被験者や健康者を使って何も知らせることなく、絵画を書くように言うと、彼等はみな円や楕円または卵のような形を共通して描いた。絵画は人々の心理の表れでもあるから彼等がこうようなものを描くのは人が深層心理の中でそれらの形体を求めているからである。このようにして植物などの湾曲した形をモチーフにした装飾を加えるのは医学的な根拠があるからである。事実、曼陀羅は心理療法でも用いられるものである。
装飾は20世紀の近代建築にとって不必要なものであると言われてきたが、人間にとってもこのような医学的根拠があるから古くから存在していたのである。だからこそこれらの装飾を完全に経済主義の為と言って失くしてしまうのは矛盾するのではないかと思わないだろうか?植物のような造形を持った装飾を身に纏ったり、身に付けたりすることは意味のあることなのである。
人々は権力や他人と違うことをアピールする為にこのように装飾をまとうのではなくて、心理的にも効力を持つからこそ装飾を身に纏うのである。装飾には権威、権力、心理的な効力をもたらすのである。装飾や服飾をまとうものは自らを誇示することも、魅せることも、安堵をもたらすこともある。
民族を感じさせる衣装、地域独特の装飾を付けることや着ることによっても少しは均質化を打開する為の手段になりえるのかもしれないが、それらの服などが人と違うことだけでは均質化を解決することは難しい。しかし均質化を打開していく方法は人と違うことにある。
7.移民、少数、革新
移民や少数の人々は集団においては非常に弱い人種である。しかし、彼等から世界を変えてしまうような革新が起こることが多い。移民は特に世界都市において複雑に流動化しながら存在している。初めに知ることができるのがニューヨークという都市群である。ニューヨークは移民の人口が都市の10分の3割を占める都市である。ニューヨークは多種多様な人種が入り混じる人種のるつぼと化している。都市は碁盤の目のような都市形態となっている。ニューヨーク証券取引場のある世界金融の中心であるウォール街もまたここに位置している。ニューヨークの基本的な計画は当時のアメリカ建築家界の権威であったダニエル・バーナムと彼の後任のトーマス・アダムスというイギリスの都市計画家が発案したものである。ニューヨークという町並みはアメリカ人もさることながら、中国系、ヒスパニック、プエルトリカンなど様々な人種が各々の価値観を分かち合いながら共存している。彼等は共通する価値観を持ちながらも多様性を持っていた。これらがニューヨークを世界の首都と言わしめた理由である。
特にニューヨークは20世紀をとうして世界の首都であった。特にマンハッタンの都市計画などは様々な建築家が興味を持って研究している地域である。都市計画や調和など、人々は景観に対してある美意識を持つが、急速に進む、経済、社会、政治などによりそれらの理想が追い付かなくなり、人々の欲望、経済効率や各々の個人の求めるものなどによってできる都市になっていく。これがオランダの建築家であるレム・コールハ―スの言うマンハッタニズムである。マッハニズムという概念はニューヨークだけに言えることではない。これらはシンガポールや東京、香港、ベトナム、ムンバイなどの都市にも言えることである。世界的に共通の価値観を持つことによって都市形態までもが同じ形態となる。基本的に資本主義社会によって先進国の都市形態は非常に要素や形態が非常に似た構成となっている。
ワシントンの輝きと衰退
アメリカは世界経済の中枢である。アメリカ、世界の中心であり、超大国である。21世紀を迎えようとしている今もアメリカは世界の頂点に立つ国であることには変わりはないが世界情勢は加速度的に変化している。アメリカは世界一の軍事国家でもある。特に軍備に力を入れているのは言うまでもないが、日本は日本国憲法では軍備を一切もたないと言っておきながら軍事予算にかける予算は世界第3位の国なのである。
ワシントンDCはアメリカの首都である。経済的な価値ではニューヨークに劣るが政治的に見れば世界銀行やホワイトハウス、ペンタゴンなどの国家の重要機関が集まっている場所である。この都市はフランスの軍人であったピエール・シャルル・ランファンという都市計画家が計画したものである。人民の人民による人民の為の政治と言われたアメリカであるが、実際の背景は巨大な軍事力や資本を武器にして対外交渉を行う国家ともなっている。しかしまた21世紀に入ってウォール街の崩壊によって世論はアメリカよりも中国の時代だと言って賑わせている。しかしまた中国もまたまだまだ経済に関しては発展途上の国であると言える。彼等の国内総生産はあくまでも人口が13億人いるからであって個人がその資産を持っているわけではない。地方は未だに経済は発展途上である。北京オリンピックの開会式などによって中国は次代を担う存在になるとアピールできたことは確かだが、まだまだ発展途上にある。しかし2050年になる頃にはゴールドマンサックスの統計によると中国はアメリカを超す大国になるとある。これらの世界情勢をグローバリゼーションで知るということは非常に重要なことである。世論に流されては物事の本質は見えない。本当に見るべきなのは本質であり、20年後を読む先見性である。みなが中国だと言う事によって中国に移民する人間が今後は増えることになるが、外国人の移民が増えれば雇用等を巡って過度な争いがあるのは必至である。キリスト教の聖書であるマタイの書物にこのような記述がある。
「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道に入るもの多し」
人々が時流になってもてはやされているものには必ず人々が集まる。そしてその広き門に入れば過度の競争が起きる。本当に活路を見いだせる場所は狭き場所であるという言葉である。これは難しい、困難であるなと思う場所に思い切って飛び込んでみるということである。これらの道は入るのは難しいが入ってしまえばそこに他人にはない活路が見出せるということである。これらは均質化を打開する糸口になる。人々が時流に乗り、そこに乗り込むのではなくて各々の道を勇気を持ってリスクを背負いながら歩いて行くことがそれらを打開する方法なのではないだろうか?
アメリカは確かに世界を動かしてきたがアラブ、ロシア、中国、ブラジル等の台頭によって世界情勢は確実に変わるはずである。近くにユーロのような国家連合体がアジアにもできることが予測できるがその中で日本は中国、台湾、シンガポール、韓国の中でどのようにして国家間を交渉していくかが重要になってくる。大東亜計画は日本が第一次世界大戦時に大韓民国や中国、シンガポールやフィリピンを戦争により支配していた頃に提唱されていたものであるが、これからは国家間が戦争によりどちらか一方が植民地化するのではなく、国家間が協力しあう共同体がこれからできていくはずである。特にロシア、ブラジル、中国などはBRICSと呼ばれる経済共同体を敷いている。これらには世界の投資銀行などは注目していて、これらの諸国に専攻投資しようとする動きが実際に起きている。世界が多角化する動きはこれから拡大していくと見られる。建築では特に中東のアラブでは石油によって得た資金によって大規模な開発が行われている。これらの施工会社はアメリカのゼネコンであるベクテル社や大成建設、韓国、フランスの建設会社などをつかって建設を行っている。これらの建築を設計するのは世界各国の有名な建築家または大規模な組織設計事務所である。多種多様な人種が入り混じり、国家的な優れた建造物を作る。これらの新しい多様性のある場所にアラブはなっている。人々が均質化することなく人種が入り混じる場所はそこの経済活動もまた勢いがあり活気に満ちている。ワシントンやニューヨーク変わる都市は現実に世界規模でできつつあるのである。
アメリカ、イギリスの留学生から。
アメリカ、イギリスは世界的でも屈指の教育を行う場所となっている。アメリカの教育もまたある程度の教育制度が確立され、教育のレールと言ったものが形成されているが、アメリカやイギリスの大学院は特に卒業することが大変難しい。実際にハーバード大学院デザインスクールの博士課程に所属する方にインタビューを行ったところ、やはり非常に大学内の学業は大変であると言うことを語っていた。彼女は日本人であるが日本と違いハーバードなどの大学は世界中から留学生が集まって来るためことを聞いた。特にハーバード、エール、オックスフォード、ケンブリッジの英米を代表するこの4校は様々な国々から留学生が集まる場所である。これらにはインド、中国からの留学生が多い。彼等は異国の先端技術や文化を学びにやってくるのである。もちろんのことグローバル化の中で複数の学歴を持つ人間は特定の地域から出ないで学業を学んでいる人々より視野が広い。特に研究室にいるチリ、スペイン、ドイツから来た留学生の話を聞くと日本にいては考えられない情報を知ることができる。同じ場所に定住している人間の話を聞くよりも多様な経歴の持ち主は勉強になるものである。
アメリカの大学教育は日本の大学教育と違って入るのは容易であるが、出るのは非常に難しい。これらは一般的に知られていることであるが、これらはどうやら本当のことであるらしい。聞くところによるとハーバード大学で博士号を取るのは通常は大学院から始まり7年から10年は容易にかかるところであるということに驚愕した。日本の大学で博士号を取るには大学院から約5年真面目に学業に励めば取れることと比較すると非常に厳しいものである。日本は大学の課程が大学、大学院、博士課程と進めば進むほど自由な時間が確保できるのに対して、アメリカの大学は進めば進むほど大変になり単位を取ることですら大変であるという。ここが日本とアメリカの教育システムの差であろうと思う。アメリカの就職では成績が特に重要視される為、学生は必至になって学業に励むという。しかし日本は入れば何とかなりうる場所と言われているが本当にある程度勉学に励めば何とかなってしまう場所である。決められた教育制度の中で入るよりも勉学が楽であるというシステムはより人間の弱体化を生み出す原因となる。日本は特に世界競争力が10年前の2位から22位まで落ち込んでいるがこれらは他の国と比べても教育に始まる容易さが表れているのではないか?今必要なのはグローバリゼーションに適応する為にも英語教育に力を入れ、そして学校を出るのを厳しくすることにある。特に日本は横並び社会である。これらは日本が狩りというよりも飛鳥時代から続く農耕型民族が多数を占めるからに他ならない。坂本竜馬はそれらに懸念して江戸時代の封建的な鎖国を閉鎖し、海外の様々な人間と付き合っていく日本を目指した。しかし世界でも三流と評価される日本の政治システムはゆとり教育だのなんだのを提唱して若者達を更に豊かさの中に埋没させていった。そして経済至上主義により効率的な生産ライン、教育ラインが出来ていくことによって、人間が機械となってしまったのである。私たちに必要なのは経済主義を考えた上でそれらを超えた人々が活気に満ちる国づくりが必要である。
ロンドンやボストンに来る留学生は学業を見慣れない文化の中に行っても最先端の学問を学ぼうとしているので目的を持って来ている学生が多い。覚悟や目的があれば個は妥協することなくそれを解決するしか道がないから非常に困難であったとしても乗り越えてしまう。自分の国ではなく他国で学ぶことは非常に重要である。
ボクシングやサッカー等のスポーツでも同じことが起きている。日本であってもオランダの監督が指揮をして、ブラジルの外国人選手が得点をする。これらは国を超えてよりその地域に有利な選手が生き残り、国を隔てることなく多様な環境の中で能力を発揮する。サッカーはヨーロッパに世界中の有望な選手が集まる。サッカーは各国で一年をとうして試合が行われる。特にドイツのブンデスリーガ、スペインのリーガエスパニョーラ、イギリスのプレミアリーグ等である。これらのリーグにはブラジルやアルゼンチン等の国、またはアフリカのナイジェリア、カメルーン等から多くの人々が集まってくる。イギリスのプレミアリーグなどは完全なグローバリゼーションを感じることのできる場所である。アフリカ、イギリス、アルゼンチン、ブラジル、韓国、ポルトガル、スペイン等の外国人が国境を超えて活躍している。彼等こそ国籍を意識することなく、活躍すればそれに見合った報酬を得ることができる。
これらはサッカーの話だけではない。ボクシングでも同じことが言える。日本ではボクシング人気を集める為に海外から有望な選手を招き入れて、日本でトレーニングし、世界を舞台にして試合をする。日本、タイ、フィリピン、韓国、そしてメキシコやアメリカのラスベガスやニューヨークで試合を行う。日本に来る選手はニカラグアやプエルトリコ等からやってくる。彼等が日本に来るのは給与の面や整備が優れている為である。そして日本のトレーナーを持ち、メキシコ籍でラスベガスを本拠地にして試合をするマルコ・アントニオ・バレラ等もグローバリゼーションの恩恵によって多様なバックグラウンドを持った選手である。彼は勿論のことフェザー級を代表する世界チャンピオンになった。フィリピンでボクサーになった選手ではマニ―・パッキャオという選手がいるが、彼もまた東洋人でありながらアメリカのトレーナーが付き、ラスベガスを主戦場にして闘っている。彼は世界一になりアジアの英雄になった選手である。
このようにして多種多様な人種が集まる場所は一言で言うと強さを表すものとなる。
これら多種多様な文化を知ることは非常に21世紀には重要な要素である。
多様な文化を受け入れることは他者を受け入れる意味でも有利である。多様性なくして革新はない。アメリカやイギリスに留学する人々が世界を変えてしまうようなものを多く生み出すのは、多くの文化を受容し、多くの価値あるものを吸収しているからである。
アジアの龍、香港
香港はアジアでも有数の世界都市である。アジアで最初に発展したのが東京である。東京は戦後にかけてアメリカのベトナム戦争や精密機器の輸出により高度経済成長期に入り、欧米の世界都市の仲間入りを果たした場所であった。しかし、香港はそれらに変わるアジア圏と世界を繋ぐ世界都市となっている。特に香港はイギリスアヘン戦争などによってイギリス文化が多く流入してきた。香港はその中心地であった為、多くの被害を受けたが、港にはイギリス風の建築が並んでいる場所もある。文化が発達する上で重要なのが教育であるが、特に香港大学は英語を公用語として授業を行っているため、世界共通の言語を用いていること、特に香港はイギリスと交流がある為に世界の学会でも発表を行いやすいという利点もあるため世界的な評価もアジアを代表する大学である東京大学と並ぶほどの評価を得ている。海外のアメリカやイギリスに代わり発展していく都市には必ず、イギリスやアメリカと密接に繋がっていることが多い。香港は事実上イギリスの植民地とも言えるような街であった。アヘン戦争ではイギリスが国内の銀の不足を補うために自国のアヘンを取引に使い、特に貿易の中心地であった香港ではアヘンの一般市民への流用が大問題になり、イギリス、中国間で争いが起こり、アヘン戦争になっていった。中国は当時はまだ発展途上国にあったから先進国であるイギリスの軍事力には勝てずに香港は事実上は植民地として支配されていた。世界都市としての評価はロンドン、東京、ニューヨークなどが世界でも有数の都市として知られているが、香港はインド、シンガポール、ベトナム、タイワンなどを繋ぐ都市として非常に重要な場所である。世界都市の経緯は特に香港やインドのムンバイなどの場所の高度成長によって移民や世界情勢の流動などによって世界の縮図は変わりつつある。香港はアジア圏のニューヨークとも言える場所である。ここにはアジア以外にもイギリス、アメリカ系の外資系企業や日本企業なども進出している。中国の雇用費用は自国に比べても10分の1程度で済むからである。これらの企業は中国やインドで製品を作り、自国へ持ち帰って販売する。特に香港は世界への貿易都市としても重要な場所である。移民の流動もまたメディアの報道によって中国へと集まりつつあるのが現状である。
特に外資系企業はアジア圏もさることながらBRICSと呼ばれる経済共同体に加盟しているロシアやブラジルへの進出も顕著である。彼等は文化や国家の距離等が離れている国家間同士でも互いを尊重しあいながら協力体制を取っている。
ロシア(旧ソ連)はアメリカと並ぶ大国であった。両国間の冷戦は非常に緊張したものであった。特に宇宙開発等の技術開発の争いは非常に熾烈であった。ゴルバチョフ政権の時代からソ連崩壊後のエリツィン、プーチン、メドヴェージェフと続く政権であるが、ソ連時代は軍事力を背景にして圧倒的な力を誇っていた国である。ソ連はスターリンやレーニン等がロシアが帝国主義であった頃に革命を起こし、社会主義国家を築き上げた。特にアメリカとソ連は2大超大国と呼ばれていたがソ連が崩壊し、エリツィンのロシア共和党へ移行する際に、アメリカが世界を支配する構図ができていった。ロシアの首都はモスクワにある。モスクワはロシアの首都である。これらには聖ワシリン大聖堂や文化拠点として、政治拠点として1000万人の人々が集まる世界都市である。しかし現在では世界都市としては東京やロンドンに比べると世界的影響力はかつてのアメリカと二分した世界の首都と言われた面影はあまり残っていない。モスクワはポーランドやウクライナなどの東欧との繋がりは非常に強いが東京やロンドンに比べるとインフラや人種の流動性に劣る。しかし、モスクワは経済政策により、500ある電力会社を8に集約することやより効率的に経済の流動性を活発に行ようになっている。また銀行なども1100もの銀行がある為、これらも国際性を考えると集約する動きが今後見られる。しかし、効率性だけを考えると、人間までもが製品として扱われ、経済という巨大な動きに飲まれてしまう。ここでいかにして白人を中心にすることなく、多種多様な文化をより受け入れていくかが重要になる。しかしロシアは非常に多くの資金を石油などで手に入れている。イギリスにあるサッカーで有名なクラブチームであるチェルシーなどはアブラヒモビッチという石油王が100億円にも昇る赤字債券を買い上げてクラブごと買収し、世界中から良質な選手を集めて国際性のあるビッククラブに作り変えた。特にロシアの石油による力は大きく今後これらは世界が注目するものとなるはずである。そしてアラブもまたロシアと同様にオイルマネーによって多額の資金を持っている。しかしこれらの国はまだ国家間で格差は非常に激しい。格差は資本主義社会になると歴然として出てくるものである。社会主義国家であったロシアはソ連崩壊とともに資本主義の流れが大量に流れてきたが、アメリカやイギリスなどと違ってそれらの体制を確保する基盤ができていなかったことも、ロシアという国が衰退した一因でもある。そして資本主義の流れはものすごい速さで世界中を覆い尽くしている。これらの流れに適応できない地域や国家間はより国家間での格差が広がっていくことになるであろう。
植民による均質化
ラテンアメリカはマヤ文明やアステカ文明など、古代遺跡があり、人々が陽気で暖かい気候にあるというイメージがある。チリ人等にはあいつはラテンだからなぁと言って物事がすんでしまうことがある。実際に日本は忙しいことを良いとするが、チリなどでは逆に暇があることが良いとされるという。温暖な気候の中で心にも暖かさがある。特にBRICSの加盟国であるブラジルは近年、GDPでも1998年から4.4%に及ぶ経済成長率となっている。鉄鉱石の輸出量は世界一位であり、アルミニウムの輸出量は世界2位になっている。これらを中心として貿易が活発に行われている。GDPでは韓国を超えて世界でも11位となっている。特にサンパウロは世界でも有数の都市へと変化を遂げてきた。ブラジルはブラジリアが首都であるが、事実上の経済の中心地はサンパウロである。ブラジルは19世紀までポルトガルの植民地であった為、公用語はポルトガル語で話す。そしてブラジルには日本の移民が多く流れてきたこともあって日本企業などが非常に多くある。外資系企業の投資銀行や日本の総合商社や自動車会社、またはスペインやドイツから様々な国籍が集まる南アメリカ最大の世界都市となっている。特に近年は工業の発展も見られ、もはや資源だけではなく、技術的に見ても世界水準となっている。ラテンアメリカでは特に携帯電話業界でも世界的な水準を持った会社が存在する。特に携帯電話の流れはフィンランドのノキアを中心として、日本のNTTドコモ、アメリカのブラックベリー、イギリスのボーダフォンと言った機種が世界シェアとして広まっていたが、ここに来てフォーブス誌の世界の富豪ランキングでもメキシコの携帯会社鉄メックスを経営するカルロス・スリム・ヘルは元は国営であった電話会社を買収したこともあって電話業界を支配することになった。近年ではフランスの電話会社であるテレコムを買収するなど事業はラテンアメリカだけではなく世界に進出している。そしてラテンアメリカも同様に先進国として発展して行けば勿論のことグローバリゼーションの波を受ける。メキシコにも携帯電話が普及しつつある。特にパソコンと携帯電話は情報化時代にはかかすことのできない製品である。これらはブラジルやメキシコシティ等を中心としてラテンアメリカでも確実に広まっている。世界の均質化はもはや世界中の何処の国においても起こっていることである。
ブラジルと隣国であるアルゼンチンは特に経済的に深刻な問題を抱え、最早国民の期待はスポーツ以外見出すことができなかった。アルゼンチンの首都はブエノスアイレスである。特にイタリアやスペインから移民が流れてきたことによって発展した都市であるので欧州との繋がりもまた強い。ブエノスアイレスはアメリカと同様にヨーロッパからくる多くの移民から成り立っている都市である。特にスペインの植民地であったこともあり政治的にも密接な関係を持ってきたため、国民はスペイン語で話す。アメリカもまた同様に植民地であったが移民が独立運動をして現在の超大国になったように現在の世界都市は半数に及ぶ都市が植民地であったという事実がある。日本もまた敗戦国となった時は事実上アメリカの植民地であった。インドや香港もまた植民地であった。
大日本帝国の植民支配。
そして日本もまた第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦時中はヨーロッパを参考にして巨大な大日本帝国という今では北朝鮮と韓国に二分されている大韓民国、中国、フィリピン、台湾などの東アジア全域を支配した時期があった。当時の日本は江戸幕府を薩摩と長州協力してできた明治政府であった。明治政府は天皇を頂点に置いて、ドイツのプロイセンなどの軍国主義を参考にしてできた政治体制であった。この為、ヨーロッパの植民地支配を真似て自国にない資源を他国を侵略することによってそれらを解決しようとした。それによってできた領域が大東亜共栄圏であった。この半ば強制の支配は日本語や日本文化などをアジア諸国に強制させ、数多くの移民の流動が自国や東洋の国々へと移民していった。日本は多くの朝鮮民族を日本に労働力として移民させて安い賃金などで奴隷のように働かさせていた。日本にアジア系の移民が多いのはそれらの戦争によるものと、日本に出稼ぎに来る人から構成される。東京、大阪などは在日の韓国人が多く。身近に韓国語や中国語を話す人が存在する。
このようにして都市の縮図は移民の縮図を表している。世界は各々の文化を持ってきたが、パソコンや携帯により確実に世界共通の概念が浸透しているのである。特に植民という移民は自国に住んでいたものにとっては非常に許し難い行いであるが、グローバリゼーションにとっては非常に影響をもたらすものである。支配国が半ば強制的に自国の文化を持ち込み文化の強制を強いる。これらはイギリス、オランダ、ポルトガル、スペイン、フランスなどのヨーロッパを中心にして行われてきた。これら強制的な文化の受容は植民都市において普通に行われてきた行為であるが、これらによってこれら先進国と密接に関わり発展している世界都市もあるのは事実である。宗教や植民による文化の伝達は世界規模ではなくても最初の国家を超えた均質化であると言える。
こぼれおちた人々
ヒッピー、ニート、フリーター、ホームレス、落ちこぼれ、いじめ、これらは非常に感情を悪くする言葉である。一般の人々から見たら彼等は人生の敗北者などととらえられがちである。人生に敗北はつきものである。勿論のことその障害が大きければ大きいほど失敗も多くなる。人の人生は失敗し、立ち上がり、また転ぶことの連続である。これらの人々もまた社会から見れば少数派の人々であったが、近年格差が進行してこのような人々が少数派ではなくなってしまった。しかし、教育のレールや社会のレールをはみ出す。抜け出すことは世界を変えてしまうような革新を生み出すことがある。社会が与える価値観から出ることによって新たな価値観を持つからである。彼等は社会から見たら歯車に成りきれなかった人々でもある。ロボットにもネジが取れて通常とは違った行動を起こす。彼等は通常あり得ることのないものを生み出すことのできる可能性を持った人々である。
電球、パソコン、ソフトウェア、自動車、飛行機
これらは全てこのこぼれおちた人々から生み出されたものである。彼等はほとんどの場合変わり者、または不審者などといい意味で使われない言葉で定義される。しかし、世界を変えてしまう発明はほとんど彼等から生み出されている。
エジソン、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、スティーブ、ウォズニアック、ライト兄弟、ヘンリー・フォードなど彼等は大衆から見たら変わり者である。
飛行機ができた当初、ライト兄弟は自転車屋であった。彼等は未だかつてどんな技術者も誰も成し遂げることのなかった空を人が飛ぶという夢を持っていた。イカロスなどの童話があるが、ライト兄弟が最初の友人飛行を行うまでは誰もが空を飛ぶことは無理であると考えていた。イギリスの有名な教授までも人が飛行できるわけがないと断言していたのである。そしてとうとう初の有人飛行をやってのけたが、誰もが彼等の言う事に耳を貸さずに20年余りをそれらの業績が認められないまま不遇の時間を過ごした。事実彼等が世界認められたのは死後の事である。しかし彼等はグローバリゼーションの時代になくてはならない飛行機を生み出したのである。これらはほとんどの場合、大衆から生み出されることはほとんどと言っていいほどない。
情報化革命は1975年の3月、会社にリストラにあった人々が集まったコンピューター好きの集まるホーム・ブリュー・コンピュータークラブという見た目の良くない変人エンジニアが集まる会であった。これが最初の情報化革命の到来であると言われている。この会がきっかけでスティーブ・ウォズニアックは世界最初の個人向けコンピューターを発明した。そしてジョブスと二人でアップルを立ち上げて世界を代表する会社を作りあげたのである。スティーブ・ジョブスは大学も中退し、完全にヒッピーであった。彼等は教育のレールからは外れた落ちこぼれに属する人々である。
レールの外にあるもの
産業のレールから外れた人々がこれらの人々であるとするならば彼等は資本主義社会にとっては不必要なものである。効率よく作業を行うというものからはみ出てしまった人間は厄介者である。しかし、この厄介者である彼らには人間としての血が流れている。彼等は反逆者でもあり、その資本主義の流れに必死に抵抗し、新しい流れを生み出そうとする。いや、それしかないのかもしれない彼等にとって新しいものを生み出し事が世の中に抵抗し、挑戦する唯一の方法であるのだから・・・競争、抵抗、闘争は彼等にふさわしい言葉である。彼等は何もしなければただの変人である。特に抵抗や闘争からは強力なカリスマを持ったリーダーや世の中そのものを変えてしまうは快適なイノベーションなどを生み出す人々が現れる。トレーニングでも同じことが言える、強大な敵、ストレスがなければ負荷をかけて強くなる必要もない。腕立て伏せを行うことによって負荷がかかり、より強力な筋肉を持つ体になり競技スポーツに勝つことができる。彼等は絶えず社会的な負荷がかかっているものである。だからこそ強靭な体力や集中力から今までにない画期的なアイデアを生み出し、人々にとって新しい価値観を生み出すのではないかと思う。機械は負荷をかけても、強くなることはない。しかし人間であるならば、より強靭に生まれ変わることができるのである。自動者王であるヘンリー・フォードもまた3度目の経営によって成功した人物である。抵抗は革新を生み出すプロセスである。ここにはあきらめなければというものが付く。
歴史という重要なもの
歴史は過去のものであるから人々は忘れがちなものである。しかし、歴史というものは技術革新にとって非常に重要な要素である。ふとしたことで何かひらめきが起きる場合がある。それはお風呂場であったり、ピアノを弾いていたりささいな日常の事を行っている時に起きる。これらのアイデアは全て過去から成り立っている。どんな偉大な作家であれ、政治家であれ、全て過去から成り立っている。彼等は最初はそれらに行きつくまでに様々な障害を乗り越えてきたはずである。人は必ず自分以外の他者である両親から生まれてくる。そしてそこには必ず遺伝子というものが組み込まれている。そして何百万年前に人が生まれた時から遺伝子は現代にいたるまでそれらの過去の情報をつないできたのである。そして現代に見られる全てのものは自然が生み出し、そして人工物は過去の人々が切磋琢磨し、壮大な夢を持って生まれたものである。これらはすべてのものは必ず過去がある。そして過去はこれからの世界がどうなっていくのかを知る鍵となる。何かと何かを足し合わせて新しいものを作りだすということを人々は行ってきた。木と石を使い、弓をつくり、弓と矢を使い、獲物を狩る。そべてはこれらのプロセスを繰り返すことによって偉大なものはできてきた。そこに天才という要素が加わった結果、今までの歴史を覆すようなものが出てくることがある。それも過去なしには天才的なものは生まれない。モーツァルトにもピアノがなければ音楽が作れなかったのと同じことである。歴史は繰り返す、バビロニア、メソポタミア、アステカ、マヤ、ミケナイ、ティリュンスなどの紀元前に起こった文明も、ローマ、ペルシャ、ベロリンガ、ゴシック、ロマネスクなどでも文明の発展はあるにしても、人間の構造は大して変わってはいない。そして、必ずこれらの分英は繁栄を極め、衰退する。ポルトガル、スペイン、イギリス、アメリカと近代において超大国が移り変わっていくように、歴史を振り返れば未来の辿る道が少なからず想定できる。そして、これらを繋ぎ合わせる作業をすることが重要である。現在の120億ページに及ぶ情報もまた過去から成り立っている。全ての事象は過去から成り立つ。それを認識していかなくてはならない。
均質化の流れも、膨大な歴史から成り立つ。私たちは80年の寿命で作られているわけではない。膨大な先人達の努力によって成り立っているのである。そして、社会の転換期には必ず革新が起きる。情報化革命によっても、盛える場所と衰退する場所が表れたように時代は繰り返してできている。均質化もまた歴史の流れが生み出したものである。情報化もまたアメリカの精密機器を販売する会社であるヒューレット・パッカードでアップルの創業者達がスーパーコンピューターを見る機会がなかったら成り立たなかった、HPの出身大学であるスタンフォード大学がなかったら彼等は出会うことも創業はしなかったはずである。とにかく良質な過去を集めたものである本を読み、過去と現在を繋ぎ合わせることが私たちには最も必要なことである。全ての革新は過去から生まれる。歴史は少なからず資本主義によって金儲け向けに改編されながらも現在も生まれ続けている。革新のキーワードは少数であること、多様であること、過去から成り立つということである。資本主義社会の大企業に勤める人々がこれらの歴史に残る革新を成すことがほとんどないのは歴史の繋ぎ合わせをうまく行っていないからではないだろうか?少数であること、多様であることはチームを編成して大企業でも行うことができることである。同じ環境にいる人々でチームを固めれば加速度的に進む現代社会のスピードにはついてはいけない。今人様なのは多様な人材を集め、シェイクすることにある。
9.動物、人間、多様性
人間もまた動物である。同じ哺乳類のゴリラやチンパンジーを見れば人間の職場などで同じことをしていると感じないだろうか?縄張りを持って威嚇することも、集団にグループがあることも人間と類人猿の社会構造は根本的な違いはあまりないと言える。
人間が多様であるということは何か?ダーウィンの進化論を借りるならば生物は元々は一つであった。これらはすべてバクテリア等の細菌類から生まれたと言われている。バクテリアが酸素、窒素、二酸化炭素などと化合してアミノ酸を形成し、最初の生物ができたと言われている。それらの原資生物が進化していくことによって生物は枝分かれして様々な特徴を持つようになっていった。最初は海だけで魚などの生物は生活していたが、陸で生活するができるようになった魚類が存在するようになり、それらが陸に上がり生活を行うようになった。これらは40億年にものぼる歳月をかけて構成されている。最初は生物は細菌としてしか存在しなかったのである。陸に上がった魚類は両生類になり、恐竜の原型である爬虫類へと進化していった。そして、太古の氷河期の突入により恐竜が全滅し、わずかだけの哺乳類が生き残った。これが私たちの祖先である。彼等はやがて進化して類人猿となり、今の人間の原型を司るホモ・サピエンスとなった。生物の始まりは一つで枝分かれするように進化することによって今にいたるのである。
動物と人間の違いとは・・・
動物もまた様々な進化を遂げて今に至っている。特に犬や猫などの身近な動物は人間が支配する社会にうまく適応することによって滅びることなく存在しているものである。哺乳類には雄と雌が存在する。これらは外部の厳しい環境から生命を維持する為により効果的な方法として性別が生まれたと言われている。哺乳類は雄と雌で構成される。哺乳類以外の昆虫などの世界では雌の方が能力的にも上である。男性が上位を占めるのは哺乳類のみである。基本的には動物は雄が狩りを行い、雌が子や家を守るという場合が大部分を占める。特にアフリカに生息するライオンやチーターなどはその典型である。種の保存で重要であるのは様々な特徴の違う種が多く存在することにある。雄と雌が時に交配し、より環境に適応する為に進化することによって、種は繁栄を極めてきた。
これが生物の進化論をもとにした人間の形成の歴史である。
生物の過程を現代社会の人の構造にあてはめてみればいくつもの不可解な点が出てくることが理解できる。種の繁栄には遺伝子も含めて様々な性質を持ったものが多く存在するということが必要不可欠である。しかし、グローバリゼーションによって均質化は更に進行している。人間の機械として、同じものを大量に作り出し、産業構造を成り立たせる世の中である。これらは動物の種の保存論にはほど遠い価値観である。では人間が均質化していき種の保存論が成り立たなくなるとどういった問題が出てくるのか?種の保存は遺伝子や性質が違うものが交配をして外部の環境に適応できる新しい種を作るというものである。動物は雄と雌でも違う性質を持つもの同士が交配することによってより強い種を確保することになる。しかし、人間が機械として均質化し、社会がより安全な環境、豊かな環境になったおかげでお互いにあまり大差のない種が子供を産むようになってきている。人は抵抗や競争がある場所であればあるほど人間としても肉体的にも精神的にも強い力を持った種が生まれやすい。しかし、現在の先進国における社会構造ではこのような人間がより強くなるということは起こらなくなる。遺伝子レベルで違っているとしても、環境がより厳しくなくなることで今度は退化の現象が起きてくる。進歩はより強くなることであるが、勿論のことトレーニングをしなければ筋肉は落ちて力は弱くなるのと同じで、人の強さも資本主義社会の完成された社会では進化よりも衰退が起こることになる。この先進国の人間を機械として考えてより経済効率を進めるという社会の問題点でもある。特に先進国において人間は機械になっている。そして、機械は多様性や外部環境によって能力を落とす。これは機械がさびついて能力が落ちていくことと同じことである。均質化は人の弱さを生み出すものとなる。豊かになればなるほど外部環境への抵抗力や競争力は失われていく。これは何もしなくてもそこに生存する為に必要なものが必ずあるからである。
動物は外部環境で生き残る為に様々な手段をこうじて今にいたっている。キリンの首、シマウマの白黒の模様、像の巨体、これらは全て生存するため、他者と競争をして生き残る為の手段であった。先進国社会にはこれらをすることなくより便利で、より快適な住まいが常にある為にこれらの努力を行おうとしなくなる。結果的に退化が始まっていく。特に日本という国はそれをよく表している。日本はアジアを代表する先進国である。道路などのインフラもロンドンに次ぐ世界都市として素晴らしい環境にある。一般の中流階級にいればほとんどの場合、生活にまず困る事はない。とにかく中流家庭であれば日本人の身の回りには何でもあることに気が付く。テレビ、パソコン、冷蔵庫、電子レンジ、掃除機、携帯電話、これらはより便利により快適に人間が生活できるように発明されたものである。先進国の人々は先端機器を簡単に入手できる。国家には必ず盛えることと衰退することがある。世界はこれらを繰り返すことによって今に至っている。日本や韓国の競争力が世界的に見て限りなく落ち込んでいるのは、これらの便利で安全な環境にいることにある。安全や調和は生存にとって必要なものであるが、過度になれば人を弱体化させる効力を持つ。
成長するアジアは日本と同じ道を辿っている。
韓国等のドラマをテレビ等で見てみると文字や言語以外はほとんど同じものであるという感じを少なからず受ける。これは最初に世界都市として先進国の仲間入りをした日本の東京などの都市の影響を受けているからである。植民や戦争によって文化が広まることは世界都市の関係を見ても理解できる。特に日本はアジア圏を支配してきた歴史がある為、アジア圏の人々の日本への意識は少なからずある。それは中国や韓国の反日感情や台湾の日本のアイドルやマンガなどの日本文化の憧れでもある。世界の繋がりは貿易だけではなくて戦争や植民によってもたらされている。そして、日本、韓国、中国、台湾などは同じ文化を少なからず共有し、同じ道を辿ろうとしている。資本主義社会は過度に行きすぎると少なからず人間を弱くする原因になる。日本のゆとり教育などは結果的には失敗に終わったといっても過言ではない。この失敗はこの弱体化の構造にあてはめれば当然の事である。国家の安定や調和は一方で国家を弱くする役目を持つ。いかにして安定や調和を維持しつつ、若者達に目的をもたせ、より厳しい環境で教育を行うことが先進国では重要である。
目標と言うものは非常に重要なものである。
動物や人間の行動は必ず何かしらの目的があってほとんどの行動は目的に支配されている。何かを起こしたいという衝動がなければその為の行動を起こすことはない。人間というものは考えること以外の行動を起こさないから考える思考が現実のものとなる。これはナポレオン・ヒルという成功学の権威が長年の研究により発見したものである。確かに考えなければ行動を起こすことはない。それが小さな思考であればあるほどその人の行動もまた小さくなるのは当然の事である。そして、先進国になっていくことによって思考の欠落が起っていく。
では、人の思考の欠落は何故起こるのであろうか?
目的を持っている人間と持っていない人間の行動も活力までも大きく異なるのは何故か?これは目的があればその目的を達成しようとしてより行動をするからである。行動を起こせば起こすほど結果が生じる。しかし、行動を起こさなければ何も起きることはない。戦後の日本の目的はいかにして日本を復興させてアメリカを追い越すかにあった。これらは当時の国民全体が持っていた目標でもある。国民が共通の目的を持つことによって生きがいも、目標もあったからこそ高度成長期に乗り、アジア最初の先進国となった。かつての日本人は働き蜂として海外での評価も非常に高かったのである。しかし、豊かになり、それらの目的が薄れて、なくなってしまった現代では国民レベルでの共通の目的意識の欠如によりかつての勢いはなくなってしまっている。人間もまた産業ラインとして扱われてしまっている世界では目標どころか感情までも失ってしまいがちである。そして思考の欠落は人間が機械になりつつある兆候でもある。
思考の欠落は単純な与えられた作業を行う時は非常に有利なものである。機械は思考することなく与えられた作業をプログラグされた情報を基にして作業を行うからである。しかし、思考することを人間がしなくなればあるのは機械の代わりになって歯車として社会構造の中で廻るだけのものになる。思考の欠落は人を機械にし、弱くする。これらは現代の世界競争力の低下にも表れている。情報化によってほとんどのものが資本主義社会を基盤にした無数の情報によって構成されている。人間や動物も、ミクロの世界で見ればDNAによる無数の情報によって構成されているのである。全てのものは情報で構成されている。より思考が欠落し、産業構造の中で与えられたことを行うだけに人間がなっていけば、プログラミングされたパソコンなどとなんら変わらなくなる。そして、感情が失われ、さびついた集団が行うものは、何も良質のものを生み出さなくなる。ここで資本主義によって先進国化すればするほど人間が機械になり、機械としてさびつく、衰退の路を辿って行く。これは日本や韓国だけに言えることではない。へたすれば中国やインドなどの成長を続けている国でもこのままの先進国の制度を繰り返せば衰退という後退が起きることになる。均質化は資本主義社会にとって合理的に物事を進める上で重要であるが先進国の衰退をも促す要因になることを考えなくてはならない。
本書で言っている多様であることには何の利点があるのであろうか?多様性は様々なものから求められているものである。大企業であっても多様性を重要視する。種の保存であっても多様であることが有利である。グローバリゼーションの中では多様なものが生存する上で有利であると言われている。
多様であるということは何か?
多様であることはまず多角化を意味する。同じ環境にいて同じ田畑を耕す行為だけを行ってきたものは情報の共有は行いやすいが一方で行動の範囲もまた狭くなる。何故ならそこから移動する必要もなく、その田畑を耕し収穫し互いと協力しあってより効率を上げることができるからである。これが農耕型社会の人々である。農耕型にとって定住し、同じ価値観を共有しながら田畑を耕すことが重要であって無理して自分たちと異なるものと付き合う必要はない。しかし、21世紀を迎えた今は一つの地域や一つの価値観で物事をとらえようとするのは非常に危険なことである。
狩猟としての留学生
それでは多角化、多様化することで有利な点は何かが具体的に分かることは各国の留学生を見れば理解できる。留学生はスペイン、ドイツ、チリ、韓国人、中国、ケニア、パラグアイ、フランスなど様々な国籍を持った人々が存在する。彼等の生活を共同作業などやインタビューをとうして知れば知るほど彼等の文化は様々に異なることが理解できる。何よりも彼等に感じるのは一定の地域や人種間に捉われることなく、国境を超えて平気であるということである。これらは一定の場所にいて同じことをしてきた人々とは思考のレベルでも、活力という意味でも力の差が存在する。特に日本ではいまだに外国人との交流をさけようとする人々がいる。何故なら根本には日本人は英語を使えないからということと農耕型社会の名残りが未だに根強く残っているということにある。確かに英語が使えなければ様々な留学生と本当の意味での交流を行うことは難しい。言語はコミュニケーションを取る意味で非常に重要なものである。ひとつの場所で場所を変えることなく田畑を耕していく事は事務的な仕事をすることや公共の仕事を行う意味では非常に重要である。しかし、大多数の人々がこの田畑を耕すことのみに従事している。グローバリゼーションが進む現代では定住して田畑を耕すことはリスクが伴う行為である。
外資系企業の世界進出
世界を見渡してみれば国境に捉われることなく外資系企業は行動している。特に中東のアラブ首長国連邦は国営の投資機関としてジェトロと呼ばれる投資促進企業などがあり、国家レベルの外国資本などの投資や開発事業が行われている。そして、石油を背景にしたオイルマネーによってアラブの民間の企業もまた世界に進出している。特に国際化の面では日本の北海道の土地をアラブ人が大量に購入していることも国境を超えて取引が行われていることが理解できる。
広告業界の世界への多角化
広告は様々な業種を知る上で非常に重要なものである。日本では電通や博報堂や日本を代表する広告代理店と呼ばれているが世界にはこれよりはるかに大きな広告代理店が存在する。それがアメリカのOMNICOM、IPGイギリスのWPPという企業である。これらはアメリカだけではなく世界に影響力を持つ広告代理店である。広告代理店はメディアを司る影の支配者とも言えるがこれらの企業もまた自国にこだわることなくヨーロッパやアジアを舞台にして様々な企業をクライアントにしている。この3大広告代理店を含んだ世界の広告代理店において有名なのはフランスのピュブリシス、アバス、アジアでは日本の電通である。WPPグループでは広告界で有名なオグルビィ・アンド・メイザーなどのCMや各メディアの広告を製作するクリエイティブ企業が存在する。クライアントはIBMやDOVEなどのアメリカを代表する企業である。しかし、これらの広告会社は自国だけに絞って業務を行っているわけではなく、日本などのアジア進出なども見られる。フランス人であるカルロス・ゴーン率いる日産自動車もオグルビィ・アンド・メイザーのクライアントである。これらの外資系企業は間違いなく田畑を耕すことなく、様々な場所に赴いて狩りを行うことによって生活を行っている。特にこれらの広告代理店は各々に密接に関係し、近年では電通などはグローバル戦略としてフランスのピュブリシス等と業務提携を行っている。そして、グローバル企業と限られた地域のみで業務を行う企業間にも格差が広まっている。特に外資を相手にする企業との差が広がっていることは業界の売上高を見ても顕著である。世界でもOMNICOMなどの外資系企業は多国籍企業であることが多い。特に世界のトップに位置する人々の共通の言語は英語である。広告は日本では電通の吉田秀雄という4代目の社長が民営放送の基礎を作り上げた事によって現在のテレビ、新聞、広告の仕組みが作られたと言われている。
その結果、広告代理店はメディアの世界では影の支配者と言われている。しかし、情報化革命によってメディアの本質が検索エンジンを使って自分の欲しいだけの情報を取り出すことやウェブをとうして広告収入を取るということに転換してきている為に、テレビ、新聞、広告のメディアの法則は崩れかかっている。これはメディアの転換が情報化革命により起きたからである。馬車や船から自動車、電車、飛行機へと交通の手段が変わり世界が変わったように、パソコン、ウェブ、検索エンジンによってメディアの転換期が訪れようとしている。メディアの移行は世界でも顕著である。現代では情報検索によって広告収入を得る時代へと変わりつつあるので、日本の代理店などは苦渋をなめることになる。特に新聞社は赤字を出すなど対策に追われている。これは若者がウェブをとうして情報を得ることによって新聞を読まないことに起因している。新聞は購読料と広告料で経営を行っている為に、若者層が大人になる頃には更に縮小が始まると予測できる。特に朝日新聞社は深刻な経営難に陥っている。そして、新聞社、テレビ、広告代理店は互いに密接に影響をしているのでこれらの業界は今後どう情報化に対応していくかが重要になってくる。ウェブ上でもビデオを投稿してユーザーが見るYOUTUBE、ⅠPLAYER、ニコニコ動画、それらに続くウェブビデオがテレビに代わる新しいメディアとして注目されている。これらもまたウェブ上に付属する広告によって収入を得ている。ウェブ広告は代理店を介さないでGOOGLEやYAHOOなどの企業が直接介して行っているものであるから従来の広告代理店はこれらにいかにして対抗していくかが重要になっている。GOOGLE(アメリカ)、YAHOO(アメリカ)、BAIDU(中国)と言った検索エンジンは情報化時代の新しい広告代理店である。これは40年前では考えられないことであった。世界でもパソコンが世界中にこれほどまでに広まると言う事は誰も創造していなかったのである。大事なのは世論などに従って人が集まることにあるのではなくて歴史をとうしながら世の中の先を
見渡す先見性であるということを忘れてはならない。
「耕す」から「狩る」時代へ
メディアの世界は新たな転換期を迎えようとしている。多角化が進む中で従来の農耕的な考えでは21世紀に生き残ることは非常に難しい。耕す時代からいかにして国境を超えて狩る時代へと転換しつつある。国境なしの時代を生き抜くには定住して畑を耕すだけではいけない。何故なら外側から新しい人間がそれらの畑を狩りに来る時代だからである。耕すことは重要であるが、これら外国の人々を外国の人と考えるのではなく違う文化を持った人間とどうやって付き合っていくかが重要である。彼等は広い世界を見ている。そして、地球を一つのものとして見ているのである。他国から来る留学性、外資系企業の社員、様々な目的を持って来る文化の違う人々はグローバリゼーションの時代には非常に必要不可欠な存在である。彼等は勿論の事英語を駆使し、お互いに違う文化を認めながら新しい時代を作り出しているのである。
多様であるということ
多様性とは様々な価値観、文化、伝統などの国家間を越えて持ち続けるということである。そのものにはそのものにしかないものがある。大事なのは共通の価値観を持ち続けることとそこにしかないものを繋ぐことにある。
10.紡ぐものと隔てるもの
現代において私たちの身近にあるものは膨大な情報から構成されている。どんなに大きな家も、小さな部品からできている。これらには勿論のこと設計図などを必ず必要とする。そして、バラックであっても頭の中で人が家を思い描くことによって作られる。自然にあるものや物質はそのものが性質を持つようにDNAや構造式で設計されることによって構成されているならば、全てのものは膨大な情報から成り立つという定義ができる。しかし、私たちの日常には触れるものと触れないものに大別できる。世界は情報と言う膨大でありながら2文字の「情報」という言葉で成り立つ簡単な構図により成り立つ。人間はこの物質というものに分けることができる。動物や日常にある掃除機や冷蔵庫などの生活用品もまた物質である。そして、現代社会はこの膨大な情報と日常の世界に支配されている。ここで言う紡ぐものと分けるものとはグローバリゼーション、情報化革命によって繋がるものと分離するものを指している。情報化が始まった1975年から21世紀を迎えて30年以上経過しようとしているが、情報化革命は確実に世界を変えたものである。情報化によって世界中を簡単に知ることができるようになった。しかし、物質的に見ればそれら世界の情報は必ずしも正確であるとは限らない。情報は確実に都合のいい様に書き換えられていることが多いからである。情報化は確実に世界を一つにする役割を果たしているが、あくまでも実際に行き、体感しなければそれらを完全には理解することはできない。匂い、風土、文化などは実際に行かなければ完全に知ることはできないことである。世界を一つにすることに確実に情報化革命は貢献したが、世界規模での人間の機械化、均質化が起こっていることを自覚しなくてはならない。
膨大な情報の流入、国家間の交渉、移民問題、貧富の格差、格差問題、テロリズム、世界は新しい局面を迎えようとしている。私たちの文化は超加速度的なスピードで価値観の普遍化は進んでいる。これからより英語を駆使しながらもはや移民や外国人と言えなくなるほどの割合で東京、ロンドン、メキシコシティ、北京、香港、ムンバイ、パリ、ニューヨーク、シンガポール、サンパウロ、シカゴ、ミラノ、モスクワなどの世界都市はより情報を共有し、人々が入り混じることになる。これらの都市はもはや国家のみの首都や都市ではなく、地球の世界都市として盛えていくことになる。一方で均質化の波も忘れてはならない。文化を共有すること、情報化が進むことによってより国家間の争いは少なくなっていくが、より人々が同じになり、資本主義、経済効率だけを考えることによって人間が機械となりさびついて死んでいく世界になる危険性が潜んでいる。
世界を紡ぐ交通
これからの社会は航空が非常に重要になる。情報だけのやりとりだけではやはり仕事をするにもコミュニケーションをするにも限界がある。交通をより速く行う為に様々な発明がされてきた。人、馬車、牛車などの動物を使う乗り物は最初の交通機関である。そこに20世紀初頭に自動車の大量生産が可能になり、自動車は人々にとってなくてはならないものとなっている。アメリカは自動車によってできた都市として考えても差し支えがないぐらいに自動車が必要な社会である。都市計画もまた自動車が中心にして計画されていることが多い。そして、自動車は建築までも変えた。自動者のデザインを参考にした移動型建築はこの時代にできたものであった。20世紀は交通の革命が起きたと言ってもいい。自動者、電車、飛行機の出現である。これらの交通は世界をより身近なものにした。そして、現代社会にとって密接に関係するのが飛行機であると言える。飛行機は世界を繋ぐ交通ルートである。自動者、電車などの交通機関と比べても非常に短時間で長距離を移動することができる。
航空と飛行機といった交通機関は国際化が重要視される21世紀では非常に重要なものとなっている。飛行機は軍用機、旅客機、輸送機などの種類がある。軍用機は戦争に使われるものである。飛行機は自動車と違い空港さえあれば自由に移動できる利点がある。長距離を最短の速度で移動することができる。アメリカのボーイング社やヨーロッパのエアバス社は航空会社としても軍用機などの製造元としても非常に有名な会社である。飛行機は世界中に点在する空港を経由して移動する。特に国際空港はその国の人の流れを理解するのに格好の場所である。新興国であるアラブ首長国連邦の国際空港では約8割の人が外国人であるという。中東は石油にオイルマネーだけではなく建設ラッシュによって人々がビジネスチャンスを見出しているからである。
交通の進化は世界を繋げる役割を果たす。これらは物流、人の流れ、文化の流れを促進し、世界共通の普遍的な価値観を普及する役割を持つ。特に重要であるものは時間の短縮である。資本主義社会が発達すればするほど企業の売上を上げていかなくてはならない。何故なら売り上げをあげれば収入が多く手に入るからである。収入が多く入れば今度は生活が向上する。全ての経済はお金というもので成り立っているからである。人類史上最初の偉大な発明はお金にあるのかも知れない。そして、より効率的に作業するにはいかにして短い時間で能率をあげるかが重要になってくる。今までに何時間もかかるものが数分でできるようになることで経済効率の促進が始まる。航空がより進歩することによって人々はより短い時間で目的を達成できるようになってくる。これら交通の発達に資本主義社会がより活性化していったが、交通の進歩に加えてより人々の距離をゼロにしたものが情報である。世界中の人々の距離を限りなくゼロにしたのは情報と交通の発達である。パソコンや携帯を使用して世界がリンクすることによってより作業効率やコミュニケーションが容易になり、様々な技術が世界標準として世界に発信されるようになる。ITなどの最先端技術はアメリカで発信されてきたものであるが、これはアメリカが冷戦後に力が一極化し、軍事力や大量の資本を背景にして世界に影響力を持ってきたからである。しかし、21世紀に入り、アメリカだけでなく様々な地域の情報などウェブを使って認識することのできる現代では流行が多角化する。パリやイタリアがファッションの聖地であり、車の聖地は日本になり、半導体は韓国、雇用に関しては中国やインド、石湯に関してはロシアやアラブ、鉄鉱石などの資源はブラジルや南アフリカなどになり、その地域によって強みを発揮するようになる。これらが新しい時代の多角化と言えるものになる。
それでは各国の航空のネットワークについて調べてみる。ネットワークもやはり植民や戦争を起こした国々と密接に関係していることが多い。これらは言語、文化、移民、教育が半ば強制され、または流れ込んできた推移があるためである。その国の言語を知り、文化を知っていれば貿易も容易に行いやすいからである。
世界都市と航空の関係
世界都市と呼ばれる地域は基本的には密接にリンクしている。東京、ニューヨーク、ロンドン、香港、ソウルなどの世界都市は密接に関係している。これらは外資系のグローバル企業などが支社を世界の主要都市へ構えているからである。特にロンドンが密接に関係しているのがニューヨーク、パリ、香港である。特にイギリスの首都でもあるロンドンは世界都市の影響力を示す順位の中でも1980年代から1997年にかけても世界一世界都市として影響力を持つ都市であると言われている。ロンドンヒースロー空港はロンドンにある国際空港である。首都であるロンドンにはここから15分程度でいける距離である。特にロンドンは世界金融の中枢を担っている。特にロスチャイルドは世界の金融界を支配してきた一族であり、アメリカの金融界はロックフェラー、ヨーロッパの金融界はロスチャイルドと言われ今でも影で金融システムを操っている。特に1800年代にロスチャイルドの5人の息子がヨーロッパの金融の流れを作ったと言われ、ロンドンに行った三男のネイサンは金融の祖とも言われている。特にロンドンの投資銀行などは世界でも特に強い力を持ち、中東への出資などはロンドンの投資銀行等が先駆けて行っていた為、日本企業などは遅れを取っていた。ヨーロッパはEU(欧州連合)の誕生によってGDPを合わせるとアメリカを超す力を持った国家連合体となった。ロンドン、パリ、ルクセンブルク、ミラノは欧州連合の世界首都という役割も担っている。そして、香港はヨーロッパとアジアを繋げる重要な都市となっている。これらの移動時間は13時間20分となっている。そして、ロンドンは世界都市を繋げる上で非常に重要な役割を持つ。ヨーロッパへはパリを経由して、アメリカへはニューヨークを経由し、アジアへは香港を経由する。このようにして世界都市は各々にリンクし合ってお互いの文化を国境を越えて受容している。これを繋ぐのは情報と航空というものである。この移動時間などは今後もっと短くなる可能性がある。そして、世界を時間の短縮をとうして猛烈なスピードで進化しているのである。情報の共有は世界の均質化を生み出すが、様々な人種が自国を越えて相互に移動することを可能にしている。
世界を紡ぐ情報
パソコンや携帯もまた世界を繋ぐ道具である。交通の革新と同時に情報化革命が起こらなかったらこのようなグローバリゼーションが進行し、世界が一つになるという現象は決して起きなかったはずである。膨大な情報は世界を繋ぐ役割を果たす。世界を繋ぐものは検索エンジンを介して行われる。そして、携帯もまた世界へと国際電話が当たり前のようにできる時代へと突入している。特に国際電話ではIP電話と呼ばれるSKYPEというインターネットを使った国際電話ができ、簡単な機器さえあれば世界中の人々と簡単に会話が出来る時代へと突入してきている。電話やネットの進化によって世界は確実に短くなってきている。これらはたった30年余りで成されたものである。時間の短縮が技術革新により交通、通信、日常の生活など様々な世界で起こったことによる。技術の進歩は世界の周期を確実に短縮している。現代の技術革新は18世紀の産業革命の時にかけた歳月よりも短い。これらは更なる技術革新によってある地域で起こった革新は一瞬で世界に広まることになる。時間の短縮は過度の消費や量産の促進を促す。大量生産、大量消費によって出る有害物質による環境問題は非常に重要である。高度成長期においても様々な公害問題を日本は起こしてきた。水銀の流出や工場排水による水俣病、イタイイタイ病などである。そして、更に進むと考えられる生産と消費は世界にとって共通の新たな問題となる。情報の発達はこのように日本だけではなく世界という概念で考えることができるようになったことを示す。GOOGLEでは翻訳システムなどが発達し、英語がしゃべれなくても外国のサイトを見ることができるようになった。これによってますます国際化は進むことになる。日本の国際化の問題点は英語ができないということであったため、この翻訳によって市民レベルでの情報の共有が促進することになる。
世界を隔てるもの
世界は一つになるといっても、東京からいきなりロンドンなどにいけるわけではない。日本のアニメであるドラえもんなどではどこでもドアという一瞬にして世界の何処にでも行けることのできる発明品が存在するがこれらはあくまでも架空のものであり、人間は物質なので一瞬で地球の裏側に行くことができるということはほぼ不可能である。ここに全ては一つになるといっても隔てるものが存在することが理解できる。上海から南アフリカへ行くにも航空によって移動の時間は短縮したが、その地域の人と違う場所に行く人々が実際に会って話したりするのはSKYPEなどで繋がりが可能になったがその人の匂いや完全な姿までを知ることはできない。実際に現地に行かなければ知ることのできないことは未だに多くあるのである。移動するには時間というものがかかる。それは遠ければ遠いほど時間がかかるのである。しかし、情報の共有ができるのは世界の富裕層のみである。
隔てざるを得ないもの
アフリカは世界の大陸の中でも特に貧困に陥っている国々が多い場所である。パキスタン、イスラエルなどの中東もまたいまだに情報化の恩恵を受けているとは言えないが、情報化にとって最も必要なものである携帯やパソコンを持つことができるのは先進国にいる人間である。ほとんどの途上国の人間はこれらの通信機器を持っていない。そして、情報を促進させる為のインフラも整ってない。アフリカのシリア、ルワンダなどは未だに戦火の中にある。特にソマリアなどは政府自体がアルカイダのような国であり、国レベルで拉致などが行われている。これは北朝鮮の拉致問題と同じことを政府レベルで行っている。特に世界でも中東、アフリカ北部、中部は危険であると言われている。中東やアフリカの地域には戦争もさることながら道路などの基盤も、または衛生上でも問題がある。特にアフリカでは夜になると真っ暗になり、何も見えなくなる地域が非常に多い。特に日本人はアメリカ人やヨーロッパ人と違ってアフリカに来ることがあまりない為に非常に目立つという。そして、この地域は貧困、戦争、宗教間の隔たりによって資本主義が民間レベルでは流入してこないこと、資本主義社会の最下層に位置することがこの地域のグローバリゼーションを妨げる理由となっている。アフリカは先進国の産業システムの最下層に位置する場所であると言っても過言ではない。特にアフリカはほとんどの地域がヨーロッパの植民地であった。アメリカやフランスに黒人が多いのはこのアフリカという地域から強制的に連れてこられた為である。黒人差別が未だにあるのも、肌の色だけではなくて白人の奴隷であったことが影響している。特に中東では女性差別が未だに根強く残っている。21世紀を迎えても、人種差別などの問題は完全には解決されてはいない。
アフリカは何故資本主義の最下層に位置しているのであろうか?
何故資本主義の最下層に位置しているのかは植民の歴史が示している。「愛と悲しみの果て」というアメリカの映画がある。白人によるアフリカの植民支配を背景にして描かれた映画である。しかし、この映画はアフリカの実情を完全には描写していない。アメリカ向けに作られた映画である為、アメリカの植民地支配を完全には描写してはいない。資本主義のピラミッド構造の最下層はアフリカにあるのは先進国の利益追求によるものである。例えば、大企業がチョコレートを生産して販売して利益を得ようとすると何処でその経費を削減するか考えてほしい。勿論、この製品の開発はほとんど外国で行われている。何故なら自国で人を雇うよりも開発途上の国で雇った方が絶対に安いからである。中国やインドが何故世界中の企業が進出し、製品を作っているかと言うとアメリカ、ヨーロッパ、日本の約10分の1の給料で人を雇えるからである。アフリカでもこれと同じことが言える。植民地時代ではアフリカの人々は奴隷として雇われていた。勿論のこと給料はほとんどない。食糧や住まいが与えられるだけで人間としての生活は保障されてはいない。先進国はチョコレートを手に入れる為にマカオ等の原料が必要である。その為には広大な土地を使ってマカオを栽培する場所が必要であり、それがアフリカであった。先進国の企業が利益を出す為には経費をできるだけ落とす必要がある。その為、アフリカの人々は原料を大量に栽培するがそれらで得られる収入はほとんどない状態である。現在のアフリカでは未だに植民地の名残を利用して先進国では考えられないほどの安価な給料で人々を雇っている。これが貧困のシステムであり、資本主義の最下層に位置する理由である。イギリス、日本、アメリカの先進国の人々は勿論これらをほとんど知らされることなく生きている。これらの実情をよく知っているのは経営陣や政治家達である。そして、先進国はこれらを黙認しているのである。
アフリカは貧困、宗教、民族間の問題によって紛争の絶えない地域である。これらは資本主義社会が作りあげた最下層民とも言える。最下層民は封建主義国家には必ずあるものであった。貴族、農民、市民、武士などは階層化されて国家が成り立っていた。これらの人々に問題を起こさせないようにする為に最下層の階層を敷いたのである。日本ではえた、ひにんと呼ばれた。これらに位置するのは犯罪者や奴隷などに位置する人々である。何故このような最下層を作り出すのかというと階層性社会では必ず問題が起きてくる。自分達はなんでこんな苦渋をあじ味あわなきゃいけないのかということを言う人々が出てくるのである。これらは多くは農民であった。農民一揆などは飢饉が起こった時には頻繁に起きるものであった。それを解決する為に通常置かれた階層に最下層を作る必要があった。そして、自分より下がいるのだと思わせることで暴動や反乱などを起こさせないようにするという効果があったのである。奴隷は雇用としても費用がかからない為先進国にとってはなくてはならないものであった。アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどの国は自国では確保しきれない資源を外国に求めたのである。それも自国以外の地域を植民地化することによって原住人を使い、食料、原料、人を物として大量に持ち込んだ。それが自国において利益を最も出すことができる方法だったからである。事実黒人は物として扱われ販売されていた歴史がある。これらはアフリカが資本主義社会の最下層に位置することに関係している。彼等はほとんどの場合、先進国に見られるような教育を受けていない。教育がなければ文字を書くことも、高度な技術を必要とする仕事に就くことはできない。紛争のある国では兵士として7歳~10歳ぐらいの子供達が兵士として使われている。彼等は隔てざるをえない人々である。このような地域の人々は資本主義社会の情報を知ることも制限されている。知ることのできるのは支配者階級だけである。紡ぐものと隔てるものとは現実世界が情報により繋がっていること、大量生産、大量消費を生み出す物流によって繋がっていることと、隔てるものは必ず人は一人しかいないので複数の場所に共存することができないということ、そして、宗教や国家間での地域性によって隔てられることがあるということである。これらは情報化時代においては錯覚を生み出すことがある。行ったことのない場所に行ったようになることは情報化における疑似体験である。これらは非常に危険である。実際に行ったことのある場所と知っている場所では全てが違っているとは言えないが、それらはその風土の風や匂いや触れることのできるものを感じないままそこにあたかもあるような感覚に陥ってしまうことがある。これが情報化時代に陥ってしまう弊害である。
第一に隔てるものは物質間の問題である。人は必ず一つの場所いることしかできない。同じ人間が複数の場所に存在することは物質間ではありえない。例えばシンガポールにいるサラリーマンが、シカゴ、インド、フランス、ロシアに存在することは不可能であった。しかし、世界に同時にリンクすることが不可能であったことを可能にしたのが情報化である。パソコンや携帯を通せばこれらの共存は可能になる。現代社会は一つの場所に存在しながら、複数の場所に繋がることができる。だが物質間では人は一つの場所にしかいることができない。実際に移動する際には交通である航空を介する必要がある。隔てることなく繋がるにはこの情報と交通の要素がなくしてはこれらを成し遂げることは不可能であることを自覚しなくてはならない。
物質間の航空の発達による時間の短縮。情報化による情報の共有。
航空や情報化は紡ぐものと隔てるものをよりなくすことのできる非常に重要なものである。そして、世界はこの2つの要素の発展によってより世界に共通の価値観を持ち込むことによって資本主義を促し、貧困を救うことができる効果も持つ。資本主義が進めば進むほどその国の飢餓はなくなっていく。これらはインド、中国で証明されていることである。しかし、国家間や宗教の隔たりによってこれらの流れが遮られているのも事実である。均質化には欠点だけではなく利点も存在するということも私たちは自覚しなくてはならない。
第二に隔てるものは宗教や地域性である。宗教や地域性によって共通の意識を認識させるものは加速度的に進んでいる。そして、これらは均質化を生み出す。宗教や地域性と言ったものはこれらを妨害することもあるが、そこにしかない場所を生み出す力も持っている。アルカイダなどの地域はこれらの個々の場所としての力を国際様式と共存することが困難な場所であるが、地域性による隔たりと資本主義社会の和解が進んで行けば全世界規模で国際様式とその地域独特の文化を併せ持つ場所が生まれるはずである。人々が均質化することなく、お互いに国家間を越えて理解する為には国際様式と独自の文化との共存が必要である。均質化だけが進み、同じ価値観だけを植え付けてもそれでは機械として量産されているだけである。共存と個別化は両立が可能なものである。そして、何よりも世界標準、地域性、個人の共有を行うことが大切であることを忘れてはならない。
11.生と情報のはざまに
情報化によって都市が発展すればするほど人間の機械化は進んでいき、精神の衰退が起こる。活力を求めようとすれば今度は資本主義に支障が起きていく、現代社会には見えないはざまが存在する。
人々が活力を持ちながらグローバリゼーション、資本主義の中で生きていくにはどうしたらよいかというのが本書の目的である。人間とは本来は理性と感情でできている。哲学者であるラ・メトリーやデカルトが言うような人間機械には本来は人間が活力を持つ生き物であるならばならないはずである。しかし、日本の現状は豊かになればなるほど個として、人間として弱くなっていく。経済大国になり、世界でも有数の国になったことによって、国家主導であっても夢を追うこともなく、ただ生きていければいいと考える人々で満ちている。これらはイギリスでも同じである。事実目的を失って働くこともしないニートは日本でもイギリスでも非常に増えている。現代社会は確実に人々までもが製品ラインの中で製造されて資本主義社会の中で歯車となり動いている。正に人間が機械になっている時代である。機械は使えなくなれば代わりの歯車に代用すればいい。自分は国際様式、世界共通の価値観を植え付けるこの様式は本当に正しいのであろうかと真剣に思っていた。世界で最も巨大な産業である建築の世界をとうして、この国際様式という同じものを、同じ材料を使って、地域を関係することなく普及するという行為は間違っているのではないかと真剣に考えていた。建築は最も大きなものである。勿論のこと全てを包み込む。人、テレビ、携帯、パソコン、ベッド、風呂、トイレ、台所などは全て建築と同じものであると言ってもいい。勿論これらは相互に作用する。新しい革新が起きれば建築も変わる。そして、建築が変われば人の動きも変わるのである。これらは相互作用のもとになりたっている。人は理性と感情で構成されていると言われている。理性は合理性や効率性を重んじること。それでは感情とは何を表すのであろうか?感情は人間に喜び、悲しみ、怒り、嘆きなどを刺激するものである。これらは国際様式では芸術、服飾、絵画や彫刻によって解決されるべきものであった。しかし、資本主義の進んだ国家での人々を見れば均質化が進み個人としての力もまた弱くなっている。これらは結果であり、理想は理想である。結果として何かしらの要因を理由にして人々は弱くなっている。その何かしらの理由は建築にも必ずあるはずである。ウィンストン・チャーチルの言うように建築は人が作るが最後は建築が人を作り出すこともあるのである。それでは、この新しい時代には何が考えられるであろうか?時代にはそれに適した様式がある。機械時代には機械時代の様式があったように情報化時代には情報化時代の様式が必要である。
新しい世界を切り開く様式
二一世紀の新しい様式として挙がっているのが機械と自然を融合させるという概念である。元々、人間は洞窟の中で生活していた。狩猟で生活をしていた原始時代は周りの環境は全て直角や直線がない自然形態であった。ならば人々が本当に落ち着くのは自然の造形や自然がある場所なのではないかというのが日本の現代思潮として流行しているものである。これらは伊東豊雄建築設計事務所、佐々木陸朗、藤森輝信などの現代建築思潮を作っている人々は機械と自然の融合を提唱している。しかし、自然形態を使用することによってできた建築は通常の規格化された部材を使うよりも何十倍の建設費用がかかる。今後二〇年後、三〇年後の中国、インドの台頭を見ると、イスラム建築や中国の屋根など、東洋の建築は得てして自然形態になる可能性が高い。新しいグローバルスタンダードは中国、インド、日本、韓国、台湾などの東洋を中心としたものに移り変わっていくと考えられるので今後アメリカに代わって超大国が変われば国際様式と呼ばれたものにも変化が訪れるはずである。特にヨーロッパやアメリカで始まった国際様式は東洋の文化を引き継いだとは言い難い。それは東洋という国がまだ国家としての力がまだなかったからである。国家権力は世界の文化を作り出すものとなる。イギリスがまだ大英帝国として世界の4分の一を支配していた頃はイギリスの力が絶対的であり、文化や技術などが世界標準となった時代があった。だからこそ英語は中国語と同じく世界で最も話されている言語となったのである。超大国の文化は世界に伝道して伝わるのである。そして、イギリス後の超大国はアメリカであった。国際様式はアメリカで生まれたものである。特に金融システムはロスチャイルド家などの台頭によりイギリスが金融システムを世界標準にしたものである。世界は基本的にはその時代の超大国の影響を受ける。現代においてもイタリアの新米派の務める二コラ・サルコジが大統領を務めるイタリアもまたアメリカの政治システムの流れを色濃く受け継いでいる。特にヨーロッパの国々はほとんどがアメリカの政治システムを参照していることが分かる。超大国の模倣は世界中で行われるのである。
西洋の様式と東洋の様式の統合
新しい時代を読んで行けば新しい時代は中国やインドに変わっていく可能性が高い。次なる超大国から様式が受け継ぐものがあるとするならば考えられるのは建築ではインドのイスラム建築や中国の左右対称を基調とするような象徴性を重要視する建築であると考えられる。そして、現代の日本の建築思潮は新しい時代に非常に近いことを行っている。このようにして超大国の流れを読めば、未来もまた予測することができる。これらに必要不可欠なのが情報や航空という概念である。新しい国際様式は西洋と東洋が入り混じる世界になる。それは情報化という概念を踏まえなければ話にならない。古来より様々な技術革新により建築もまた変化してきた。産業革命以降、鉄やガラスが産業に使われるようになったのを経緯にして鉄、ガラス、コンクリートでできる近代建築が20世紀初頭に確立された。自動車、電車、飛行機などの交通の進歩によって都市が変わったのである。このようにして建築は社会を映し出す鏡となっている。そして、国家間を超えた21世紀の建築を作り出すのは航空と情報化である。事実自動車業界は変化を遂げてきている。アメリカの外資系証券会社であるリーマン・ブラザーズの破綻によってアメリカ経済は転換期を迎えようとしている。特にブッシュからオバマ政権へ変わったことにより政治的な意味でも様々な分野で転換期が訪れようとしている。時代の節目には必ず革新が起こる。台頭するものがあれば、衰退するものがある。自動車は想像を絶するほどの経済危機に陥っている。アメリカを代表する自動車会社であるフォード、ゼネラル・モータース、クライスラー等のビック3企業は経営危機に陥っている。特に都心の若者層を中心にして購買率が減少している。また新聞もまたITというメディアの台頭によって苦境に陥っている。時代の節目には必ず、台頭と衰退がある。
デザインは情報によって構成される。
情報化によって国際様式が変わっていくとするならばパソコンを使ってデザインを行う先進国の人々に当てはまる。彼等はパソコン上の膨大な情報を使用してデザインを行う。そして、素人でも気軽にデザインを知ることができるので模倣をすれば簡単にある程度の外観的なデザインを行うことができる。デザインもまた膨大な情報により成り立っているのである。これらは文学作品等を作り出す作家、ジャーナリストにも言えることである。彼等は現代ではパソコンを利用してデザインや執筆を行うようになっている。過去には膨大な時間が必要なものでも、今では容易に取り出すことができる。ひとつの場所にとどまりながら、複数の場所で作業を行うことができるようになってきたのである。これらは航空と情報の更なる発達によってより合理的に加速度的に経済活動が行われることになる。航空と情報が更に発達して行けば紡ぐものと隔てるものがなくなっていくはずである。しかし、人間が移動する時には時間を必ず使わなければならない。日本からロンドンへも移動時間が10時間以上かかることからも時間の弊害は地域間を移動する上で最も隔たりのあるものである。交通の時間の短縮は今後縮小していくと考えられるが、宗教間や国家間の問題が解決されれば、グローバリゼーションが進んでいく上で最も問題となると考えられるのが地域間を移動することが最も大きな隔たりとなる。
情報の中にある「自然」と「宗教」
情報化による利便性の章でも述べたが、パソコンや携帯などを使用することによってデザインまでもが情報によって形成されている。パソコンもまた膨大な情報によって成り立っているからである。これらは細分していけば半導体といった膨大なデータが詰まった部品を合わせることによってできているのである。情報化は無論のこと均質化を促進するものである。そして、デザインを行う際にも使うツールは世界でも共通のものである。イラストレーターやフォトショップなどがある。アップル社とシスコシステムズというシリコンバレー有数のソフトウェア制作会社が協力をして開発したもので、この2つの革新的なデザインアプリケーションは非常に便利なものである。デザイナーはウェブデザイナーであっても、家具デザイナーであっても、建築デザイナーであってもパソコンを使う限り、ほぼ共通のデザインツールを使ってデザインを行っている。グーグルアースを使い敷地を調べ、グーグル、百度、YAHOO等の写真を使い、デザインアプリケーションを使用してデザインする方法が現代様式と言ってもいいものとなっている。デザインは情報の集合であるという定義は現実のものとなりつつある。超大国と流行の変化を見れば東洋で見られる機械と自然の融合、イスラム建築、中国建築に新しい世界共通の様式が見えてくる。それではこれらに共通するものは「自然」と「宗教」である。自然と宗教を密接に繋げるものは人間である。人間は心理学の面で見ても円や楕円などの造形に快適さを求めている。これらは宗教学でも絵画などに表れている。特にアジアで見られる仏教寺院にある描画である曼陀羅と呼ばれるものは、全てにおいて円を書いている。円は人々において最も美しいものであるとされているが、これらは人間が円というものに安らぎを抱く為だと言われている。特に曼荼羅は医療でも使用されているものである。これは人間が類人猿の頃から見慣れてきたものであるからと考えられる。自然形態には量産に適した直線や直角の規格品等はほとんど使われてはいない。これらの造形は近年、世界規模で見られるものである。自然、細胞などを表す造形が世界で見て流行している。特にドバイなどの新興国の国を見ればそれらの造形が多々使われ始めていることを理解することができる。生命と情報は二一世紀を送っていく中で絶対に必要なものである。どちらも乖離しては行けない。より良い生活を求めるがゆえに資本主義は世界中に政治、経済、文化、食品、生活用品、乗り物において絶対的に必要なものとなってきている。資本主義はより効率よく、より機能的で、より豊かな社会を与えてきたが一方で失ってしまったものがある。一九八〇年代に入り、パソコンや携帯が先進国の人々に必需品となっていく中で産業革命以降の私たちの生活はグローバリゼーションという世界規模での情報の共有によってより均質化が進み、膨大な情報、大量生産、大量消費によって流通の速さが異常なまでに進んでいき、都市や国家の在り方でさえ、資本主義、情報化という流れに逆らえずに飲み込まれてしまっている。
生と情報のはざま
均質化というものは価値観の共有でもある。情報化が進むことによって私たちの生活はより迅速に、より快適な生活を送れるようになったのである。人々は同じ場所にいながら複数の場所にいる。先進国社会は複数の国家と繋がっているのである。現代では資本主義、情報化が進めば進むほどはざまができて失うものが存在する。失うものは活力である。人々の力、個人としてのエネルギーとも言っていい。戦後や戦前の私たちの親や祖父などを見てみれば彼等の若年の時に比べれば確実に国家としても、社会としても元気をなくしていっている。これらは資本主義社会や情報化というものが確実に関係している。人々に及ぼすものは相互作用のもとに影響しあっているからである。人間の生と情報にははざまが存在している。情報化が進めば進むほど、グローバリゼーションというものが世界規模で構築される。情報化によって均質化が進むほど人々の活力は弱くなる。
だが資本主義社会は確実に豊かさをもたらすものである。経済発展の結果を見れば社会主義というものとどれだけの差がついたことであろうか?資本主義、グローバリゼーション、情報化は人々にとって物質的な豊かさを与えるものである。しかし、人々の心や精神に活力を与えないという副作用が存在する。資本主義社会の国家の形成は現在ではこのような形を辿っている。
「既存社会」、「国家の形成」、「開発途上」、「発展途上」、「先進国」である。そして、新たに加えられるのが「精神の衰退」である。
この段階は国家というものが誕生する上で必要不可欠なプロセスである。日本であっても現在の日本国憲法を基とする日本という国が形成されるまでに過去500年の流れで見れば室町、豊臣、江戸、明治という国家が移り変わって行くことによって形成されている。しかし、国家が形成される時は既存社会といったものに軍事的介入や政治的介入が存在することによって形成されている。江戸から明治政府へと移行する時も戦争は起きなかったが柱小五郎と西郷隆盛を長とする薩長同盟という軍事的圧力があったからこそ坂本龍馬による太政奉還が実現し、天皇を頂点とする大日本帝国ができたのである。新しくできた明治政府は西洋の文化を取り入れて、近代化を推し進めることによってできたものである。現在の日本はアメリカに戦争に敗れることによって成立した国である。日本国憲法等も、アメリカのリンカーンの有名な演説である「人民の、人民による、人民の為の政治」を参照してGHQによって日本国憲法に改変されてはいるが挿入されている。日本はアメリカの力に絶対的に支配されている。それは日本の政府制度そのものがアメリカという超大国によって形成されていったものだからである。敗戦国や植民知となった国々は間違いなく、その勝者である国々の影響を受ける。それは文化だけではなく政治的な部分も含めて様々な分野で影響を受けている。そして、資本主義社会として日本は戦後、類を見ない発展を遂げることとなる。戦争による復興を含めて発展途上にあった日本は、輸出を国家の基盤とすることによって想像以上の発展を遂げることに成功した。
イギリスとアメリカも同様である。
アメリカは1775年に英国領であったアメリカで独立戦争が起きたことによって成立した国家である。しかし、コロンブスがアメリカ大陸に上陸したときはそこにはインディアンと呼ばれる先住民が住んでいた。今ではアメリカは自由と民主主義の国であるが、アメリカという国家が成立するまでには先住民の迫害や追放があったことは否定できない。アメリカは非常に若い国家でもある。国家が形成されてからまだ230年程しか経過していないが、イギリスやヨーロッパなどから自由を求めて移民が大量に増えていったこともあり、ヨーロッパの技術革新や文化などが入り混じる国家であった。そして、先住民、ヨーロッパ各地からの移民、奴隷としてアフリカから強制連行された黒人によって構成されていた。ニューヨークなどを見ても、人種が多様なのはこのような時代背景があるからである。スポーツを見れば人種間の差別が理解できる。黒人が水泳を行うことがほとんどないようにスポーツにもこのような人種間の階層性が未だ存在しているのである。独立戦争、南北戦争はアメリカが国家として完全に機能するまでに起こった戦争である。母国であったイギリスを越える経済大国が形成されるようになるまで既存社会、国家の形成、開発途上、発展途上、先進国のプロセスを必ず経ている。特に元々英国領であったアメリカはイギリスの文化を強く受けている。
イギリスは1000年前にノルマン系民族が従来あったイングランドに住んでいた先住民を追い払うことによって形成された国である。初代君主はウィリアム一世であり、侵略王と呼ばれた。彼はフランス人の母を持っていたので、イギリス人は元々はフランス人の血を引いていたことになる。この国の政治はイギリス国王を頂点とする立憲君主制である。近年ではブレア首相がイラク戦争に参戦などが話題になったが、この国はアメリカ以前の超大国である。かつてのイギリスの力は絶対的であった。特にイギリスは教育や金融においては世界でもトップクラスである。ロンドンなども世界最高の都市として文化、芸術、政治、金融、建築などの拠点となっている。ノーマン・フォスターやリチャード・ロジャースは世界のハイテク建築思潮を作り出すなど、建築や芸術の中心地でもある。特にイギリスは15世紀から世界史に頻繁に出てくる。古くから宗教間の対立などによってイスラム教国と戦争を起こし、隣国であるフランスと18世紀は英仏戦争を起こした。特にイギリスは領土自体がない島国なので、海を出ることによって資源などを手に入れた。特にその植民地は1950年代にも存在していた。インドは17世紀以後、英国エリザベス女王が支配するようになってから完全な英国の植民地であった。ガンジーやネルーが非暴力の独立運動を行い、インドが完全に自治を持つのは1950年代に入ってのことであった。インド人が英語を話せるのもこのような政治的な経緯がある。中国もまたアヘン戦争により香港などは事実上の植民地であった。このようにしてイギリスは他国に自らの文化を介入させ、植民地から資源や労働力を手に入れたのである。17世紀に起きた産業革命の時代はイギリスは世界に最も影響力を持つ国であった。イギリスと同様に、オランダ、スペイン、ポルトガル、ドイツなどの国々は自国にないものを他国に求めることで自国を豊かにしていった。
これらの国家の形成のプロセスは様々な要因がある。そして、国家の形成には必ず既存社会という基盤があり、それらに何かしらの介入があることによって形成されているのである。既存社会、国家の形成、開発途上、発展途上、先進国のプロセスは資本主義社会において国家が発展していく上で必要不可欠なものである。
国家の先進国へのプロセスの中で先進国になった後に辿るものが存在する。それが「精神の衰退」とも言っていい。精神という定義は非常に難しいものである。資本主義社会が浸透し、飢餓や貧困などがなくなる。格差はあるものの、道路、水道、電話、公共設備などが確立していき、大量生産、大量消費社会が当たり前になっていくことにより物質的な資源には困らないで生活を行うことができるようになる。しかし、より豊かになればなるほど、より合理的に、より快適性を求めるようになる。そして、効率化が進めば全ての産業は大量生産に適した自動車のようなレールが形成されるようになる。結果、人間までもがレールの中で形成される。社会が経済というものを求めている為に、より多くの生産性を生み出す人間を求める。よって人間もまた機械と同じレールの中で組み立てられて人が形成されるようになる。その教育のレールでうまく適応できない人々は機械として捨てられていく運命にある。現代社会は人までも機械として扱っている。そして、機械となることで人はより抵抗力や感情をあまりもたないものとなる。これが「精神の衰退」である。進歩が進めば進むほど、資本主義社会が確立されればされるほど「精神の衰退」が始まっていく。日本人やイギリスの若者等にニートや無気力で働かない人々はこれらの資本主義社会の仕組みによって活力がなくなってしまった人々である。人間は目的がなくなれば動かなくなるし、行動も起こさなくなる、与えられたことだけをやるのを社会が良いとする社会では抵抗や強さは生まれない。ましては世界をよりよくする革新が生まれるわけがない。経済効率を求めること、資本主義社会を廻せば廻すほど全世界規模での均質化が起こっていくのである。これは現実のものとして私たちは捉えていかなければならない。
世界を認識すること
活力の低下を解決するにはどうしたらいいか?これらを政治、文化、医療、広告、建築など身近な分野で解決する為には?それは私たち自身が社会構造を認識することが大前提である。知っていれば抵抗も生まれるし、打開策を探そうとするはずである。だが大抵の人々はこれらを知ることはない。何故ならほとんどが自分の歩くレール以外から出ようとしないからである。資本主義が作り出したレールは人間にも敷かれている。レールの上を歩けば周りの人々が歩んできた道を歩んでいくことができる。そこを歩くことは悪いことではない。しかし、決められたものしか知らないということによって自分たちが産業構造のレールの中を歩き、大量生産、大量消費されていくことを理解できはしない。だがレールの外はとてもじゃないがいいものではない。中退者、落ちこぼれ、ニートなどはこのレールに入れない人々である。彼等の存在を実際に理解する人は少ない。だが彼等は資本主義に支配されなかった人々でもある。彼等は産業に新しい構造を作り出す可能性を持っている。そして資本主義社会人々は量産化されている。同じ価値観を持った人間で固まり、教育、社会、地位、検索などによって確実に階層化されているのである。大体の人々はこれらの階層に留まる事で一生を終えていく。この階層性はヨーロッパの階層社会に続く、資本主義社会の階層性である。現代社会では階層性を元にして人々は大量生産、大量消費されていく。そして、豊かになればなるほど精神の衰退が起きる。このままの資本主義社会が全世界規模で進んで行けばアメリカ、イギリス、日本などの国と同じような結果となり、豊かさの中で生きる目的をなくして仕事もしなくなる社会人やニートが増えていくことになる。活力の低下は国家の衰退をもたらすものである。資本主義社会、グローバリゼーション、情報化には利点もあるが人間の機械化という問題点がある。今後インド、中国、ブラジルなどは先進国化し、同じ道を辿る可能性が高い。
12.活力とは何か
人々にとっての活力とは何か?
人々がより元気で、いきいきとした生活をするにはどうしたらいいだろうか?何が活力を表していて、何があらわしていないのかを定義するのは大変難しいことである。ここでは年代で見ていきたい。日本の10代、20代の若者を見ているとほとんど目標大きな目標を持っていないことが分かってくる。ただ好きなことができて暮らして行ければいい。別に今の生活には満足しているし、何もそんなに必死になって努力することもないじゃない。彼等から帰ってくる答えはこのような返答が多い。そして、資本主義社会にも確実に存在している階層性の中で若者達は同じ階層の人間と寄り添い、同じ価値観を共有しながら生きている。階層性とは一種の敷かれたレールである。現代の資本主義社会は発展すると完全な分業を行う工場と化している。そこでは人間が機械となって生産されては社会という製品の流通を通り定年まで社会の流通の中で歯車として動き、古くなったら交換される。特に10代、20代の若者達はある意味資本主義社会が完成されきった中で生きていることによってより機械として生きる人間が多くなっている。彼等は感情をあまり持たない。ある意味感情を持つことは生産という観点から社会構造を見ていけば支障をきたすからである。
それでは日本の50代、60代の人間を見ていこうと思う。彼等は確実に目的を持っていた人間が多い。特に国家レベルにおいていかにして日本経済をいかにして成長させていくか、アメリカに追い付け追い越せという明確な目的意識を持っていた人々が多いので彼等は私たちから見たら確実に元気である。元気というのは行動力を見ても50代、60代の人々は活力があると言える。彼等は明確な目標を持っていたため、日本を成長させていった日本で最も貢献した人々である。特に団塊の世代などは日本国を世界の経済大国にしていった原動力である。ここに目的というものは非常に重要であることが分かってくる。人々が考えることが現実になると言ったのはナポレオン・ヒルという成功者に関する研究を行った人物である。人は自分が考えているものよりも大きなものになることはないと論じた。確かにそのことを考えなければ行動をしないのは当然のことである。
何かを起こそうという目的がなければ大きなことを成し遂げることはできない。プロスポーツの世界でも同様である。テニスで世界的なプロテニスプレーヤーになろうとすればアメリカ、スペイン、オーストラリアなどのテニスクラブに行かなければ世界で闘うのは難しい。しかし、行かなければプロになる目的を成し遂げることはできない。ここに目的の存在がある。目的とは思考すること、目標を持つこと、夢をもつことである。お金でもいい、スポーツでもいい、恋愛でもいい、権力や地位であってもいい。目的を持つことによって行動が生まれ、そこに活力が生まれるのである。日本の若者に元気がないのも強い目的がないからというのが理由にある。自己実現の権威であるロビン・シャーマの著書でも大きな夢や目標を持つことが人生において重要なことであると言っている。現代において大きな目的を持てば、目的が違えば行動が違う。その中で大きな目的を持つとそれを持たない人々との隔たりが生まれるのを感じることになる。共同作業において価値観が違うということは人間関係を作っていく上で支障をきたすものとなる。しかし、全ての偉大なものは大きな目的から成し遂げられることを忘れてはいけない。周りに合わせれば楽であるが、新しい革新は生まれることはない。周りと同じことをしているのであるから当然のことである。まず重要であることはどんな人でも目的を持つことによって活力を得ることができるということである。そして、できるだけ大きな目的を持つことが重要になってくる。資本主義社会の完成された国に住むことはこの目的を失わせる要因ともなる。国家レベルでの目標の共有があることによって日本は高度成長期に乗って世界の先進国の仲間入りしたことを忘れてはならない。
全ての行為には目的が存在する。
全ての自然物や人工物には目的があると哲学では言われている。これを目的論という。アリストテレスやカント等が提唱したものである。人間だけではなく全ての自然や人工物は目的を持って形成されているという見方である目的論を提唱したのはアリストテレスが始めであると言われている。プラトンもまた物質や思考は目的を持って成り立っていると言っていたが、目的論として体系化したのはアリストテレスである。哲学の世界においてこれに対立するのが機械論である。目的とは人間の機械化を打開する方法論でもある。目的がない人間は活力もないはずである。ただ生きる為に最低限の事だけをして生きることはもはや生きることではない。機械である。機械は冷たくなって最後には錆びて交換されることになる。物質や自然物が目的を持っているというものは機械を打開するものである。目的を持つことによって活力が生まれ、人々がより心からの豊かさをもたらす。肉食動物が他の動物を食べるのも生きる為である。彼等は人間社会のように複雑ではないが、獲物を仕留めなければ家族を養っていく事ができない。チーターやライオンが他の草食動物よりも速く走ることができるのは獲物を狩る為である。そして、地球に水があるのも地球の温度は水素が水になる為の適温であるからである。水は生命を生み出す。このようにして考えると自然物や動物などは目的を持っているから形成されていることが分かる。目的は万物を構成する上で非常に重要であり、これらは人間にもあてはめて言えることである。
誰の為の正義か?
一つ目的論としての例を出してみる。現代において一番重要な観点は宗教間の戦争である。宗教間の戦争は何故起きるのであろうか?パキスタンが世界の火薬庫と呼ばれるのは何故だろうか?それは冷戦が原因にある。ジハードとは聖戦を表す言葉である。聖戦は古来よりイスラムの聖地イスラエルを巡る争いをしてきた。この闘いを聖戦と呼ぶ。イスラム教を冒涜するものに対して行う戦争を彼等はジハードと呼んできた。イスラム原理主義者達が聖戦をアメリカに仕掛けるのは自分たち以外の侵略者から自国、イスラムを守る為である。ここに彼等の目的が出現する。動機はいかなる動機であっても人を行動に駆り立てるものである。二〇〇一年九月一一日にワールドトレードセンターがテロリストたちによって崩壊したのもイスラム原理主義者達がロシアからアメリカに標的が変わったからである。彼等は自国の為の聖戦を仕掛ける為に入念にニューヨークに下見にきている。これらはすべて動機があったからこそ行われたものであった。パキスタンが火薬庫であるのもアメリカとソ連の冷戦の為にパキスタン等の中東が戦場になった為である。この地においてアメリカはCIAをとうして大量の武器供給が行われた。これもまた対ソ戦争の為に武器を大量に送ったからこそこの地は世界の火薬庫と呼ばれるようになったのである。目的は人々に行動を促す時に重要なものとなる。目的なくしてこのようなブッシュがテロとの戦いと言った宗教戦争が起こる筈もない。特にイラクを侵略したのはイラクが世界でも屈指の石油産出国であったことも要因であると考えられる。サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦の中東に石油が集中して存在する為、経済を循環させる為になくてはならない中東を巡って冷戦時から争いが起きていた。特にイラク戦争によってアメリカがこの石油資源を完全に独占して使用できるというメリットは戦争を起こした裏の事情でもあったに違いない。戦争は起こすべきではないが戦争もまた目的を持ってして行われる。 これらは自国の利益の為に行われるものである。
社会構造の目的
また現代の教育が幼稚園から始まり、小学校、中学校、高校、大学というシステムができているのも資本主義社会、経済効率を考える上でより合理的な形で大量に生産性の高い人材を輩出する為に行われているものである。このような教育は階層性に分かれた人間を大量に生産する役目を持っている。第一に人間の機械化はこの教育から始まっている。生産性、経済性、合理性と言った資本主義社会にはなくてはならないものが重視されて現代の教育システムが出来上がったのである。
流通や労働力関しても同じである。アメリカや日本などに中国やインドの外国人労働者が増えているのも10分の1の給料で働いてくれるからである。同じ労働力なのだから外国人を雇った方が得であるからである。流通にメイドインチャイナやメイドインインド等が記名されて外国で製品が作られるのも労働力や資源を使うさいに自国で製造するよりもはるかに安価であるからである。
良い事であれ、悪い事であれ目的は行動を促す要素となるものである。動物の3大欲求は食欲、性欲、睡眠欲である。基本的にはこれらを基にして行動を起こす。そして、資本主義社会が完成され、先進国となった場所はこれら全てが何不自由なく手に入れることができる。東京であれば何処に行っても食品は手に入る。格差間の問題は存在するようになったがコンビニエンスストア、スーパーマーケットに行けば簡単に入手できるものである。また睡眠する場所なども大部分の中流階級に生まれれば簡易に手に入る。性までもがパソコンなどの情報や都市圏には大量の人間が集まる為にクラブや風俗と言った場所で大量生産、大量消費の名のもとに頻繁に行われている。本来の動物であるならばこれらの欲求を満たすために行動を起こすが、満たされてしまった先進国の人々は行動をあまり起こさなくなる。よって人間としての力が弱まるのである。先進国では高い目的を持つことが行動を起こす為に重要なものとなるが、この目的を定めることが教育においても難しくなっているのである。だが高い目的を持つことはできるはずである。
欲求を超える目的
動物の3大欲求が満たされている中で人々は欲求を超えた目的を持つべきである。志ともいっていい。世の中の発明はほとんどが人々の為に何ができるだろうかという個人を超えた夢や志から生まれる。そこには自分だけではなくて、たくさんの人々が願っているものだからである。権力や金などを求める野心は一代で終わるが人々の為に何かを成し遂げようと思う志は次代に繋がる。世の中は螺旋である。イスラム教のように神様が存在するとはあまり信じられないが世の中は輪廻するものであると思っている。どんなに若い人でもいつかは老いて死んでゆく。これらは絶対に逃れることはできないものである。そのわずかとも言える一生の中でいかにして人々の為に生き、いかにして後世に繋ぐかが大事なことである。そこには大きな目的が生まれる。そこにあるのは楽しいことばかりではないが笑顔、怒り、嬉しさ、苦しさが待っているはずである。しかし、そこに訪れるのは人間の活力、その人の人間としての力である。
完成されてしまった先進国の人々の人間の機械化を防ぐ方法は目的を持つことである。生活をする以上、現代において規則には従っていかなくてはならない。ただ従うだけでは部品と何も変わる事はない。そして、大きな目的を持つことは人々に個人の能力以上の活力をもたらすものである。考えなければ人は行動しないからである。これらは単純であるが、現代において失われつつあるものでもある。本来なら教育を持ってして行うことである。何よりも人に教える教育者は高い目的を持つべきである。成長や活力のない指導者には誰も付いていかないのは当然のことである。
高い目的を持つことは人を変え、高い活力をもたらす。目的を持つことは人に活力を与えるものである。だが目的を持ち行動することは社会などの現状を知らなければ行動しても無意味である。その為には世界を正確に認識することが重要である。確かな情報なくして行動しても失敗に終わる事は眼に見えている。必要なのは正確な知識を持って高い目的を持つことである。
13.おわりに
人々が活力を持ちながら資本主義社会を生きる上で必要なものとは?
それは「国家」、「全球化」、「多様性」、「情報化」、「航空」。
これらを「認識」し「目的」を持つことである。
国家、全球化、多様性、情報化、航空という概念は様々な章で述べてきたが現代社会にとって非常に重要なものである。これらは互いに作用しあうことで成り立っている。全ての産業は互いに影響し合っているのである。自動者ができれば交通も変わり、交通が変われば建築も変わる、建築が変われば生活用品の在り方も変わるはずである。全ての産業は相互作用を伴って共存している。完全に乖離したものなどはほとんどないはずである。特に現代の状況を認識すること。その上で自分は何をしていくかという目的を持つことが重要なことである。目的は考えることであると言ってもいい。正確に世界を認識することがなければ行動しても無駄な労力で終わる。社会におけるほとんどのものは時代の流行などに影響されているからである。そして、何よりも考えること、目的なくして行動は持続しないし、人々のいきいきとした姿を見ることはできないはずである。目的を持つ人は50代、60代になっても眼の輝きが違う。特に目的は大きければ大きいほど行動にも変化が起きる。大きな目的を持てば現実とのギャップに挫折することもあるが、目的を持ち続けることである。それらは地位であっても、金銭面のことでであってもいい。「認識」と「目的」を持つことは現代を生きる上でも非常に重要なことである。
様々な製品のレールの上を歩くように人間が量産される世界。それらは現実のものとなろうとしている。現代の世界標準はアメリカやヨーロッパなどか形成される資本主義である。資本主義の影響力は絶大でこれに抗おうとすれば国際的な観点から見ても世界で渡りあうのは難しくなる。現に台頭している国々は全てアメリカやヨーロッパと友好関係を結んできた国々であるからである。中国、インド、メキシコ、ブラジルなどの国々もまた資本主義、グローバリゼーションに適応してきたからである。経済の力はその他の物を覆いつくしてしまうほど絶大で人間までもが経済効率の中で生産されるようになってきている。そして以下の5つを認識することが重要になってくる。
第一に国家。国家は超大国による絶対的な影響力と、戦争や植民による文化の伝達である。超大国の力はスペイン、イギリス、アメリカの流れを見ても世界に影響力をもたらすものである。そして、戦争や植民によるものも世界を覆い尽くすものとなる。戦争や植民はその地域を変える大きな要因となる。これらは現在の世の中が資本主義で支配されている限り逃れられないものである。国家間の政治的な影響力は時に全てを飲み込んでしまう。現代はアメリカの一極化は薄れてきて、中国、インド、ブラジル、ロシアなどの力も強まっている。これらの諸国から新しいグローバルスタンダードができることになっていくと考えられる。アジアの影響力が強くなることによって環境問題が進み、西洋と東洋の文化が交われば、自然と宗教はスタンダードを作る上で重要なものとなる。
第二に全球化。グローバリゼーションであるがこれは1980年代に流行したものである。特にグローバリゼーションの研究家である社会学者サスキア・サッセンは世界都市は貿易、文化、移民などによって相互に関係し合って存在していると言った。これらはロンドンや東京などを見ていると理解できるように先進国社会というのはもはや他国のものが存在しない限り都市として機能することがなくなっているのである。それらは食品を見れば明らかである。ペットボトルでさえも外国で作られている。しかし、均質化は共通の価値観を生み出すことでもある。グローバリゼーションや情報化によって人間までもが量産されていく現象が起きている。
第三に多様性。文化、地域、種族、言語、宗教は様々な分野で影響を及ぼすものである。多様であると言う事は生物学的に見ても重要なものである。文化はそれぞれの国の伝統や習慣などを指す。地域とは場所にしかないものを指す。その場所にはその場所しかないものがある。種族は人種の事を指す。世界には様々な人間がいる。白人、黒人、黄色人種などである。言語は英語、ヒンドゥー、スペイン、中国、日本、ポルトガルなどの言葉を指している。宗教はその地域独特のものである。これらはキリスト、ヒンドゥー、イスラム、仏教だけではなく世界中には多くの宗教が存在する。多様性は全てそのものにしかないものを指している。一方で隔たりや争いを起こす要因ともなる場合もある。グローバリゼーション、資本主義の時代には共通の価値観を共有することが非常に重要であるが、その場所だけにある地域性、個人の趣向や価値観といったものを共有すべきである。言い換えれば世界共通の価値観、地域性、個人の3つを共有することである。
第四に情報化。金融の改革や交通によって世界の仕組みが変化するように情報化によっても世界は様々な分野で変化することになる。情報化はパソコンの発明と共に爆発的に世界中に広まっていったものである。これらウェブにも第3段階の進歩が見られている。ウェブ1.0、ウェブ2.0、ウェブ3.0である。特に検索エンジンによる新しい階層性は情報化が進んだことによって新しく形成されたものである。情報化は世界規模で共通の価値観を広めることに貢献した。今後もまだ情報化革命は世界中に浸透していくことになる。そして、情報化によって人種や国家間を超えた付き合いが当たり前になっていく。特にクラウドコンピューティング、ウェブテレビは世界に新しい価値観を創造することになる。情報化で認識しなくてはならないのがメディアの移行である。新聞、テレビ、雑誌などからパソコンや携帯で何でもできる時代に移行してきている。
第五に航空。交通は二〇世紀以降、加速度的なスピードで進歩してきた。車、電車、飛行機などはこの時代に発達したものである。そして、グローバリゼーション、情報化によってより資本主義社会の流動性をより迅速に行う為に欠かせないのが航空という交通である。国家間を繋ぐ最初の入口として、物質間の時間をより短縮する為には航空の発達が何よりも必要である。人、動物、輸入品、輸出品であれ、船で大量に運ぶよりも確実に迅速に運搬することができる。膨大な情報が流れ、グローバリゼーションが加速度的に広まっていく現代では航空はなくてはならないものになっている。膨大な情報は現在では120億ページにも及んでいる。人々は欲しい情報を引き出すには最早検索エンジンを使わなくては認識することもできないほど、情報の量は増えている。それにより国家間の繋がりは情報や航空を通して加速度的な速さで行われることになるだろう。二一世紀は国境を超えて地球という一つのものとして捉えられることになる。
「認識」と「目的」
どんなことをしても資本主義社会で生きている限りグローバリゼーションと情報化からは逃れることはできない。これらを認識したうえで目的を持っていかにして現代を生きていくかが重要である。大衆の時代から個の時代へと言われてはいるが、現実には階層性の元に均質化が進んでいる。この著書を書くことによって求めたのは人々がいかにしていきいきとした生活を送れるのかということであった。いきいきや元気、活力などは非常に定義しづらいものであるが、個としての力をより強くするにはどうしたらいいだろうかと真剣に考えてこの著書を書こうと思い立った。日本という社会は世界的に見ても最も裕福な国であると断言しても良い。豊かな社会で生きてきた若者は戦争もない平和な日本で生きている。その中で豊かさの中で失われていったものも多い。生と情報のはざまを埋めるには人々が5つの基本的要素を認識し、目的を持つことである。
現代社会では情報化が進めば進むほど、人々の生命の豊かさはなくなり「精神の衰退」起きる。
この二つの間には深い谷のようなはざまができている。それは私たちがその実情を知り、考え、行動することによってのみ解決できるものである。情報化が進めむほど人々が自分の知を使って考えを行うことが非常に難しくなってきている。何故なら考えなくてもそこに知識があるからである。それでもはざまは埋めることができる。それは私たちの手によって解決できることを信じている。
14.謝辞
本書を書くにあたって以下の人たちには本当にお世話になった。もし勇気を持って21の時に伊東豊雄建築設計事務所に行かなければ自分は世界の広さも、自分の浅はかさ、無能さを知ることもなく一生を過ごしていたかも知れない。そしてなによりも恩師である石山修武先生には本当にお世話になったのは言うまでもない。石山修武という人間に出会わなければ今はどうなっていただろうかと本当に怖くなる。設計においても、生きることに関してもこの人なしには語れなかった。自分にとって初めて出会った恩師である。鈴木博之先生には建築史の授業を受けさせて頂き、その上様々なアドバイスを頂いた。歴史の深さを心底教えていただいた。アベル・エラゾには本当に感謝したい。彼の存在によってどれだけ世界が広いと知り、設計においても、友人としてもチリ人の建築家であるアベルの存在は本当に大きかった。李在裕には設計における基本的な技術を学んだ。彼の純粋さと強さは言うまでもない。友人としても心強かった。福澤レベッカ先生にも感謝したい。自分の夢を応援してくれた初めての人であった。ここにアベル・エラゾ、セバスチャン、イゴール、クリスチャン・ミューラー、ジュリアン・ウォラル、安西直紀、石山修武、佐藤俊介、諏訪太一、鈴木博之、福沢レベッカ、李在裕、隈研吾、吉村百代、吉田涼子、青柳陽介、青木信之、田中希恵、山口大地、山畑剛、渡辺詞男、渡辺大志、太田厚子、丹羽太一、鐘ヶ江健太、大矢周一郎、松尾美和、横手義洋、安藤直見、陣内秀信、高村雅彦、山名早人、中谷礼二にもお世話になった。石山修武研究室、伊東豊雄建築設計事務所に所員の方々、そして両親にも感謝しきれない。法政大学建築学科、早稲田大学建築学科、早稲田大学図書館、東京大学建築学科の厚き心にも感謝したい。
グローバリゼーションと情報化が進む中でいかにして均質化によって人間の力や多様性がなくなることなく、人々をより心から豊かにするかが本著の目的である。そして自分にも伝えたい。30になっても、40になって、50になっても、人の為に駆け続けるような夢を持ち続けてほしい。
「全てのものは情報の集合である」という定義は膨大な情報が氾濫する21世紀において現実のものとなろうとしている。これは自分にとって始まりであり、生涯闘っていこうと思う。機械時代から情報時代へと変容していく中で、笑ったり、怒ったり、泣いたりする感情を持った人間であることを忘れてはならない。生と情報のはざまという題名はそのことを意味している。
15.参考資料
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28.ビジョナリー・カンパニー ジェームス・C・コリンズ、ジェリー・ポラス 日経BP出版センター
29.ビジョナリー・ピープル ジェリー・ポラス、スチュワート・エメリー 英治出版
30.売る広告 レスター・ワンダーマン 翔泳社
31.ある広告人の告白 ディビッド・オグルビィ 海と月社
32.広告で一番大切なこと クロード・C・ホプキンス 翔泳社
33.広告マーケティング21の原則 クロード・C・ホプキンス 翔泳社
34.スティーブ・ジョブス 偶像復活 ジェフリー・ヤング、 ウィリアム・L・サイモン 東洋経済
35.インフォーマル セシル・バルモンド TOTO出版
36.ピーター・ライス自伝 あるエンジニアの夢みたこと ピーター・ライス著 鹿島出版会
37. GOOGLEを支える技術 西田圭介 設備評論社
38.我が経営 ジャック・ウェルチ 山本文庫
39.GMと共に アルフレッド・スローン ダイヤモンド社
40.風の変容体 伊東豊雄 青土社
41.ジョルジュ・アルマーニ 帝王の美学 レナータ・モルホ 日本経済新聞出版社
42.抽象と感情移入 ウィルヘルム・ヴォリンガー 岩波文庫
43.永遠の現在~美術の紀源 S・ギ―ディオン 東京大学出版
44.エアライン・ハンドブック 全日空広報室
45.飛行機100年 山田圭一 成山堂書店
46.風の変容体 建築クロニクル 伊東豊雄 青土社
47.CIA秘録 その誕生から今日まで ティム・ワイナー 文藝春秋
48.ジハード戦士 真実の顔 アミール・ミール 作品社
49.アメリカ後の世界 ファリード・ザカリア 徳間書店
50.アップルを作った怪物 もう一人の創業者 スティーブ・ウォズニアック ダイヤモンド社
51.IBMの息子 トーマス・ワトソン・ジュニア 新潮社
52.輝く都市 ル・コルビュジェ SD選書
53.ミース・ファン・デル・ローエ ディビッド・スペース SD選書
54.マーケティング22の法則 アル・ライズ、 ローラ・ライズ 東急エージェンシー
55.ピーター・ライス自伝 あるエンジニアの夢みたこと ピーター・ライス 鹿島出版会
56.アメリカの大学院で成功する方法 吉原真理
57.マネジメント ピーター・ドラッカー ダイヤモンド社
58.経営者の条件 ピーター・ドラッカー ダイヤモンド社
59.ワーキング・プア 解決への道 NHKスペシャル 「ワーキングプア」取材班
60.ワーキング・プア 日本を蝕む病 NHKスペシャル 「ワーキングプア」取材班
61.戦略的データマイニング 池尾恭一、井上哲浩 日経BP
62.プラネット・グーグル ランダル・ストロス NHK出版
63.タルムード ユダヤ教典
64.クーラン イスラム教典
65.ヴェーダ ヒンドゥー教典
66.聖書 キリスト教典
67.人類が消えた世界 アラン・ワイズマン 早川書房
68.日本の論点 2008年 文藝春秋
69.電通の正体 週刊金曜日取材班
70.MBAベストスクールガイドブック ビジネスウィーク 伊東奈美子訳 インターフェイス監修
71.プレジデント 雑誌 二〇〇八年五月五日 ダイヤモンド社
72.3週間続ければ人生が変わる ロビン・シャーマ 海竜社
・インタビュー
Thank you for your reply.
I am sorry. A short time ago. I mistaked a return e-mail.when osamu ishiyama exhibition, I looked for your colum.Globalization ,Information,and Architecture is having strong relationship. I think that nationalism is very influential power in the world.Especially,united states and london having influential in the world.because of superpower influence other countrys.The reason why world war has influence.There had a many colonial. The african continent or The republic of india,they had been empired for colonial,almost colonial country influence empire country.Therefore english language used to international language in the world.superpower translation from spain to england to united states .Using for a long time,about 500 years.English language using international language.but capitalism not infiltrate in all country. because of the world existing regional problem.Recentry,i watched on the TV about a dispute in gaza and israel.Legional problem becoming world problem. So globalization existing link and separate.but I have a possible with globalization distance.Ordinally,globalization feed a wealth for developing country.but globalization distance feed a diversity in the world.because traditional and locality protect in other country.capitalism consist of globalization. Almost cosmopolitan city relating globalization.Do not escape this strong power.I have a very interesting in israel. Especially,israel capital city is Jerusalem.Jerusalem exist three regional culture.Judaism, Christianity,and Islam.Jersalem urban becaming complexity method.but having possible, homogenize and diversity coexistence this city planning.So i have a question.How do you think about architecture for coexistence with homogenize and diversity?best regardsmsahiro katsukiwaseda university graduate school master of degreedepartment of architectureosamu ishiyama laboratory----- Original Message ----- From: "Saskia Sassen" <sjs2@columbia.edu>To: "masahiro katsuki" <spd57be9@tea.ocn.ne.jp>Sent: Friday, May 08, 2009 6:35 AMSubject: Re: masahiro katsuki (waseda university in japan)i think i understand the theoretical/philosophical angle you aredeveloping. I think i share that. did you see my essay for hisexhibition?also: i am intrigued by your notion of international style equatingwith arch in some interpretations. i gather you disagree.I nternational sty le was a complex project. Global architecturalstyle of the last 20 years is a an economic project that cleans itselfby parading as style.yes?interview: yes, but i need specifics.Saskia SassenRobert S.Lynd Professor of SociologyDepartment of Sociology andCommittee on Global ThoughtColumbia University422 Fayerweather Hall1180 Amsterdam AvenueNew York, NY 10027USAT - 212.854.0790F - 212.854.2963E/M - sjs2@columbia.edu Website: http://www.columbia.edu/~sjs2/
Quoting masahiro katsuki <spd57be9@tea.ocn.ne.jp>: Dear saskia sassen Nice to meet to you. My name is masahiro katsuki. I`m from japan. I belong to osamu ishiyama laboratory I`m sorry suddenly, I want to question about homogenize of human for globalization. On the level, I still not write in English fluently. My research is globalization and machinery of human. Writing about homogenize of human. "Nationalism", "Globalization", "Diversity", "Informationization", and "Airlines." it compose this book main five chapter. Again and again, I think that international style mistake for architecture style. So I fighting modernization and globalization. I have a question about homogenize of globalization. I have a dream that resolve homogenize of human. How do you think about human of homogenize? If you do not mind I want to interview with mail or meet.Best regards
Dear Masahiro,
Thanks for writing, this sounds like an interesting book.
Please excuse my ignorance – I’m not familiar with Osamu Ishiyama Laboratory.
Also, could you please tell me who is publishing the book, and what kind of questions you wish to ask FOA?
Thank you for this
Kate
FOA
Press
Foreign Office Architects
55 Curtain Road London EC2A 3PT UK
T: +44 (0)207 0339800 F: +44 (0)207 0339801
E: press@f-o-a.net W: http://www.f-o-a.net/
Saskia Sassen in Colombia university sociologist
This sounds like an interesting book.
Foreign office architecture in London
(INTRODUCTION)
This book is written about " human homogenize" of the contemporary society.
Homogenizing is important for the contemporary society. It is because hunger and poverty are solved by homogenize advancing, and communications can be advanced smoothly. However, it seriously important parts about necessary energies for people in that. Human has weakened as understood even if Japan today is seen. Japanese today is low-spirited even if it sees at a national level or it sees in the world. However, the young human who was born in rich Japan is low the sense of purpose, and doesn't have the so much zeal either. As for it, it thought whether the one "Homogenized" was related. It is understood that similar human exists in the contemporary society. They are actually conscious of there is existence that looks like me though they refuse the same thing with the person. However, it is not possible to actually slip out there. Young people may say that they are in the conflict. People are alive in the rail that the capitalistic society made as the hierarchy existing. It is the world where human exactly becomes a machine.
Globalization and information became to main factor the 21st century. Not only Japan but also world city consists of capitalism. This social structure where economy was assumed to the first made very reasonable, efficient rail a pressing need. The next stage in the advanced country was discovered in that. It is the one "Decline of the spirit". Because it is mass-produced by people in the rail that capitalism made, and a large amount of comes to be consumed, man is produced just like the car etc. Feelings become unnecessary there, and mankind becomes the cogwheel of the society.
If everything is used there more than the necessity, it is thrown away. It became to exist with mass production the friend and lover in consumption already.
It is "Purpose" and "Recognition." the first necessity to break this human's homogenizing. When man is vitalized, the purpose becomes important. If any action doesn't firmly recognize the world, it will fall through. And, there is the one necessary to recognize the world. It is "Nationalism", "Globalization", "Diversity", "Informationization", and "Airlines."This five relates closely to the contemporary society. It is important for vitalizing people with "Recognition" and "Purpose" after these are based.
1.Introduction
現代は機械革命から情報化革命へと移り変わる転換期。
情報革命により、デザインまでもが大量の情報の中で形成されている。
この本は現代社会の「人間の均質化」について書かれている。
均質化というものは大量生産、大量消費という点において利点のあるものである。
そしてそれらは世界中の飢餓の解決に貢献する。効率性や均質化が進めば世界中のいたるところが同じ環境になるからである。
しかし一方で見えるのは均質化による人々の力や活力の低下、同じ価値観の共有、そして同じ服を着ることにより人間が機械になるということである。科学者のテスラは「人間は肉でできた機械である」といった。そして人間にとって必要不可欠である多様性というものが現代では失われつつある。
機械であれば何も感じることのないままそのまま使用され、朽ちて同じ部品と取り換えられればいいのかも知れない。だけど私たちは人間でありたいと願う。命を持ち、時に笑い、時に怒り、時にうっかりミスもする人間でありたい。
大量量産、大量消費、情報化、これらすべては急速なスピードで進行している。現代における都市もグローバリゼーションによって世界規模で共有の価値観を持つようになっていった。
そして現代に至るまでに世界が画一化、均質化し全てのものが世界中で同じ顔をするようになっている。そして更に利便性があがり、大量生産、大量消費により、生活は豊かになったはずなのに、どういうことわけか人々に心という生気が宿らない。経済を絶対とする資本主義に支配された世界は一方で人間を機械にして冷たいものとしてしまったのではないだろうか?
私たちに今必要なのは情報化をふまえた上で機械と精神を統合させること。グローバル化が進んだ今、機械と精神をつなぐ人間としての新しい時代を作り出すことにある。
・目的
21世紀の始まりが訪れて、8年が過とうとしている、モダニズム、ポストモダン、また様々なデザインを模索する試みがあるが、人々は本当に快適な住居に住んでいるといえるだろうか?そのような疑問を常に持っていた。産業革命以降、人々の生活は、利便性においてのみは追及されるようになってきた。一方で人々は人間にとっての根源たる温かさや豊かな心、理論では具体的には表しづらいものを失っている。本書は21世紀を迎える中で、グローバリゼーション、国際様式、大量生産、大量消費、情報化革命に関する問題に焦点を当てて、その解決策を模索するというものである。機械時代を20世紀初頭からの現代様式として呼ぶが、それらがいたるまでを大量生産が始まる17世紀からの技術史、世界史を基にして論じていく。そしてそれらの問題を解決するものを生時代と呼ぶ。要約するならば、機械と精神を統合するデザインまたは文化的要素である。自分は建築出身の人間であるが、この本は建築理論偏重の本にするつもりはない。いかにして人々をグローバリゼーション下で人々を心から豊かにするかということが目的であり、その解決にいたるまでに建築、情報、スポーツ、ファッション、物理学、化学、経済学、経営学、広告、不動産、文学、心理学、医学、栄養学、政治学、芸能、セックスにいたるまでの幅広い分野を基にしてできる限り専門家にインタビューを用いながら研究を行ったものである。
世界中がパソコンや携帯、そして世界都市の発達によって様々な人が入り混じるようになる21世紀には人々が豊かさの中で強さを持つということは何かと真剣に考えていた。均質化によって人々の力が世界規模で落ち込んでいるのはこの世界金融破綻によってアメリカ、日本、中国など様々な国で若者が就職難に陥り、リストラや雇用の問題が取り立たされている。世界は新しい転換期を迎えようとしている。世界の距離がなくなり、多国間の文化同士が入り混じる世界に一つの場所に留まる事は非常に危険なことである。自分は日本というある意味完成された国の若者として情報化の恩恵を受け、豊かさを感じとってきた。しかし人々の活力は失われているように思う。人々にとって経済効率、国家間の文化を超えた人間の活力とは何か?それが本書の最も重要視するものである。
人間は機械ではない。ゼンマイの音もすることもない。私はそう願いたい。
しかし、グローバリゼーションによって失われてきたものも確実にある。
人間が機械になる世界。その時代に私たちはいるのである。
2.グローバリズムと国際様式
グローバリゼーションは21世紀では当たり前の言葉になりつつあるものである。この言葉は日本語で言うと、「全球化」という意味になる。グローバリゼーションというものは1980年代から世界でも注目されていった言葉である。グローバリゼーションは産業革命と情報化革命が一番の原因であると考えられるが、この「全球化」という言葉は言葉どおり世界が国境を越えて一つになるという意味である。これらは18世紀にイギリスで産業革命が始まる以前では考えられなかった。広まるとしてもキリスト教、ヒンドゥーやユダヤなどの宗教を介して広まっていった。しかし現代はものすごいスピードで全球化が進行している。これはメディアの革命が起こった為である。そして今では何処の国に行っても同じものを着ていることを感じないだろうか?同じものを着て、そして同じものを食べ、同じ言葉を使い、同じ生活をする。これらは情報化と大量生産がもたらした産物である。そして国際様式は大量生産という言葉の恩恵を受けて広まっていったものである。
まずは経済を担う産業の中で最も大きな建築の観点から「均質化」というものを論じていきたいと思う。現在のオフィスビルに見られるような都市になるまで、装飾という概念があたりまえのようにあった。しかし、今では石造に彫刻を入れるような装飾は基本的には見られることがない。そして現在の近代建築(モダニズム)は20世紀前半にインターナショナルスタイルと呼ばれた国際様式が普及することにより始まった。ハーバード大学院の歴史家であるヘンリー・ラッセル・ヒッチコック、そしてMOMAのキュレーターでもあったハーバード出身の建築家フィリップ・ジョンソンが鉄とガラスとコンクリートによるオフィスビルに見られる箱型の建築が世界共通の様式であると提唱したものが国際様式と呼ばれるものである。その建築運動で紹介された建築家の中でもミ―ス・ファン・デル・ローエの影響力は非常に大きかった。何よりもレヴァーハウスを設計したSOMの役割は近代建築、特に先進国の都心部、現在では発展途上国の都心部にも広まっているが、今では世界で名だたる組織設計ではあるSOMの果たした役割は世界でも大きく、世界のゼネコン設計部、または組織設計等はこれらSOMのコピーとも言えるような組織形態であると言える。特に日本においては、鹿島建設等のデザインなどもミ―スから続く鉄とガラスのシンプルなデザインを色濃く受け継いでいる。日本のゼネコン設計部や組織設計、特に日本設計などは社長等がアメリカのイリノイ工科大学でミ―スに直接の教えを受けていることからも、特にミ―スの影響力は強いといえる。
もう1つ日本において影響を与えているデザインが近代建築の父と呼ばれた大建築家ル・コルビュジェの影響がある。20世紀の日本の建築家は前川国男が東京帝国大学でル・コルビュジェ著の「今日の装飾芸術」という本を読み、「ル・コルビュジェ論」を書いてすぐにフランスに渡仏してル・コルビュジェのアトリエを訪ねたことは後の日本の近代建築において、始まりを示すものであった。
日本の近代建築は前半は前川国男、そして後半は丹下健三に分けられるといえる。特に前川も丹下もまたル・コルビュジェを知って建築家になろうとしたぐらいで、ル・コルビュジェのデザインは日本中を圧巻していった。日本の近代建築の前置きはここらへんにしておくが、バウハウス、CIAMに始まる国際様式(モダニズム建築)のメリットは機能性、大量生産性、経済性である。
世界共通の建築を目指す国際様式が広まった一番の考えられる理由は世界恐慌や第一次世界大戦、そして第二次世界大戦の影響がある。何故なら日露戦争などによる第一次世界大戦、そしてナチスドイツによる日本やイタリアも含めて、欧州列強との第二次世界大戦などによっていかに早く、そして効率よく、経済的に大量に同じものを作るか、そしてルーズベルト大統領時代に起こった暗黒の金曜日と呼ばれる世界恐慌などにより、いかに効率よく大量生産するということが世の中で最も重要なものとなっていった。また建築における近代建築革命によっても大量生産、経済性、機能主義と呼ばれるものが重要視されたのである。そして装飾というものは経済や大量生産といった点で非常に不便なものである。装飾がないことになれば、職人の手間が省け、無駄な労力がなくなるのである。経済や大量生産を重要視すると装飾は不必要きわまりないものなのである。モダニズム建築は無駄なもの、装飾という無駄なものを省いたのである。合理化、経済性の重要性は特に資本主義社会にとって非常に大きな割合を占めるものである。2000年に入って建築の在り方は1960年代のポストモダン以降、ルーティンを繰り返している。モダニズムの原型というものを半分は保ちながらも、もう一方でそれにあらがおうとする建築で満ちている。形骸化したモダニズム建築を乗り越えようとする試みは数々の建築家が行ってきたものである。古くはスミッソン夫婦などのチーム10やまたは近年ではピーター・アイゼンマンのエニィなどが試みてきたが必ずしもそれらが解決に至っていないのが現実である。建築革命は間違いなく1920年の初頭に起こった。石造りで作られたものが鉄やガラス、コンクリートを使い新しい価値観のもとに新時代が作られてきたのである。だが都市は形骸化している。
イギリスの大統領チャーチルはこう答えた。最初は建築は人が作るが、最後は建築が人を形作る。大量生産、大量消費、機能性、合理性を求めた建築はチャーチルの言葉を借りるならば、人間の為に建造されたものであるが、それによって最後は人間までもが大量生産、大量消費されるのである。これらはどういうことになるか、人間が機械化する現実は動物にとってのある必然的ものが問題点となるのである。人間は動物と同じものであるのが私の見解であるが、これは進化論者であるダーウィンも言っているものである。大量生産、大量生産によって行われることは画一化、均質化である。世界中の人間が同じ価値観を持つようになり、同じ言語、英語といったものを駆使してグローバリゼーションのもと平坦な世界になる。それが21世紀の建築だけでなく社会の形成の在り方であり、20世紀の自動車や飛行機や電車などの交通の革命によるものと同じものとして世界に大きな変革をもたらすこととなる。交通の革命は確実に都市を変えた。現在は情報化革命とグローバリゼーションによる世界の変容と同じくして建築は社会を映し出す鏡というのであれば、建築や都市もまた形骸化した国際様式に始まるモダニズム建築ではなく、情報化時代にふさわしい形態に変容しなくてはならない。
国際様式は世界一の大国であるアメリカから始まったものである。大量生産の流れはイギリスの18世紀の産業革命から始まり、そしてご存じのとおり、植民地であったアメリカにいた、アダム・スミスやトマス・ジェファーソンなどが反旗を起こし、独立運動して現在のアメリカに至るまでになった。元はイギリスの民であったのだから、勿論のこと産業革命の技術や文化を受け継いでいるのである。資本主義、大量生産、大量生産を行う上で重要であるのがコストをいかに下げるかということである。そしてアメリカの第三代大統領であるトマス・ジェファーソンのころは厳格なギリシャ建築などを復興する新古典主義の建築が美しい建築とされていたが、20世紀にさしかかると世界大戦や恐慌などにより、装飾というものをいかになくすということにさらに焦点が置かれたのである。そしてドイツのバウハウスから影響を受けたフィリップ・ジョンソンが提唱したこの国際様式というものは資本主義社会の求めているものに当てはまっていた。そしてこれらの建築は装飾をなくし、いかに合理的に大量生産に適するかを説いたものであった。そして国際様式は場所という概念を必要としないものでもある。何処にいっても、どんな文化であっても通用する建築を目指したものであった。そしてこの建築は世界を圧巻することになるのである。現代においてもこれらの様式は通用する概念である。モダニズム建築革命が20世紀初頭に起こったが、それらから脱却しようという試みが1960年代に世界中で起こっていった。これらはポストモダニズムと呼ばれる概念である。日本はちょうど高度成長期の真っただ中であり、現代の中国のように開発が進み、黒川紀章、菊竹清訓が中心となってメタボリズムやまたは丹下健三、磯崎新などが次々と都市計画を提唱していった。東京1960という都市計画案は世界で丹下を知らしめた実現はしなかったが、未来を描く都市として世界の建築家に影響を与えた。ポストモダニズムの概念を通訳するという概念は非常に難しいものである。哲学者ジャック・デリタが提唱した従来の概念をぶち壊して新しいものを創造するという「脱構築」という概念を使って試みられたりもした。空間を国際様式にあるような四角いものではなくて、空間をずらしたり、曲げたりした建築が提唱されつつあった。しかしこれらは完全な表層にとどまっていて、それらが何故必要なのかと真実を問われると限界があるものであった。そして社会はそれらを芸術としては認めたが、様式としていうにはまだほど遠いものであった。国際様式の何よりも優れている点は経済性に優れているということであった。そしてポストモダニズムは形骸化しつつあるモダニズム建築を超えることはないのが現状である。
ここでの題材は国際様式とグローバリズムの関係性である。これらを繋げるキーワードは大量生産と大量消費である。そして軍事国家アメリカの世界への影響力であった。これらが主な要因として国際様式は世界中に広まっていった。そしてグローバリズムに非常に貢献した。
東京の都市群を見るとアジアの典型的な資本主義都市を学ぶことができる。東京はグローバリゼーションと国際様式によってできた都市であり、ニューヨークのマンハッタンに並ぶ経済都市となっている。オランダの建築家であるレム・コールハ―スはこのような都市群を彼の著書である錯乱のニューヨークでマン八ッタニズムと称した。 都市などの人間の理想などによって都市が急速に進行することによって追いつかなくなり、都市が人間の創造していた美しく調和を持った都市ではなくなるものになると言っている。まさに錯乱した都市となっているのである。国際様式ではこのような出来事は把握していたとは言い難い。ル・コルビュジェの理想都市は現実では半分は正解であったが、それらは完全には都市に反映されなかったのである。都市の発展は想像もつかないぐらいにものすごい速さで進行しているのである。特に東京という町並みはアジアで初めての高度成長都市としてアジアでモデルとなった都市でもあった。
都市の迷宮、都市のジャングルと呼ばれることもある東京という町並みはレムの言うマン八ッタニズムの都市であるとも言える。高度成長期は経済の発展を最大の目標にして大量生産、大量消費を促進していった。生活用品や自動車は石油を輸入し、食品は欧米等の輸入からまかない、日本は急速に発展していった。これはアメリカの恩恵を受けている。アメリカに闘いを挑み、敗戦国となってGHQに国を支配されることによって、ベトナム戦争や自動車の輸入などでアメリカの資本が日本に流れ込んだことも理由としてあった。都市は美しい調和を持った景観を目指したが、それらは経済という最も強いものからは無視され、都市は迷宮と化していった。
そしてアジアの都市群は東京と同じことを繰り返している。韓国やシンガポール、台湾そして中国までもが東京の街並みと同じ景観の都市になりつつある。現在の状況からも全球化はまぬがれない。同じ文化を保ちながらも個々の文化を保つことが必要である。国際様式は個々の文化から離脱することを目標にしていた。そしてどの国の文化や伝統を超えて、普遍的な様式を世界中に広めるということが最大の目的であった。
そして現代において国際様式というものは世界中に広まっていった。特にこれに貢献したミースなども自らの建築理念において「何処に行っても、そして誰でも簡単に作ることのできる」それらがミースの求めるものだった。そして国際様式は大量生産とも密室に関係している。産業革命の最初の地はイギリスであった。産業革命は17世紀に起こったものである。産業革命は繊維工業から始まったものであり、イギリスの優秀なブルネル等のエンジニア達がより合理的に生産を行う為に技術革新が起こったのが始まりである。エンジニアにとってこのような歴史的技術革新に出会えたことは素晴らしい時期であったと創造できる。そしてグローバリゼーション、大量生産、大量消費、情報化革命によって現代は均質化の道を歩んでいる。テレビにおいても、インターネットにおいても、服を着ることにおいても、同じものを世界中の人間が使うことが均質化をもたらすことの原因である。
ここであげるものであるグローバリゼーションと国際様式は現代社会に密接に関係しているものである。何故なら建築は人間が視覚や触覚を感じる物質において最大のものであるからである。自然環境から身を守る為に建築は生まれたとされているが、一部では人間の生まれた場所である胎児の母体から派生したものであると言われている。フレデリック・キースラーのエンドレスハウスは卵や人間の母体などが造形に関係している。キースラーはエンドレスハウスを雌の建築を呼んでいたことからも分かる。建築は人間における造形物の最も大きなものであり、社会においても多大な影響を持つものであることは確かである。そしてこれらは情報革命と同じく、必要不可欠なものであり、なくなることは人間が滅亡しない限りまずないと考えられる。そしてパルテノン神殿に見られる紀元前の頃の建築から、今の国際様式を比べてみると、柱と梁の構造という点では同じ要素である。これらは「建築を目指して」と呼ばれる近代建築の父、ル・コルビュジェが書いた本の中で、パルテノン神殿に多大な影響を受けたことを著書の中で書いている。近代建築と呼ばれたものは間違いなくギリシアの建築の影響を受けている。しかし18世紀のグリーク・リバイバルのフリードリヒ・シンケルに見られるような装飾の模倣などは一切行ってはいない。装飾は罪であるというのが国際様式の常識なのだから・・・そして装飾を復興させるべきではないのかというのも鈴木博之ら建築史家が行っているが、確かに全てを排除することはないのかもしれない。何故なら建築において装飾を排除しようとしたのが2000年遡って見ても現代以外にほとんどないからである。あるとするならばビサンチン時代のシトー教会が作ったル・トロネなどが作られた節制を重んじる時代以外ほとんどなかったからである。過去において様式が変容するのは100年から200年のスパンである。そして現代とは違い、交通の手段が船や馬車しかなかった中世などにおいて建築様式自体が世界中に広まると言う事はまずないことであった。そして西洋の様式はアジアでは全く関係のないことも多々あった。日本において西洋の文化が広まったのは明治政府が発足した18世紀後半以降である。そこで考えられるのが何故装飾がなくなったのかである。それは社会背景が大きな理由であると考えられる。ビサンチン時代はキリスト教がヨーロッパで信仰されていた。そしてその主体はシトー教会という節制を重んじる宗教であった。これらの社会背景と20世紀初頭の時代背景は共通する問題がある。それらは節制を重んじなければならなかったという点においてである。建築は社会を映し出す鏡である。これはミ―スの言った有名な言葉である。建築というものは社会性というものに密接に関係するものであるということを指している。
国際様式の始まった時はいかにして効率よく、合理的に大量生産するかにあった。そして時代背景として世界恐慌、2度にわたる世界大戦が密接に関係していた。ビサンチンと同じものとして節制というものが共通している概念であった。その中で経済にとって無意味な装飾というものは排除すべきものであったのである。経済性という観点において装飾というものは無意味なものである。図面においても、複雑化したポストモダニズムと呼ばれた装飾過多の建築はコストが非常にかかるものであり、結局はシンプルで、図面でも少ないものの方が安くすむのである。ミースは「より少ないことはより豊かなことだ」という言葉を自らの建築論を語るときに用いたが、彼のシーグラムビルと呼ばれた世界最初の高層ビルなどは当時においても画期的な構法であり現代都市において彼の建築を模倣する形でオフィスビル群は出来上がっていった。そして鉄とガラスでできた高層ビルが何よりも欲したのが、テナントやオフィル等の収益率と建設費用におけるコストであった。これらは歴史的な建造物でも言える。
ビン・ラディンが率いたアルカイダというイスラムの過激派はアメリカの旅客機2機をハイジャックしてミノル・ヤマサキという日系アメリカ人が設計をしたワールドトレードセンターに突っ込んだ。これによってこの2棟からなる高層ビルは崩れ去っていった。そしてこの再開発案は国際コンペによって選ばれたのだが、前衛的なフォルムを持つダニエル・リべスキンド案に決定した。彼はユダヤ系アメリカ人であった。そして国家的な建設プロジェクトは多くの場合、母国出身の建築家に行わせるのである。何故なら国家の権力の象徴とも言えるような建築物に外国の人間が携わるというのはあまり良くないという概念があるからである。ほとんどの場合、国際コンペと言っても形式だけで母国の建築家に任せることが多い。(中国の場合、国家的なプロジェクトの多くは外国の建築家に任せた。北京オリンピックスタジアムはヘルツォーク・ド・ムーロンというスイスの建築家ユニットが設計したものである。これらは21世紀のフラット化を象徴する出来事であろうと思う。)アメリカはユダヤ人が支配している国でもあるからリべスキンドはうってつけだったのであろう。しかし、彼の設計案は前衛的でコストがかかるという問題があった。そして歴史的なコンペティションで決まったにもかかわらず、クライアントがその施工を渋り始め、収益性とコストが良いSOM案を採用し、訴訟沙汰の問題となっている。SOM のディビッド・チャイルズが担当したフリーダムタワーと呼ばれる高層ビルはリべスキンドにとって代わって、新たな経済性というものを重視した建築になっている。それほど建築や都市を描く上で効率性や経済という概念は重要なのである。現代建築家はこれを超えようと試みるが結局のところなすすべもなく敗れているのが現状である。1960年代から日本では亡くなってしまった黒川紀章等がメタボリズムグループを結成し、そして丹下健三が1960年計画を出して世界に日本が認められた時期であったが、これ以降のデザイン論は理想があまりにも重要視されて現実に伴わなくなり、現在までの繰り返しては戻る現象が起きている。このように国際様式は非情なまでに力を持ったものである。資本主義の世界において経済効率の有利な国際様式は非常にマッチしていた。そしてこの建築の前の様式ではフランスの芸術学校であったエコール・デ・ボザールの教える厳格な装飾を持つ建築がヨーロッパやアメリカを中心として世界でも一般的であった。
歴史においても建築は社会と密接に関係する。19世紀の後半においてこの新古典主義と呼ばれる、ギリシャやゴシックに見られた美しい建築をもう一度復興させましょうという概念は建築において基本的なものであり、常識であった。現代ではそのような教育は全くと言っていいほどされていない。これは19世紀と20世紀の終わりにデザインに関して根本的な革命が起きたからである。それらは世界大戦等により大量生産、大量消費が加速度的に世界中に広まり、それらは工業デザインとしてより速く、より合理的に、というものが社会の中心的な事柄であったので装飾をなくすべきで、新しい工業の時代ということも起因してこの芸術学校を打倒しようとする動きが活発になっていった。それがル・コルビュジェであり、各地で同じ志を持った人間達がドイツのバウハウス等を中心として近代建築運動を起こした。鉄やガラスというものは18世紀などからあったが、それらは決して本質的なものを変えてしまうには至らなかったのである。それほど時代、社会の流れというものは建築や都市を描く上で重要なものとなっている。20世紀前半の時代は自動車産業においては3度の経営の失敗から大量生産方式を確立した自動車王、ヘンリー・フォードがT型フォードという車種を大量に民衆や、また軍用に売買していた時期である。また自動車産業は近代建築においても関係しており、ル・コルビュジェの計画でもフランスのシトロエン社の名前をもじってシトロアン住居という自動車を建築に置き換えた概念を基にして、いかにして安く、大量に量産するかということが急務であった。(当時フランスは戦争の真っただ中にあった。)また戦争後には大量生産型から車種やスタイリングを重要視することが車には求められていた。それを行ったのがGMである。ゼネラル・モータースはスタイリングや車種を増やし、業務を拡大した。そして建築も戦後は先進国においてはスタイリングを重視した建築が主流になった。これもまた様々な産業が社会性というものに関連しているということの指標にもなる。豊になればなるほど人々は生活にその他プラスアルファのものを求める。人々の欲求はなくなることはない。心理学でも生命の危機(貧困や睡眠)をまぬがれると、愛にいき、そして物欲に走る。これらは人間の変えようのない原理でもある。1960年以降にモダニズムを超えようとする試みがなされてはモダニズムに帰るという原理が繰り返されるのはこの人間の原理と、社会というものにあると感じる。社会、資本主義はやはり経済性を求めることが多いのである。しかしここ最近においてはそれらが移り変わる傾向にあると言って良い。
グローバリゼーションによって大量生産、大量消費が促されるようになると人々は豊になり、機能を超えたものを付加価値として求めるようになる。女性がピアスやアクセサリー等を装飾したがるのと同じ原理である。しかしそれは視覚で、デザインの形体として提示するのは非常に難しい。だが人間には普遍的なものがあるのも事実である。人間が生まれ、死んでいくというのは絶対に逃れることのできない人間にとって初めからある最も偉大な発明でもある。そしてそれと同じものとして機能を超えたデザインの付加価値を生み出すことが重要になっていく。それは中国のデザインにヒントがある。北京オリンピックのスタジアム等はあの外部の表層のデザインは全く内部の機能には関係がないし、雨もりにも使われることがない。まったくの装飾と言っていいものであるが、それらは人々を魅了する。あのオリンピックにはオープニングから驚かされた。中国のスタジアムなど、水を表現する国際体育競技上などはあれはまさしくモダニズムにおける機能を超えた何かがあるのではないかと考察している。
建築のみならず、現代を変える革新と言ったものは少数の人間から起こる。そこには大量の資本ではなく、少数の誇大妄想的な人々が作る。建築において新しい時代を築いたのはミース、グロピウス、コルビュジェと言った革命家達である。彼らは20代の頃から同じ事務所で働いていたという共通点を持つ。これらは偶然ではなく、必然であろうと感じる。例えば情報の革命はシリコンバレーからほとんどの事が起きる。これはイノベーターがここにいるからである。革新を生み出すのは集団や大衆ではない。1万人の中の指で数えるぐらいの少数の人間である。国際様式の革新はドイツで起こった。当時のドイツはナチスドイツが統治していたころでもあり、古来より厳格な帝冠様式が主流であった。そこで疑問を感じ取った若者達が工業を中心とした新しい学校を開く。これがグロピウスの作ったバウハウスである。そこでこの学校を反ナチズムの脅威に感じたヒトラーはバウハウスを廃校に追いやり、彼等は新天地を求めてアメリカに亡命するしか方法がなかった。アメリカに移ったバウハウスは世界の名門大学であるハーバード大学に多大な影響を与えた。グロピウスが建築学部の学長に就任したからである。そこで教えたのは工業を基礎とする鉄とガラスとコンクリートでできた現代の基礎となる教えであった。そして現在もまたハーバードデザインはグロピウスのモダンデザインは受け継がれている。世界のイノベーションの中心はアメリカであり、ハーバードやスタンフォード、エール等の大学に世界中から最も優れた知を持つ人間が集まることによって起こる。インド、中国、韓国、ヨーロッパ、中南米などである。特に外国人で多いのが中国人とインド人である。彼等は留学生の半数以上を占める。国際様式がこのように選ばれていったのは時代の流れがそれを求めていたと言える。
グローバリゼーションによる利点は何よりも均質化である。均質化が問題点と言っていて何を言っているのかと思う人もいると思うが、大量生産、大量消費は多くの人々に同じものを大量に消費・供給させることによって起こる。メディア、食物、服飾、映画、住居、車など人間が生活するものが世界中で同じものになるということである。これらは初めはキリスト教などの宗教の伝達から、その後イギリスの産業革命期から大量生産が始まり、そして現在ではインターネットという軍事目的に開発されたものが民間でも使用できるようになって普及していったものである。個人用のパーソナルコンピューターをスティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニアックの2人が作った会社であるアップルで開発された。これがグローバリゼーション、均質化を引き起こす一番の要因になった。均質化が起これば、世界中の国々の人々同士でも同じ価値観の元、英語という共通言語を使用して話すことができる。同じようにクールなのはアルマーニを着て、ポルシェに乗り、オメガを付けること。これはチリ人と話している時にした会話であるがこれもまた均質化というものの賜物である。世界で何が正しくて、何が悪いのかという価値観がアメリカを中心として普遍的なものが世界中の人々に植えつけられている。そう、それがグローバリゼーションというものである。そしてこれらは大量の供給と消費を促すために、地域の発展には大きく貢献する。中国を例に出してみると、飢餓で3億人が苦しんでいたものがグローバリゼーションの恩恵を受けて今では1億7千万人減少しているのである。均質化は世界を飢餓から救う可能性があるのである。これらがアフリカなどで教育によって英語やパソコンなどの技術が教えることができれば、アフリカの貧困や飢餓なども解決される可能性も出てくることであろう。しかし、アフリカを支配するのは植民地などを持っていたアメリカやヨーロッパである為、先進国の資本主義はこれらの発展途上にある国から大量に安く材料や食物を仕入れている為にそれらがこの地域が発展することによって先進国のシステムが崩壊してしまうのではないかという懸念が経営者などの声に上がっている。これらはアフリカなどの地域を発展させることを大きく阻害しているものでもある。また、イスラム等の地域は宗教によって外部からのものを排除しようとする習慣があり、これらも均質化を妨げる要因となっている。均質化というものは地域を効率よく発展させるのに役に立つ。
一方であるのは均質化によるデメリットである。これらを促進させていくことによって出てくるものはアイデアの普遍化、個人として能力の低下である。能力の低下によって見られるのは個としての能力は弱い反面、集団としての力は価値観が均質化することによって強くなるのである。個として弱くなるということにより、一番の問題となるのは指導的な立場を行う人間の欠如、そしてイノベーションである。破壊的イノベーションという言葉がある。これはハーバード大学教授クレイトン・クリステンセンの言葉であるが、世の中を大きく変えてしまうようなイノベーションである。例えば、最初はテレビもなかったし、パソコンもなかった。携帯電話もなかったし、誰もが空を飛べるなんて思っていなかったのである。そして地球が丸いこともである。これらを生み出したのは人間であることは間違いがない。だがそれは均質化にあるような大衆が生み出すものではない。ほんとうに少数である。圧倒的に少ないアウトローの人間が技術革新や世界を変えるような所業を生み出す。例に出すとライト兄弟が空を飛ぶために彼等は自転車屋であったが、それに翼を付けて空を飛ぼうとした時に大衆は頭のおかしい人間が何をしようとしているのかといった。そして当時の有名な大学教授もまた人間が空を飛ぶなんて物理的に不可能だと言ったのである。こんなこと言われたら尻ごみして諦めてやめてしまうが、彼等は本当に空を飛んでしまったのである。現在の飛行機を生み出したのはたった2人の自転車屋の人間が生み出したのである。個人用のパソコンもまた大学中退の2人がガレージで創業した会社で生み出したものである。均質化が辿るのはイノベーションの低下でもある。しかしイノベーションを生み出すのはADHDと呼ばれる人々であることが多かった。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、織田信長、坂本竜馬、エジソン、アインシュタインなどはこのADHDと呼ばれる障害を持っていた。これらを持つことによって他人と違う考えをもっていたことにより人々に大きく貢献する発明や考えを生み出した。人と違うということは革新を生み出す第一歩となる。
多様性というもの
多様性というものがある。人間は動物であるから他の動物達と同じようにあてはめて見ることができる。多様性とは何か、それは場の力であるし、その種それぞれの在り方かも知れない。しかし同種であっても多様性は存在する。人間であっても、黒人、白人、黄色人種とそれぞれに存在するし、基本的には言語も違う。しかし均質化することで色々な人々が共通の価値観をもって話すことができるしいいじゃないかという意見も出てくると思う。確かにグローバリゼーションの輪からは逃れることはできない。しかし多様性を持たない種は滅びていくという末路をたどっているのも事実である。均質化は競争という概念から見ても弊害が起こる。均質化は自分と同程度の人間が大量に機械的に増えていくということである。それが世界をとうして・・・人間にとっても動物にとっても、競争や争いというものは平和論から言うとなくても良いものだが、人間の発展に多大な貢献をしてきた。今必要なのは多様性を持つ国際様式ではないだろうかと切実に考えざるを得ない。そして国際様式はグローバリゼーションに多大な影響をもたらしてきたのは言うまでもない。人間の作りうる物理的に最も大きなものが建築であるからである。産業革命以降、建築を大量生産させるという概念が出てきてから現在に至るまで、国際様式は人類にとって均質化を促してきた。何よりも目的が世界中何処でも地域とかに関係することなく存在できる様式が国際様式だからである。だが今必要なのは多様性をもった国際様式ではないだろうか?自分にはそれが建築の持つべき本当の姿であると思っている。21世紀はますますグローバリゼーションが進むことになり、世界中の人々がパソコンを駆使して情報を扱うようになる。それは新聞やテレビが出来た頃と同じような偉大な革新である。しかし一方で考えなければ人類の発展を妨げるツールにもなりえるのであるということを言いたい。
3.情報化革命と利便性
「ハングリーであれ、馬鹿であれ」 スティーブ・ジョブス
彼等は反逆者であり、ヒッピーであり、ジーパン姿の若者であった。今でもアップルという会社は反逆心旺盛である。そして当時20代の若者達が本当に世界を変えてしまったのである。パーソナル・コンピューターの起源はスーパーコンピューターからなる。これは100年以上昔にチャールズ・バベッジという学者が計算機としてプログラムという概念を生み出したことから始まる。そしてこれらは迅速に計算するためのツールであった。それらはパソコンの世界のドンであるIBM等がスーパーコンピューターを作成し、そこからそれらを個人用のパソコンにすることを当時、高校生であったスティーブ・ジョブスやスティーブ・ウォズニアック等がHPという会社にインターンシップで働いていた時にスーパーコンピューターに出会ったことから始まる。彼等は大学を中退し、アップルという会社を創業。そして商業用の世界で初めてとも言えるパーソナルコンピューターを作ったことによって情報化は急速に進んだ。そしてこれらは人々にとって情報を簡単に収集できるツールとして、新聞として、テレビとして、ゲームとして電話として、仕事のツールとして使えるように進化していった。これらの進化により新聞やテレビなどのメディアに代わるものとなりつつある。情報化のもっとも効率のよい所は間違いなく距離がなくなるところにある。距離がなくなれば世界中何処にいてもコミュニケーションを取ることができる。インドにいながら、中国の人間やアメリカ等と情報を交換し合えるのが利点である。これらは軍事目的でできた情報網から発生している。情報は本や新聞などの紙媒体で行われていたが、テレビや20世紀後半から起こったコンピューター革命により映像により映し出された情報を得ることへ移り変わりを経ている。21世紀以降、情報の世界にも転換が訪れている。テレビによる映像の時代から、パーソナルコンピューターで自分の見たい情報を得る、ウェブ2.0と言われる検索の時代へと変わり、そしてウェブを巨大なコンピューターとして見るクラウドコンピューティングの時代へと移り変わりを経ようとしている。ウェブというものは膨大な情報の数により構成されている。その量は200億ページにおよぶテキストデータから成り立っている。これらは加速度を増して増えていることは言うまでもない。そして検索エンジンシステムの基礎を作り出したのは20代の若者であったスタンフォード大学のコンピューターサイエンス学科の博士課程に所属していたラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという若者であった。検索エンジンシステムで著名なのはGOOGLE、YAHOO、百度などである。これらの全社2社はアメリカで後者1社は中国で生まれたものである。彼等に共通するものは20代で変革をもたらしたということであった。世界中の知識を一つにすると言う試みは古代より神話などでもたらされてきたものであるが、それを現実のものとして成し遂げようとしたのがGOOGLEという会社の企業理念でもあった。企業理念は会社のスケールを決める上でも重要なものとなる。IBMという会社は基は小規模の雑貨類を扱う会社であったが、会社名などを世界規模の会社にすることによって会社全体が奮起し、名実ともに世界のIBMとなっていった。情報化による利便性はグローバリゼーションの促進でもある。情報が普及することによって地域の教育までもが促進されて生産性が向上することにより地域が発展し、飢餓がなくなるという利点もある。これはトマス・フリードマンのフラット化する社会でも書かれているものである。これはグローバリゼーションを論点において述べられているものであるが、これらの要因は情報化革命にあるのは言うまでもない。テレビ、パソコンという端末は間違いなく世界共通の概念、文化をもたらすことに成功した。そしてこれらを生み出したのはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスといった学校をドロップアウトした若者であった。そして何よりも距離をなくすことから、情報を集めて、引き出すという情報の転換期が訪れたことによって私たちの周りには膨大な情報が集められている。少し著名になれば検索することによってその人の評価やプライバシーまでを除くことができるのである。
広告においても全体を統一させて大量に普及させる時代から個人を対象にするダイレクトマーケティングの時代へと転換しようとしているのである。大衆から個人の時代へと確実に変化している。また文化は均質化を伴いながらも、地域を見てみると違いが一目で分かる。秋葉原にいるコミックマーケットにいる人間と、六本木のクラブに行く人間では間違いなく違う。検索エンジンによって好きな情報を取り出すことが容易になったために階層という概念は促進されることになる。古代より階層性は存在していたが、この民主主義、資本主義の社会においても、階層性は促進されることになるであろう。何故なら欲しい情報だけを取り出すと言う事はその人の個性や生活そのものが出るからである。また空間によっても変化が起こっている。それは情報を使う為の端末の派生により、建築においても機能の変化が起こっている。テレビが出来たことにより、テレビ、ソファーの概念が出来た。そしてパソコンの誕生により、パソコンと椅子の概念が出来たのである。現代社会は革新的な発明品とともに空間までもが変化してきている。自動者によって都市が変容したように、情報化革命によっても建築は変わらなくてはならない。そして検索エンジンの誕生によってデザインの構成も変わりつつある。誰でも最先端のデザインを知ることができるために、素人でもある程度のデザインを行うことが可能になっていったのである。「デザインは情報の集合である。」という言葉は確実に21世紀の定義となりつつある。もはや建築は機械ではなくなり、情報により構成されるようになりつつあるのである。
「デザインは情報の集合である。」と定義すると何が起こるであろうか?
膨大な情報量を基にして設計をするという事はどういうことであろうか?GOOGLE、YAHOO、百度、フォトショップ、イラストレーターを使い加工し、GOOGLE EARTHで敷地を決めて設計する。これらはすべて出版社の行う編集的要素である。これらは全世界規模で共通して行われることになるものである。そして編集作業の上手い人間がデザイナーとして成功する側に立つであろうと考えられる。しかしまた、これらの法則は創造というものの妨げになっているのも事実である。創造は大概は誰もが考えない、違う考えから生まれる。均質化したツールによるデザインの構成はグローバリゼーションの利点である共通の文化をもたらすが、その文化独自のデザインを生み出すことが難しくなる支障が出てくる。建築や工業デザイン等は情報により構成されるものになる。膨大な情報量によって構成された検索エンジンはデザインそのものまでを変えてしまった。もはやこの定義は情報化革命時代の不可欠な概念として捉えられることであろう。もはや住宅は住むための機械ではない。膨大な情報量によって建築までもがデザインされているのでいる。膨大な情報は本当に意味のあるものであろうか?膨大な情報量はもちろんのこと実際とは異なる情報も定義している。実際に物質を介して行くのと、情報だけでその場所を知ることはもちろん違う、そこには個人の偏見なども混じっているからである。例えば情報だけを頼りにして、秋葉原を知っているというのと、実際に電子機器の部品専門店や、同人誌ショップに行くのはわけが違う。それと同時に六本木の外国人が集まるナイトクラブに行くのと、ただクラブというものを知っているというのでは訳が違う。
一方であふれる情報は人々を混乱させる役割を持つことがある。無数ページの中で実際に真実を語られているものは少ない。しかし人々はそこに行ったきになる。知ったきになる。物質を介すことなくパソコンから与えられた情報により行動が決められてしまう可能性が起きる。これは非常に危険である。何故なら人間というものは物質でできているし、コミュニケーションを取る上で最大の方法は人と人が直接介して行うものである。そして建築は最大の物質であり、今物質とこのウェブという虚構に近い無数の情報により構成されるようになってきているのである。デザインは情報の集合であるという言葉は現実のものとなってきている。無数の情報で構成された虚構と人間から始まる物質の中で私たちは生活しているのである。そして情報化による利便性とは何か?第一に考えられるのはいい意味でも悪い意味でも個人が無数の情報を手に入れたことである。世界中何処に行っても検索エンジンをとうして欲しい情報がいくらでも手に入る。そして英語、中国語、英語で書かれたものがウェブの世界では大半を占める。これはアメリカで情報革命が始まった為、アメリカで広まるというのは当然のことであるが、日本はアメリカの影響を強く受けているため、その文化が流れ込んできたということ、そして先進国でなくてはパソコンを持つことは難しかったのである。そして中国は発展途上の国であったが、北京オリンピックでも承知のとおり飛躍的な成長率で一気に先進国の仲間入りを果たしてきた。そしてこの国は世界一の12億人の人口がいる国である為、インターネットが普及したことによって一気に中国語のウェブページが増えていったのである。そして次に考えられるのが発展を続けているインド、ブラジル、ロシアである。これらの国もアメリカのリーマン・ブラザーズ倒産から始まる金融破綻によって一気これらの国に資本が流れてくる可能性もあるため、資本は技術と同時に流れてくる事が多いため、一気にウェブの普及率も高くなる可能性がある。事実20年後はもはやインド、中国は日本を軽く超えるインターネット人口になるであろう。そしてインターネットは産業の発展に大きく貢献するのである。ウェブと英語が使えれば先進国の技術や情報などを知ることができる為、英語を公用語として使うインドは情報化革命において非常に強みを持った国になったと言える。特にインド工科大学は政府が国を発展させる為に力を入れたこともあり、世界でも数学や技術に強い大学として評価を得ている。むしろアメリカのアイビーリーグ校よりもインド工科大学を卒業する方が難しいと言われているぐらいである。そして中国もまた工科大学に力を入れている。特に精華大学は世界でも屈指の優秀な人材を生み出す学校である。ハーバード等の世界の一流校のリクルーターはこの大学に直接来て優秀な学生をアメリカに集めようとしているぐらいである。今ではハーバードやエール、MIT等の学校には中国人3割、インド人が2割である。情報革命の聖地であるシリコンバレーでも中国人とインド人は優秀なエンジニアが多いことで有名である。このような先進国になればインターネットの普及も早くなり、逆に発展途上国はパソコンの普及率が少ない。世界で見ればパソコンを持っている人口は全体の3%程度であることを忘れてはならない。パソコンを持っている時点で世界から見たら富裕層なのである。しかしグローバリゼーションが起こっている原因はパソコンにあると言える。電話、交通、新聞、テレビ等の発達で最初のグローバリゼーションが起こったが、確実に世界規模で国際化を促したのがパソコンである。それでは何故この少ない所持数なのに世界に対して影響を多く持ったかというと、イノベーションを起こす側が富裕層の人間であるからという理由がある。これらは現実であり、でっちぼうこうから成り上がるということは現実にはほとんど起きない。社会は西欧の中世社会のように与えられたレールみたいなものがあり、大半の人間はそこを歩いて一生を終えることになる。これらは希望をそぐものになると思うがそれは現実のものとなっている。しかし一方で飢餓をなくすのも事実である。情報化が伝達することにより、産業が促進されて飢餓が減るというものは現実に起こっている。これらは中国で例があり、1億7千万人いた貧困でなやんでいる人々がグローバリゼーションと産業の発展がもとになって5千万もの人が飢餓で苦しまなくなったのである。これらのグローバリゼーションの原因に少なくとも情報が起因しているのであるから情報は産業の発展や教育にとっても重要なものとなっている。それでは身近な所で情報化の恩恵を受けるものはなんであろうか?それはネットバイキングやネットショップなどである。ネットでほとんどの物を注文し、希望した場所にその指定した商品が送られてくるシステムである。例えばアメリカの巨大なスーパーであるウォルマート等はインターネットバイキングに力を入れている。広告も食品もまた大衆に均一のものを大量に提供するという時代から個人の注文するものを提供していくという時代に移り変わろうとしている。そしてブックストアではアマゾン・ドットコムやマネーバイキングシステムのPAYPALなどのシステムが発展し、インターネットさえあれば一年間全ての生活ができるようになってきている。これはギネスブックでも証明されているものである。そして情報を使うことにより空間を使う必要性が出てきた。必ずコンピューターを置く場所が必要であることである。これらの利便性は私たちの日常にインターネットを使用するという概念ができつつある。(先進国において)そしてこれらは21世紀においては世界中で確立するものとなる。必ず世界は一つになることは間違いない。
その兆候としてアメリカのエンパイアステートビルディングを日本企業である三菱地所が買い、日本の北海道の土地をアラブの投資家達が買っているということがすでに起こっているのである。現代社会は情報化を持ってして更に技術革新が加速度的なスピードが起こっている。もはや現代様式といったものも。大体芸術などの様式なども100年、200年単位ではなくもはや猛烈な速度で革新が起こっているのである。マック、マッキントッシュ、グーグル、Iポッド、バイオ、ノキアの携帯、YAHOO、ソフトバンクモバイル、百度などの革新はあっと言う間に世界に知れ渡るのである。もはや革新は300年前のような地域のみの革新ではなくて、地球全体で行われるようになっているのである。また携帯も軍事目的で発明されたものである。ケーブルを使用することなく無線で味方と交信する為にできたものである。そしてフィンランドの携帯電話会社ノキア、日本のNTTドコモ、などの会社は携帯を先進国の人間が当たり前に持つという文化を作り出した。アメリカ、韓国、日本などは20代の若者であれば持っている確率は更に高くなっている。日本ではほとんどの人間が携帯電話でコミュニケーションを取る。メール、電話、ウェブ、最近では携帯でテレビを見れるようになってきている。携帯電話の普及率は日本では信じられないほどのものになっている。実際に携帯電話がないと友人などとコミュニケーションが取れない、また携帯を使わないと生きていけなくなるような事態もまた起きているのも事実である。
また発明において携帯とウェブの世界を完全に繋げる商品としてIポッドなどの商品がでている。携帯電話、パソコン、そしてそれらから発展してできたIポッド、ミニパソコンなど情報化の加速化を進めるものは多角化して世界中に広まっているのである。
「情報化は進化する。」
ウェブブラウザ、検索エンジン、ウェブ2.0、3.0、クラウドコンピューティング。
情報化の世界もまた革新が起きている。これらは大衆の時代から個人への時代へと移り変わったことが原因としても挙げられる。ネットスケープのバーナード・リーと呼ばれる開発者がネットブラウザを開発した頃が最初のインターネット時代であると考えられるが、それらを大衆化し簡単に誰でも使用できるようにしたのがビル・ゲイツ、ポール・アレンが創業したマイクロソフト社のウィンドウズである。ウィンドウズはパソコンを大衆用に更に使いやすくしたものであった為、ネットスケープを超えて爆発的に普及した。それによりビル・ゲイツはフォーブス紙で世界一の大富豪となっている。ウェブブラウザの進化、そしてただの計算機としか使い道がなかったコンピューターを革命的に音楽や映画、ゲームなどをして日常の生活に近づけたのがアップルである。彼等もまたスティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニアックという2人の若者であったが、当時スーパーコンピューターあったヒューレット・パッカードでインターンで来ていた、ジョブスとそしてそこで後に働くウォズニアックが数年後に個人用のコンピューターを設計し、開発したことが最初の情報化革命の始まりであった。この2つの会社はお互いに協力し、またライバル社として争いながら現在もIT界を代表する企業として提携を結んでいる。彼等は世界中でこの便利なパソコンを広めたいという壮大な目的をもって設立され今にいたる会社である。
彼等は壮大な夢を持ち、創業されたものである。彼等は英雄として今に至っているが、それまでに至るまでたくさんの失敗があったことは言うまでもない。スティーブ・ジョブスのスタンフォードスピーチでの言葉、「ハングリーであれ、馬鹿であれ。」この言葉は本当に人々に活力を与えてくれるものである。
ここまでは最初の情報化革命の創生期の話である。創生期以後、パソコンは世界中に増え続け、そしてそれと同時に世界中の人々が誰でもウェブ上に情報を書き込むことができるようになったため、情報は膨大な量になっていったのはいうまでもない。これをいかにして整理し、引き出しやすくするかが次のIT業界の課題になっていったのである。そこで今ではよく知られる、YAHOO、GOOGLEなどの会社は時代にそくしていると同時に、スタンフォードの博士課程という共通する場所で生まれた会社であった。台湾から来たジェリー・ヤン、そしてアメリカ人であったディビッド・ファイロというスタンフォードの博士課程の時にウェブ上の情報を整理し、大衆にその検索エンジンをとうして必要な情報を提供するという目的でYAHOO(ヤッホーという掛け声をなじっている)は設立された。またこの創立の過程に日本のベンチャー企業であった今では日本を代表する会社となっている在日韓国人であった孫正義が資本提供することによって拡大していった会社であった。そして今では世界を代表する広告検索エンジンの会社であるGOOGLEは(10の10乗という意味がある。)彼等もまたスタンフォードのコンピューターサイエンス学科にいた博士課程のラリー・ペイジ、サーゲイ・ブリンという若者である。彼等はユダヤ系のアメリカ人である。ユダヤ系はアメリカで少数に位置していながらも経済界、政界に多大な影響を与えている。ユダヤという人種は5000年にも及ぶ歴史であったがほとんどが迫害の歴史であった。そこでユダヤ人達はこの現世で生き残る為にいやでも上に行くしかなかった。ユダヤ教の経典であるタルムードは非常に有名なものであるが、これは5000年間の歴史の中で現世でいかに生き残るかという処世術が書かれている。彼等の概念にあの世などはない。現実のみが世界なのである。建築家でもミース・ファン・デル・ローエ、ルイス・カーン、ダニエル・リべスキンド等はユダヤ人である。GOOGLEの創業者もユダヤ系アメリカ人であったが、彼等は先輩であったYAHOOの力を借りて操業を軌道に乗せていった。
情報化革命による価値観の共有
検索エンジンの特筆すべき所は欲しい情報を世界中の誰もがパソコンさえあれば簡単に取り出せるという点である。これらは情報化の新しい時代として移り変わっていった。そして検索エンジンはウェブ2.0と呼ばれた情報化の第二の時代へのきっかけとなった。日本で作られた2チャンネルと呼ばれたユーザーが書きこんで一大メディアを作り上げるもの。そして画像や動画を投稿してそのサイトを見た人間が好きな動画を見ることができるYOUTUBEなど、そして今では違法になっているが好きなアプリケーションや画像、音楽、ゲームを投稿して取り出せるようにするファイル共有サイトであったWINNYなどこれらは情報化の新しい時代としてメディアなどでも取り立たされるようになっていったのである。ユーザーが提供する情報によってそのサイトが作られる。ユーザーが中心となるのがウェブ2.0の特徴でもあった。そしてとくにYOUTUBEなどはGOOGLEが買収したこともあり、検索エンジンシステムに関する情報が見ることができ、また世界情勢や国際会議の様子などの世界の最新の情報を知ることがきるのである。また音楽もまた情報により変わっている。Iポッドなどのパソコンを介した音楽機器の誕生により、既存のCDを販売する音楽業界は一気に落ち込んでいるの事実である。またYOUTUBE、WINNY等でも最新の曲が無料で提供されることからも、っそこに個人の資本が行かない為にその結果音楽、または映画などの業界は業績が落ち込んでいる。そしてそれらはその他様々な業界に浸透している。やはり情報化の台頭と共にそれらに変わって落ち込む業界も多々に及ぶ。それらを説明したい。
情報化による台頭と衰退
情報化による台頭と衰退はどの業界にもある。特に痛手を被っているのはIポッドの台頭によって痛手を受けた音楽業界だけでなく、特にメディアの移行が情報化革命により起こった為に大打撃を受けている。もはやボディブローでもカウンターでレバーブローに入ったぐらい強烈である。特に新聞や雑誌といったメディアは下降ぎみになっている。特に創造していただきたいのは新聞である。新聞は現在の40代、50代、60代は購入しているものであるが、10代、20代はどうであろうか?これは深刻で今現在情報を頼りにしているのがテレビやインターネットと呼ばれるメディアである。若者の活字離れが起こっているので新聞をあまり凝視しない。特に新聞を見る時はほとんどの場合テレビ欄だけである。しかも情報を得る時には無料のインターネットというものを使えばことたりる。そして新聞は月々3000円以上かかるものであるため、今の若者が購入するとは言い難い。そして雑誌もまたネットで情報を見ることができるのでわざわざお金を出して買うものではなくなってきている。これらの業界はいやおうなしにネットの対策が必要になってきている。2009年になろうとする現代では金融危機とともに全ての業界の株価が減少し、どの業界も冷え込んでいるが、この情報化革命は産業革命時代に代わる新しい革命期なのでまだまだ続くと考えられるから新聞といった旧来の媒体は変革を求められている。人間の行動は一日24時間であるということは変えようがないから、そこに新しい生活であるネットというものができたことによって一方ではそこに従来あった文化は失われるのである。その中と言うのは勝つものがあれば負けるものもあるし、得るものがあれば、失うものもあるということである。産業革命時代に馬車や馬を使う文化から自動車の時代へと変わっていったように、産業革命時代の大衆を意識した大量生産から個人への情報化革命時代へと移行しているのである。そして情報化による台頭と衰退は確実に私たちの日常で起こっているのである。台頭はそれぞれの国にも起きている。アメリカがイギリスに変わり超大国になった20世紀はソ連などとの冷戦がったが、この国は圧倒的な軍事力を背景にして世界の支配者となっていった。そしてブッシュ政権から初の黒人大統領であるオバマが大統領になったが、ウォール街の金融危機は80年前のブラックマンデーである世界恐慌の再来を予感させる。経済を長年牛耳ってきたアラン・スパーリングなどの著書にも、世界恐慌が訪れると予見している。そして21世紀はアメリカではなく、アジアにその勢力が移っていくと考えられる。
特定地域に集まる移民
現在のアメリカの一流大学の留学生はほとんどがアジア圏の人間である。特に中国、インドの国から来ていることが多い。彼等は今までの成功のルートを考えるのであればアメリカに永住してシリコンバレーや外資系都市銀行に勤めて莫大な給料をもらって生活するという成功モデルがあったが今の金融危機によってアメリカの自動車業界であるフォード、クライスラー、GMなどのビッグ3が苦境に立たされていることもあることだけでなく、サブプライムローンの問題によりアメリカ企業への世界の信頼が一気に疑問視されてきたのである。今では中東、アラブなどの石油大国、ブリックスなどの経済組織を組んだ、ロシア、ブラジル、中国などの国に世界の資本が移動してきている。その現象として世界のドルは信用がなくなり、むしろ円等のアジア金融に買いが入り、円高が進んでいるのである。情報の世界でもジェリー・ヤンも台湾出身のアジア人であるし、韓国人である孫正義もまたアジア出身の人間である。またソフトウェアを扱うサン・マイクロ・システムの経営者もインド人である。アジアはアメリカにとって重要な人材供給の為の場所であったのである。中国やインドの人間はアメリカ人の10分の1の給料でアメリカ人以上に働いてくれるため、アメリカの外資系企業はこぞってアジア諸国に人材を求めて投資した。特にインドでは情報や数学に教育の力を入れているということと、英語が話せるということを武器にゴールドマンサックスの統計によれば20年後はもはや日本を越して中国とインドは世界で2位、3位を争う国になるであろうと予測している。そして2050年にはアメリカを変わる大国になると言われている。時代を読むということをうまくできた国が中国とインドであったし、それにこの2カ国には2カ国合わせて20億人に行くほどの人口がいるのである。これらが経済発展し、完全な先進国化すればもはやアメリカを代わる超大国となる。
イギリスからアメリカに以降した時も同じ現象が起きていたのである。アメリカは17世紀にアダム・スミスやトマス・ジェファーソン等が自由を掲げた国を作ろうとしたのが最初の起源であると言われているが、アメリカはイギリスの植民地だったのである。コロンブスがアメリカを最初に発見した時はインディアンが住んでいたが、イギリス人が深く大陸に侵入し、先住民を押しのけて植民地を形成した。アメリカはイギリス人の手によってできた場所であったので、古くから鉄を使う技術、織物などを大量に生産する技術などが母国であるアメリカから入ってきていたのである。これらはアメリカを超大国にする要因となったものである。鉄とガラスを精製する技術、そして量産化する技術がイギリスから入ってこなかったら、広大な領地を持ったアメリカが産業革命を成功させてイギリスから独立し、民主主義を掲げる超大国にはなりえなかった。ヘンリー・フォードの自動車の量産型システムもアンドリュー・カーネギーの鉄鋼技術もなかったはずである。それを背景に考えれば古くはイギリスの植民地であったインドや中国はアメリカと同じ広大な領地、労働力、そして資源をもってすれば次の超大国になるのは目に見えている。これらは情報革命という新しい産業が起因して起こっているものであると言える。また日本は第二次世界大戦後に大帝国主義から民主主義に変わったが日本国憲法を作ったのはアメリカである。日本はアメリカのベトナム戦争に必要な軍事機器や自動車の輸入などによって大きな利益を得て、高度成長期に突入し、経済大国の仲間入りした。日本は今でも携帯や情報機器に関する精密機器は世界屈指のレベルとなっている。
このようにしてその国の経済が発展するのは何かしら超大国であった国に関係しているというものが見つかる。これらは真実であって超大国との関係を持つことは重要なことであると言う事が時代背景から分かるのである。超大国であったイギリスにアメリカが影響を受け、次に超大国になったアメリカに中国やインドが影響を受けているのである。
情報は何から構成されるか?
では情報革命は経済発展に密接に関係するものとなっているが情報はどのようにしてできているのであろうか?これもまたイギリスから派生したものである。コンピューターの概念は計算機から生まれたが19世紀にイギリスで生まれたものである。パソコンは何から構成されているかと言うと1と0から構成される。これらの二進法の数字が無数に関係することによって現在のパソコンができているのである。プログラミングを行う時は今では人間に分かりやすい言語で入力するが、機械が読み取る情報は1と0で構成されているのである。これはシンプルな方が機械にとって分かりやすいことが利点である。全てのウェブブラウザ、計算機、フォトショップやイラストレーターなどのアプリケーション、GOOGLEなどの検索エンジンもまた元をただせば1と0の情報で成り立っているのである。あまりにも複雑化されたウェブ上のシステムは私たちにそれらを理解することを困難にするが、簡単に言うと1と0で構成されるものなのである。至ってシンプルであると言える。動画投稿サイトもこの単純な構成でできている。ス全てのものはシンプルの方が構成を行いやすい、設計しやすいのである。ミース・ファン・デル・ローエの言葉で「より少ない事はより豊かなことである」はウェブアーキテクト達にも反映されているのである。またその情報の波にも新しい概念が誕生しようとしている。検索エンジンで無数の情報を簡単に取り出せるようになってきたが、その無数の情報があるウェブ自体をスーパーコンピューターとして使おうとする試みである。それを「クラウドコンピューティング」という。
クラウドコンピューティングの時代へ
クラウドコンピューティングのクラウドはネットワークを指す。これは21世紀の始まりにできた概念であり、GOOGLEのCEOであるエリック・シュミットが検索エンジン会議で提唱した言葉である。これはネットワーク上を一つのスーパーコンピューターと考え手でデータやシステムの処理を行うことをさす。これらは従来は個人のパソコンの中で行っていたため、容量を大きくすれば処理能力が遅くなるということが起きたりしたが、ある程度の登録料を払えばネットワーク上でコンピューターのデータ管理を行うことができるため、ネットワークを巨大なコンピューターと化すことができるシステムである。クラウドコンピューティングはマイクロソフトでは2008年からこれらのサービスが受けられるようになっている。これらは情報化の新しい概念である。これらのサービスを取り入れている企業は多くなりつつある。何故ならあまりにもネットワークが巨大な為に会社でデータを保存するよりもセキュリティが保護される為である。この技術革新によりコンピューターはより速く、より効率よく作業できるようになるのである。このようにして情報は20年あまりの短期間でより便利に進化を遂げてきたのである。
利便性が生む弱体化
情報化などの利便性が進めば進むほど、人々にとって時間の短縮や労力を減らすことができるなどのメリットがある。しかし一方で失われるものもある。ストレスというものは最低限私たちにとって必要なものである。過多なストレスは内部だけでなく外部までも崩壊させるが、必要最低限のストレスは人間にとって必要である。何故ならストレスがまったくない状態で人は生きていけなくなるからである。世界大戦時のナチスドイツの人体実験場などで3日間五感をすべて遮断して人間を放置すると食べ物がなくて死ぬのではなく、何も刺激がないと発狂し、精神が崩壊して死んでいくという結果がでている。このように肉体的なストレスがなくなるという事は人間にとって有害な部分もあるということである。あまりに快適すぎる環境は人間を弱くする傾向がある。日本は経済が発展し、世界でも特に恵まれた国である。食べ物には困らない、格差社会はあるといっても、最下層に位置している人間でも食べ物が住居にはまともに働いていれば困ることはない。ある意味では資本主義社会が完全に定着し、治安などを含めて安定したものである。しかし一方では完全な安定、資本主義や経済至上主義、大量生産、大量消費が確立されたことにより、全てのものを取りかえることのできるものとして考えがちである。食べ物も、衣服も、携帯も、そして人間までもが取り換えがきくものとして捉えられるようになっている。友人や恋人でさえ取り替えて消費するという事態ができているのである。それらは完成されてしまった資本主義社会の問題でもある。そこからいかにして脱却するかが重要であると感じる。
安定や安全、ストレスがないものへと人間は古くから行動するようにできているが完全にそれらがない社会は人々の個々の能力の低下を生み出しているのである。個々の力が弱まれば集団の力も弱くなる。デザインの世界でも最早、個の時代ではなくユニットを組んでデザインを行う傾向が強まっているが、デザインを主に行うのは資本主義の確立した先進国であるため、個の力が弱くなったため、もはやユニットを組むことなしにはデザインを行うことが難しくなった為であろう。しかし弱い個同士で組んでも、世界で通用するものは生まれない。日本は横並び主義が強いので横並び同士で狭い世界で争っている。そこで優秀であっても世界で渡り合えるとは思えない。彼等は未だに日本が経済大国であるということを勘違いしている人間も多い。もはや日本は下り坂の国なのである。これらを私たち、特に10代、20代の若者は実感しなくてはならない。近い将来必ず中国やインドの優秀な人材達といやおうなしに競争しなくてはならない時代が来る。その中でその現実を知っているのと知らないのでは大きな差異が生じるのである。グローバリゼーションの波は東京においての外国人の増加を見てもわかるとおり身近なものとなっている。そして彼等は日本人の若者より大体が優秀である。それは当然のことであるが異国へ来る人間というのはある程度覚悟をもってきている。そして覚悟やリスクを承知で来た人間は強い。エネルギーが違うのである。彼等移民は大概が国境という隔たりがない。これは素晴らしいことである。例えばヨットなどを使用する競技を行う人間もまた国境がない人間が多いと聞くが、国境がないというのは21世紀にとって非常に強みになるものである。情報化の恩恵を私たちは受けているのだから、何処に行くにもある程度の情報を知ることができる。そして英語をもってすれば大抵は度胸と行動力があれば直接異国へ行って生活することも可能である。
特に現代社会の適正を考えるならば畑を耕しながら作物を得るタイプ、これが日本人は大半であるがこのタイプは大量生産、大量消費型の社会は非常に向いていた。しかし、様々な人々が入り混じり、彼等と交流を取らなくてはならない21世紀の社会人モデルは何処に行っても多種多様な人々と英語を駆使して違う文化を理解した上で彼等と闘っていかなくてはならない。同じ場所にいるということは安定をもたらすが、広い世界を知ることなく終わってしまう。世界は広く、様々な人間、文化、生活。そして言語がある彼等とリスクを冒さないで交流しないというのは自分にとっても有用であるとは言えないのである。いつもと同じ道からでて違う道を歩く、知らない人と話してみる。それを行うだけでどれほど広い世界を知り、自分の愚かさに気付くであろうか。自分はできるだけ強大な他者に会い、どれだけ叩かれたか分からないが本当に広い世界を知った。今必要なのは多様性というものである。どれだけ広い世界を知り、どれだけ違う人間を理解することができるかが重要である。本や情報だけに頼った知識は本当に違うことが多い。自分でその場所に行き、勇気を持って自分より強大な人々に挑むことに意味があるのである。これらは情報化で利便性が増してきた今、直接その場所を見て、聞くという物質的、直接の人と人とのコミュニケーションを取ることを忘れてはならない。噂と実際は絶対に違う。これは自分の体験から言えることである。
情報化による移民の流動性
インターネットの発達により、海外からの留学生はより増えたことであろう。これは何処にいっても英語で開設されたウェブサイトがあるために、情報を簡単に知ることができるようになったからである。これらは国境をなくすという役割に大きく貢献している。研究室内にいる留学生もまた、インターネットで研究室のサイトを見たことによって日本に来た。情報化は国境を越えた流動性を加速させた。外国人労働者、外国人留学生にとっても情報化により様々な国に比較的容易に行きやすくなっている。特に留学生が多いのがやはりロンドンやアメリカであるが、近年ではアジアへの留学生もおおくなっている。これはアジアの発展などにより世界情勢の変化が考えられる。イギリスやアメリカは英語圏であり、特に教育が世界でも屈指のレベルであり、世界の大学の順位ではトップ10はアメリカとイギリスで占めている。ハーバードやエールなどのトップ校はこれらの留学生を積極的に受け入れている。そして勿論のこと世界で最も優れた人材が競争をするため、母国に帰るとしても、アメリカに残るとしても、どちらの国でも重宝されるのである。彼らには国境という概念がない。インターネットにより、距離がなくなった為にできるようになったことであると言っても過言ではない。
3.大量生産と大量消費
大量生産と大量消費が作り出す社会・・・
大量生産と大量消費が作り出すものは何か?まず大量生産が始まったのは16世紀~17世紀のイギリスから始まった産業革命からさかのぼる。またこれと近い時期にフランスでも革命が起こり、ブルジョワジーと言った貴族階級中心の生活から、今までは中流に位置していた中産階級の市民が政権を取る新しい時代へと移行していった時代であった。またイギリスの産業革命は鉄鋼や織物等を中心としていかにして多くの市民に効率よく、同じものを大量に提供するかが経済や国を発展する為にも必要な事であった。それにより生まれたのが大量生産の概念である。大量生産は工場で生まれたと言っても過言ではない。そして経済が発展していく中で技術革新が起こり、多くの優れた技術者が育っていった。ブルネル等はその筆頭であるといって良い。イギリスは古来よりオックスフォードやケンブリッジと言った大学がこの産業革新の担い手になったのは言うまでもない。そこで有能なエンジニアになる為の教育が行われ、多くの優秀な産業人、エンジニアが育っていった。そしてポルトガル、スペインといった風に必ずその時代の大国というものは、時代とともに栄え、そして必ず衰退するという道をたどっている。イギリスは当時無敵艦隊であったスペイン艦隊をエリザベス女王率いるイギリス軍がそれらに打ち勝ち、軍事背景から見てもスペインからイギリスへと世界の中心が教育から見ても、技術革新からみても移っていったのである。この時代から大量生産する為の道具として機械とう概念が生まれた。これらはヨーロッパではルネサンスの頃からレオナルド・ダヴィンチのメモでも書かれているようにこの時代は私たちによく知られているジャンヌ・ダルクが中心となったフランス、イギリス間の対立などの為に戦争で鉄剣を使う技術や砲台などを大量に作る時に使用されていたが、このように機械を中心にして工場を使って大量生産を使うという概念はほとんどなかったのである。これは市民階級への移行と共に封建的な概念が政治とともに技術も革新されたからである。大量生産は量産するということである。量産化は確実に経済発展に貢献した。効率よく、質の良い、同じ製品を販売していけば確実に人々は良い製品であれば欲しがり、購入するからである。そしてイギリスはアフリカ等の地域を植民地にして奴隷を使い、大量の労働者を安く雇い、資源を外国から手に入れて自国で大量生産し、他国に販売したからである。結果、面積の少ないイギリスは大量の資本や国土の発展を産業革命によって手に入れたのである。イギリスは自国の資源がない分を外国に求めた。これは20世紀の日本にも言えることである。
現代においても日本はイギリスと同じことをおこなった。
量産化を行うと私たちにとって最も意義のあることは何であるか?古代より、災害や生活の定住、そして外部からの身を守る為に人間は周りにある道具を使い、そして狩りをして生活をしてきた。そして洞窟で生活をし、男がウサギなどの獣を狩りに行き、女が子供達を守るということがなされてきた。獲物がいなくなれば移動しなくてはならず、そこで生活の安定を確保する為に、同じ場所で田畑を耕し、そこで育つ作物を採取することによって生活をするシステムができてきた。これが農耕民族の始まりと言える。特に日本人の祖先は韓国から来たと言われ、日本では天皇が初めての人であると言われている。アマテラスオオミカミという神が日本にやってきたことで始まったとされるが、実際は韓国にいた類人猿の祖先がまだ大陸が韓国や中国が繋がってきたときにやってきたと言われている。歴史や神話は時に都合のいいように改訂されて作られる。そしてこれらは量産化と何が関係するであろうか?古来より、生活をする為に資源を多くもっていた方が得なのは事実である。資源、特に食物を多く持っていれば、同じ農民であっても格差が出ることは当然のことである。そこで貴族と農民という概念が生まれてくる。個人の資源の量に差がある為に支配するものとされるものが生まれる。これが古来より続く格差社会の始まりであると言える。量産化は資源を早く、効率よく獲得する為の最も良い方法である。ものを大量に生産することにより、人々が欲しがるニーズも供給することができる。そして経済が発展することによって、富が一般の人にも伝わるようになる。量産化は何よりも人の生活を豊かにする上で重要な要素である。
量産化の歴史、エジプトのピラミッド
世界的に巨大な建造物は古代は墓であった。これらは民衆の墓ではなく、王族の墓であった。特に特筆すべきなのはバビロニア、メソポタミア、エジプトのピラミッドである。クフ王の墓やツタンカーメン王の墓は巨大な石造を積み上げて造られる。これを作り上げるのは民衆や奴隷である。かれらは来る日も来る日も石を大地から削り、できた石を現地に川を使い、丸太などを使って現地に調達する。そしてその後は積み上げる作業であるが、その為には効率よく同じものをたくさん製造する必要があった。そこで型枠など規格、既成品という概念が生まれ、量産化するという概念が生まれた。
この量産化はイギリスの産業革命により進展したが、古来より同じ量産化の基礎はできていたのである。これはすでに紀元前BC10のバビロニアの時代から生まれていた概念であるが、この時代には数学という概念も生み出された。大量に生産するには角度を測ることや、計算をするという概念が生まれてくる。数学は量産化にとってなくてはならない概念である。また5000年の歴史があるユダヤ法典のタルムードにも数学があるがこれには1、2、3、4といった私たちにとってなじみ深いものがあるがそれぞれ角度の数を表している。1はひとつの角度を、2はふたつの角度を表している。3はみっつの角度を表している。これらの数学の概念は量産化する上で非常に重要であったのである。現代では投資銀行などで数学者が採用されるケースが多くなっている。資本主義社会で数学の概念は非常に重要なものである。資本主義社会はこの古来より作られてきた量産化の概念を産業革命により確立したものであると言っても過言ではない。ヘッジファンドやベンチャーの経営者にとっても数学は非常に重要なものである。
量産化と数学の関係。
そこで非常に用いられたのが計算機であった。電子計算機はイギリスのチャールズ・バベッジが生み出したと言われている。これは初めてのコンピューターであった。効率よく、生産するには大量に計算を行う必要があったため、計算機は爆発的な勢いで広まっていった。これは20世紀前半に2人の起業家が作ったヒューレット・パッカード社、そしてIBM社などがこの計算機を販売することによって巨大な資本を得てきた。このようにして歴史は必ずつながっている。歴史が繋がらない創造はほとんどありえない。ニュートンが万有引力の法則を発見した時も、リンゴや木がなければそれらを発見することはなかったし、アインシュタインがピアノを弾いた時に相対性理論を発見した時もまた彼に過去の物理という基礎がなかったらできなかったはずである。偉大な発明には社会や歴史が必ず存在する。歴史を断絶することはほとんどといっていいほど愚かな行為である。
量産化、資本主義、社会主義
現在は1920年代に訪れた世界恐慌の再来である。とアラン・スパーリングは言う。もちろん経済はいい時もあれば悪い時もあるというのは当然のことである。20世紀はスターリンやトロツキーなどの社会主義と資本主義の闘いがあった。アメリカとロシアである。この大国の間は冷戦と呼ばれる闘いが繰り広げられてきた。例としてドイツなどはこの被害を国レベルで受けてしまった国である。東ドイツ、西ドイツを分けられ国を隔てて資本と社会の衝突が起こった。ロシアの社会主義もまたロシアの帝国主義を打倒する革命軍によりなされたものであった。帝国主義により王族に力が行き、民衆はそれらに従うほかなかった。これらを打倒したのが、スターリン、レーニン、トロツキーなど中心として起こした社会主義国家であったが、彼等の社会主義の理念は国家がひとつとなって民衆に均等に富や食糧を振り分けるというものであった。これらは資本主義国家からすると無謀に近い思想であると言われるが当時これらが本気で行われていた。量産化を行うという行為は社会主義、資本主義関係なしに人々にとって利点のあるものであると言える。共産主義は人間の成長に最も意味のある競争という概念を希薄化してしまうものであった。競争がなくなれば安定が訪れるが、それは成長するということに関しては効率的でない。資本主義社会は逆に競争社会である。そして競争することによって成長が起きる。会社間でも競争がある為に格差が必然的に生まれるが、強いものが支配し、弱いものは淘汰される社会になる。しかし、共産主義よりも資本主義の方が人類に適していた。そして資本主義社会の基は大量生産、大量消費である。これらがなくして資本主義国家は周っていかない。経済を重要視するものが資本主義社会であると言えるため、量産化はその資本、資源を得るために重要なものとなる。そして人類にとって最大の産業である建築はこの資本主義社会に間違いなく貢献した。装飾をなくした鉄、ガラス、コンクリートを使う建築は経済性という資本主義の最も重要な要素に適していた。その為に国際様式は世界的な広まりを見せた。特にドイツから始まり、アメリカにその流れが広まることにより爆発的に広まった。そして現在においてもアメリカの技術革新は世界中を覆い尽くすものとなっている。情報革命はアメリカで起こったといっても過言ではない。第二の金融危機叫ばれているが、アメリカの影響力はオバマ政権に変わった後でもまだまだ続きそうである。
大量消費による過度の消費性
全てのものを大量生産することによって多くのものを作り出すことによって、勿論のことそれらを消費するという行為が行われる。人間にとって食欲は生命を維持する為に必要なものである。必要最低限の食物がなければ人類は繁栄することはなくなる。
先進国の問題で肥満や糖尿病などが騒がれるがこれらは過度の食物の消費によって起こる現象である。特に大量に人々に食品を提供する大型スーパーマーケット(ウォルマート等)ができた為にそれらにこぞって人々が大量の食品を購入していった。大量生産を助長することは大量の消費に繋がる。そして人々はより多くの食物を消費し、より多くの製品を使用することになる。そこで問題が起こる。過度の消費による支障は人体にも及ぼすものである。多くの場合、過度の食物をとれば入らないものは脂肪となる。特に肥満となる人々は過度の食物の消費により人体に死傷が出た人々である。これらは特に開発国では肥満は美の象徴とされてきたが、一方で食物に困ることのない先進国では肥満は体力の減少や健康を害するものとして問題となって来ている。これらは全て過度の消費によってもたらされたものである。またこれらの食品を提供するスーパーマーケットは生活の様々なものを消費するという概念を付け加えた。トイレットペーパーなどは特にこれに当てはまるであろう。トイレットペーパーは石油を原料として使用しているために、1970年代は石油ショックですでに資本主義社会の仲間入りを果たしていた戦後の日本はアメリカの文化が大量に流れ込んだ来た為に、もはや洋式のトイレにはトイレットペーパーが必需品であった。その為にようを足すことができないという問題が起こった。そしてこの紙は消耗品である。紙を大量に消耗して先進国の人々の生活を循環させるというものは日常で起こっている。また、ティッシュペーパーなどもそれらと同じものであるといっても良い。従来はハンカチやフキンなどを使用していたものが、大量生産、大量消費の流れによって取って代わったものである。人々は生活をより豊かに、より便利に運ぶように進歩や革新をおこなってきた。より豊かにするという試みは現在も行われている。これらには勿論のこと問題もある。
身近にある消費。そして現実におこるもの。
大量生産と大量消費はリンクする。大量生産すれば商品が人々の元にあふれ、社会の商品の流通が大きくなるからである。大きくなれば人間の個人の量は変わらないので必然的に個々の消費量が増える。よって大量消費社会ができるようになる。しかしこれらはあくまでも先進国や急激に発展してきたブラジル、ロシア、中国等のBRICS等やシンガポールやベトナム等に言えることであって、大量生産と大量消費社会はそれらの為に必要な技術、資本、教育がない開発途上国の国々はこれらの概念は当てはまらない。特に資本主義は世界共通の文化等をもたらし、経済効率を促進するものでもあるが、イスラム諸国のパキスタンの一部のイスラム教は閉鎖的で、アッラーを絶対の神とする1神教である為、他の文化を受け入れにくくなっている。そして必然的に文化が受け入れを拒否する体制ができる。そうなれば資本主義の大量生産、大量消費という概念は受け入れにくくなる。よってインドの地域や国家間の流れや、先端機器、パソコンなどの製品は本当の貴族階級以外に渡ることも知られることもない。パキスタンのアルカイダが支配する地域や、北朝鮮など国家レベルで情報の制限が行われている場所があるのも事実である。北朝鮮は元は大韓民国と同じ国であったが、東西ドイツのように区切られてしまっていた。北朝鮮がロシアを背景にする社会主義、南がアメリカを背景とする資本主義となった。これらの国は冷戦が終わっても統一することなく今に続いている為、格差がひどくなっている。北朝鮮は社会主義国家と言われてきたが事実上、キム・ジョンイルを国家主席とする帝国主義となっている。彼等の国もまたアルカイダのように情報が制限されて民衆がインターネットを使うことはまずない。特に社会主義の特徴である食料の支給などはまずなされていない。消費社会は地域によっては文化や宗教間の対立によって行われない。特に現代の資本主義は21世紀を迎えてウォール街の2度目の金融危機によってアメリカから他の国々への多極化が進んでいるがこれらの国家間との対立がある国や地域などはグローバリゼーション、情報化革命、大量生産、大量消費の流れは組まれていないのが事実である。
食品のグローバリゼーション
よくちまたでは伝統というものが重要であるということが聞こえてくる。しかし、現代の先進国社会の生活においてそれらを語るのは難しくなっている。何故ならまず食事の事を思い出して欲しい。朝はパンやコーヒーを取り、ランチタイムにはハンバーグ弁当を購入したとすると、これ等の製品は完全なグローバリゼーションを感じることができるものとなっている。マヨネーズやケチャップのボトルなどは何処で作られているだろうか?そうほとんどが外国から輸入してきたものである。特にこれらは中国で作られているものが多い。またコシヒカリ等も現在では種等は日本でできたものであるが、その後は中国で栽培をし、コシヒカリであると言って販売しているものもある。またグラスなどもほとんどが安価なものであるとアジア圏で作られていることが多い。精密機器では部品などを中国で作り、それらを中国人労働者に組み立てさせてから、日本に輸入する。これらはほとんどが日本企業が作った工場である。日本の賃金よりも中国やインドの賃金の方が10分の1程度で済むために、会社としてはこのような外国に頼る方が利益が出しやすいのは事実である。そしてアジア諸国は教育の普及も広まっているため、製品を開発できる技術者達が多くいるようになった。日本では精密機器などの輸出大国と言われているが、食良品やそれらの製品の原料は外国からの大量の輸入から成り立っている。テレビやメディアなどは共通の情報を流し、価値観の普遍性を促すツールであるが、製品や食品によっても同じ価値観が国を超えて普及しようとしている。日本は最初にアジアで先進国の仲間入りした国でもあるが、シンガポールやベトナム、インド、中国なども国外からの繋がりなしに国家間が成り立たなくなっている。現代社会のこれらの国々は情報革命、物品の流通によりリンクして繋がっているのである。そしてこのようにしてグローバリゼーションは私たちの身近なものの中にある。食品もまた国家間を超えて存在している。地域など、物理的な側面では簡単に移動できないものがあるが、確実に世界は製品や情報などでつながるものと、地域間の伝統やまたは建築などによって離れるものによって成り立っている。
つながるものと、はなれるもの
地域性は確かに非常に重要なものである。中国のヤオトンと呼ばれる穴倉住居などはここにしかない地域性と言える。穴倉に居住すれば気温による室内の温度変化がなくなる。この地域は穴倉を作るのに適している気候である為、彼等は昔から穴を掘ってそこを居住空間にしているのである。またこれらの住居はこの場所にしかない為に様々な地域、外国から観光客が訪れる。これもまた地域性のなせる業である。地域特有の文化はその地域を他の土地にはない魅力的な町並みにする。そして魅力的な街には多くの人々が訪れ、それらの人々の流れによって経済発展が行われる。これらが地域性の強みである。少数である、その地域に限定されているということは一方で他にはない利益を生み出すのである。または地域性を建築よって創造するという方法もある。アメリカの有名な建築家フランク・O・ゲーリーは彼の建築は湾曲した形態を建築として多用する。彼が世界的に有名になったのはグッゲンハイム・ビルバオ美術館の国際コンペ1等になったことである。彼の美術館は周りの伝統ある町並みの建築とは全く異なった湾曲したフォルムであったが、この寂れた街並みはこの圧倒的な外観を持つこの建築ができたことによって世界中からこの新しくできたグッゲンハイムのシンボルを身に多くの観光客が訪れるようになった。これによりこの建築の影響を受けて街は発展した。建築にはこのように町並みや人の流れさえもを変えてしまう力があるのである。これもまた新しくできたそこにしかない地域性によって様々な恩恵を受けたものである。ではまたこれらの地域性に大量生産や大量消費はいかようにして関わっているのであろうか?逆に言うと量産と消費の流れは地域主義に反対のものであると感じはしないだろうか?事実文化を共通のものとして国家間を超えて企業同士で競争をして大量生産や大量消費をとうして循環を促進させて経済発展させていこうというものが資本主義の流れにあるため、地域性はこれらにとって障害となる可能性があるのは当然のことである。国家間の伝統や独自の文化は繋げていかなければならない。そしてその中で、グローバリゼーションは今も加速度的に進行していることを忘れてはならない。つながるものとはなれるもの、現代社会はこれら二つに分けられている。これらの相互作用は相対するものとして扱うのではなく、相互が協力し合って発展していかなくてはならない。はなれるものとして地域性や建築、伝統文化、つながるものとして情報化や資本主義による大量生産と大量消費これらは両者ともに付加価値をつける方法があるはずである。
しかし大量生産と大量消費は人々の均質化を助長することは事実である。同じメディア、同じ情報を共有することがこれらを成り立たせるのに必要である為に、人々の均質化は進む。これらは人々を外国人であっても繋げることに役にたつのは間違いがないが均質化は一方で人間の弱体化を生み出す。人間は動物である為である。動物の生存に最も適しているのは多様であることである。アメリカが超大国たりえたのも、移民の国であったからであるという理由が間違いなくある。黒人、白人、黄色、ヒスパニック、インディアンなど様々な人種が各々の文化の価値観を保ちながら生活したことによって何処にもない先端的な価値観や強固な基盤が出来たと考えられる。様々な違いは人々の活力や強さを表す役割を果たす。現代では英語を駆使して約20億人以上の人間と話すことができるので違いを持ちながら共通の文化が入り混じる世界を形成することが可能である。
性と空間、クラブによる浪費
近年ではグローバリゼーションが進んでいるため、先進国の10代、20代の遊びや娯楽なども共通のものとなっている。夜の娯楽はナイトクラブがある。これらには20代前後の若者等が集まる場所となっている。これらの場所はアメリカ、ロシア、台湾、日本など世界共通にあるものとなっている。これらの共通の場所は若者を集めて浪費させる場所となっている。何故これらの場所に彼等は集まるのかと疑問に思っていた。これらはクラブ独特の空間性によるものであると予測できる。クラブの空間はほとんどの場合暗いことが多い。暗闇は人々を怖がらせるが、逆に大胆にさせる役割を持つ。これらの場所に彼等が集まるのは何よりも性が関係している。性は古来より生命を維持し、残していくために必要不可欠なものである。哺乳類が存在しなかった原始の時代はアメーバなどの単細胞生命は両生類であったが、より多くの生命の繁栄に効率の良い雄と雌からなるものへと変化していった。これらは最初は魚であったが、地上でも生活できるように進化していってやがてその魚類が地上にあがり、やがて哺乳類が誕生していったと現代では言われている。これらはダーウィンの進化論を基にしているダーウィンによればもともとは生命は一つの種であり、それらが環境に適応する為に進化していって様々な特性や形態をもった生物へと進化を遂げてきたものであるという。これらはもともとはアメーバやミドリムシなどの単細胞生物から始まると言われている。種は様々な種に分かれた方が生存しやすい。そして哺乳類は雄と雌に分かれながらも唯一、地球からある物質を変化させて新しい道具を作り出す能力に長けていた。これらは鳥やカモノハシなどが巣を作るときよりも更に高度な道具を人は作り出していった。そして人も元々は進化論ではひとつの生物であり元々はミドリムシ等の単細胞生物からできた生き物である。彼等は雄と雌に分かれてそれらがセックスによりつながることによって生存する。そしてナイトクラブはこれらの行動を誘因する為の事柄が多様にある。彼等はこれらの空間に性とまた酒などによる悦楽を求めて集まる。そして彼等はその行為の為にこれらの場所に集まる。そして自我を他者にアピールさせる為の方法としてもこれらの場所に集まる。これらの場所は通常にはない空間であり、これらの感覚は人を麻痺させる。そして麻薬の中毒のようにして空間に行くことによって自我を満足させている。彼等の人種は秋葉原にある人々とは大きく異なる。彼等に共通するのは自己に何がしかのセックスアピールできるものがあるという自信を少なからず持っている。またこの場所の相対的な空間として挙げたいのが秋葉原の同人誌を販売する店である。これらは同じ性を扱うものであるが、前者は物質的なつながりを求めて若者達はやってくる。後者は間接的な性を求めてやってくる。秋葉原は最初は男に限定されていたが、今では女性の為のボーイズラブと呼ばれる男同士が絡むという間接的な性の為の同人誌も販売されている。
秋葉原の空間に創造されるのが現実では起こり得ないと言われるものを疑似体験化させてできる街であるということである。これらと共通している都市として台湾にあるナナプラザである。これは疑似恋愛を楽しむ場所として有名な場所である。人々はこの街に性を求めてやってくる。ここでは実際に数千円(日本円)を払えば性的な営みが全く知り合いでない男女と絡み合うことができる。このように性的なものが絡んだ消費は多大な影響をもたらす。食欲、睡眠欲、そして性欲は人々にとって重要なものであるからである。性的な消費はウェブサイトにも反映される。ウェブの検索ヒット数で最も多いジャンルも男女の絡み等がある性的なサイトである。しかしこれらの消費は人にとって必然的な消費でもある。
夜の空間、人の距離。
人の距離による行動の変化は心理学者である。ジェームズ・ギブソンは物自身が情報を放っているというアフォーダンスというもので有名であるが、心理学の世界では対人距離というものがある。親密になればなるほど距離は短くなり、長くなればなるほど人は交流を持たなくなる。ナイトクラブという空間に見られるのは距離という概念がほとんどない。彼等は見知らぬ男女と密着し、ボディランゲージをとうして交流を交わす。ここに言葉の介入はあるが、酒飲によって理性が制限されている為、理性の制御がなくなっている。理性がなくなれば行動の統制や規制がなくなるので彼等の行動は益々エスカレートする。特に深夜は睡眠をする時間でもあるので睡魔がまたこれらの感覚を麻痺させるものとなっているのであろう。特にボディランゲージはこの空間においてはなんの違和感もなく男女間で行われるのである。
彼等は酒やつまみ、入場料でこれらの悦楽を求める。ナイトクラブは人の感覚を麻痺させるのに理にかなっている場所である。今日も夜な夜な人々はここに集まって欲望の為の消費が行われている。
間接的性の消費である秋葉原の同人誌ショップ
間接的なものとして同人誌ショップというものがある。マンガは日本できたものであるがこれらを主に一般の人々が作り上げてそれらを本にして販売するものが同人誌である。これらの本にはほとんどの場合男性が買う場合には現実ではありえない衣装を着た若い女性であったり、ガンダムなどの仮想世界にある物語をマンガの内容にして出版している。彼等に特筆すべきなのはこれらの特に性的な行為が間接的であるということである。そこに集まる人々は現実に存在しえないキャラクターに恋をする。彼等は疑似的な人間と関係を持つ。これらは間接的な性の消費である。これらによる性の消費は膨大な量に及んでいる。秋葉原にはメイド服を着た若い女性が定員をする店があるがこれらは秋葉原に集まる若者を人々を集める役割を持つ。これらもまた疑似体験を行うことによってそれらを現実のものとして扱う。意味がわかりにくいと思うが、仮想もやがては現実のものとなる。人々が思い描いた夢は不可能であったことは現実のものとなっている。人間は夢を現実のものとする可能性を持った生き物である。秋葉原という街は人の描く願望をどうにかして現実のものとしようとする若者達の作った町並みなのかもしれない。彼等にとっては一般の人が現実逃避だと見ても、全てが現実なのである。間接的な性の消費は男性にいきがちだが女性にも共通するものである。特に女性誌などは美を扱うものを特に扱っている。美を扱うのは男性がいるというのが最大の理由であろう。美を扱うことは自らの魅力をあげて、より優秀な男性と交わる為である。これは女性対してエチケットがないと言われる発現であるが、人を動物として考えるならばこれは人にとっては生存する為に絶対に必要なものである。じょせいが 美しくなろうとするのも生理的なものがあるからである。魅力ある女性には男性が集まるのである。女性誌もまた女性の願望を表すものである。ほとんどが現代において美しいとされる女性が着飾って写真に乗っている。これらもまた人間の生存の欲望を表している。
活目せよ、民衆よ!!
また政治的な面でも消費活動は行われる。ナチスドイツがプロパガンダを言うときもメディアであるテレビ、新聞、電話、街頭広告などによって大量の消費活動が行われている。これらは帝国主義であった当時のナチスドイツや大日本帝国にも言えることであった。特に戦争は様々なものを大量に消費する。特に消費されるのは軍備の拡大による武器などを製作する為の資源である。またそこには大量の人員を消費する。戦争による被害は確かに膨大な被害をもたらす。大量の量産と消費は人類の進歩をもたらす。国を挙げての膨大な消費とも言える戦争は多大な技術発展、競争による動物としての成長をうながす。多大な犠牲と共に多大な革新があるのである。パソコンのインターネットもアメリカとロシアの冷戦から生まれたものである。戦争に見られる消費は様々な革新をもたらす。そしてそれらを供給する会社は膨大な利益を得る。特に政商であった岩崎弥七は戦時下の軍備などで膨大な利益をあげ、日本で特に有名である財閥、三菱財閥の基礎を築きあげたことで有名である。戦争は非常に大きな犠牲もあるが、それらによって膨大な利益を得るものもいるのも事実である。しかし当然のこととして人権に反する行為であることは確かであるので戦争は行われるべきものではない。
宗教による情報の伝達
イエスキリスト、ムハンマド、アッラー、シヴァ、ブラフマー、マリア、ゼウス、オーディン、ヘラと様々な宗教の中に人々が信仰する神々が存在する。これらは偉大な王が死んで神格化されたものや人間にとって理解できなかった天災等を神と祀ったものがある。中国の伝記である三国志に出てくる知勇猛将の武将であった関羽なども現在では死後は神様として祭られている。彼等にとってその宗教の神は絶対であり、宗教間を巡って様々な争いが起こる。特にヨーロッパはキリスト教が古くから支配している。キリスト教はカトリックとプロテスタントに分けられるが、キリスト教は古くからイスラムの地域と対立してきた。特に宗教間の争いでも聖地を巡っての争いは深刻なものであった。キリスト教にとってエルサレムはイエス・キリストが処刑された場所であり、イスラム教徒にとっては指導者であったムハンマドが旅たった場所として知られている所である為、キリスト教とイスラム教は古くから対立してきたのである。特にイスラム教はアッラーという神を絶対神とする一神教であったため、他の文化を受け入れない所があった。その為、ワールドトレードセンターのテロリズムなどもそれらの宗教間の対立が背景にある。宗教では古来より新聞などのメディアがない時代より、情報を各地に広める手段としての意味もあった。仏教は特にアジア圏、インド、中国、日本等に広がった宗教であるが、これらの宗教の伝来と共に、日本では中国から大量の先端技術が伝来してきた経緯がある。またキリスト教なども羅針盤や地球儀などの情報を宣教師などが伝来とともにそれらの技術や文化をもたらしたのである。
宗教による伝来は各地に共通の意義をもたらすことに貢献した。これらは今とは伝達の速度が全く違うがこれらが最初のグローバリゼーションであったと言える。しかし、これらは全地域に行く事はない。何故ならその地域には元々の宗教や文化があった為に対立の経緯を踏んでいったのである。
キリスト教国側の十字軍や、イスラム側の聖戦などは各が信じている教義などの為にそれらの聖地を巡って争ってきたのである。しかし、現代のグローバリゼーションは宗教間のものではなく、パソコンをとうした道具がそれらを広めている為に、それらの衝突も少なくなり、これらのグローバリゼーションは加速度的に世界中に浸透していったのである。同じ文化や同じ価値観を持つことによって両者の戦争にまで発展するような深刻な問題は起こりにくくなる。そして情報を共有することによってコミュニケーションを取るのが非常に容易になっているのである。それではこれらの宗教が伝達していた時代には大量消費などの概念は存在していたのであろうか?
やはりこれらにも消費は関係する。ある地域からある地域へと宗教の伝来と共に新しい道具が伝えられたときに、そこには必ず生産が存在するからである。生産があれば消費があるのは事実である。しかし、ある特定の地域性を持ちながらの生産なので大量生産に行きつくのは難しい。よって大量消費もまたこれらの時代に起こることはあまりない。特に飢饉や戦争などが起きる時でなければ量産化を今ほど過剰に必要とする時代ではなかったのである。
大量生産、大量消費、情報化
このようにして様々な分野から量産や消費の流れを見てもこれらは密接に関係するものであることが分かる。これらを大量に行うという行為は同一の価値観、文化、食品、生活用品、精密機器などを地域性関係なしに広く供給する役割を持つ。これらは現在のグローバリゼーションと呼ばれる世界共通の価値観を持ち、世界が平らな世界になる現象にとってかかせないものとなる。これらの大量生産、大量消費、そして情報化がグローバリゼーションの重要な3つの要素である。これら3つの要因があって世界が共通の価値観を持つ、国境なき時代へと突入するようになったのである。グローバリゼーションなくしてこれほどまでに外国人が異国へと入ることもない。量産と消費は人々にとって情報の提供や共通の文化の共有をもたらし、物質的な豊かさをもたらす。これらは先進国である日本を見ても明らかである。しかし一方で限定された地域性や宗教によりわずかな情報しか来ることがなかった時代よりも人間の個人としての力は失われてしまったと感じる。多様性は人間にとっても生物にとっても必要なものである。量産と消費はこれら人間の力を失わせる効果を持つのも明らかである。必要なものがいつでも簡単に手に入る。何処へ行くのも安全であることによって人々は安心して世界中を廻り生活するようになったが、失われていくものも忘れてはならない。量産と消費の関係は資源を集め新たな製品を作り、それらを消費するというプロセスからなる。現代社会は不必要なものまでを過剰な生産により、消費するものとする。 これらの流通を経済至上主義の資本主義社会の中で見直すのは大変困難なことであるが見直す必要がある。過剰な供給は人の強さをなくす。これらを私たちは考えていかなくてはならない。
大量生産、大量消費、情報化は現代社会にとってかかせないものである。全ての業種にこれらは関係する。これらの欠点は均質化である。そして均質化は人間を弱体化しうる結果をもたらすのである。特に現代の日本の若者はそれらをよく表している。
4.機械時代の人間
人間は肉でできた機械である。ニコラ・テスラ(発明家)
これは電磁コイルの発明者で有名な科学者であるテスラの言った言葉である。人間は肉を付けた労働を行う機械であるといった。彼はエジソンと常に比較され、不遇な人生を送ったが、彼のこの発言は現代社会にとって現実のものとなろうとしている。
機械とは何か?
古代より機械は様々な場所で使用されてきた。ギリシャ、ローマ帝国、バビロニアからメソポタミアの時代にも歯車などを用いた描写が描かれている。人間にとって道具は他の動物に対抗するもの、身を守る為の武器でもあった。道具は狩りに使われ、取った食物を加工して食べる為のものとして周りに廻りにある石や土などを加工して鍋や皿を作り出した。これらが最初の生活用品であると考えられる。そしてこれらによってより合理的に、より効率よく生産を行う為の道具として機械という概念が生まれた。機械は特に19世紀は機械時代と言われ様々な量産、消費活動はこの機械なくしては語ることはできなかった。機械は量産を促進する為の道具なのである。現代では工場に行ってもほとんど人を使わないでコンピューティングによって機械を操作して、量産化を行っている工場がほとんどである。機械は幸せの為の宝石箱と言われたが、19世紀初期の鉄、ガラス、コンクリートを代表する国際様式と呼ばれる世界共通の様式を生み出すという建築の革命期には機械は冷たいものとしてではなく、人々に豊かさをもたらす為に使用されるべきものであると言われてきた。これらの時代には時代背景が必ずといって関係する。世界恐慌、第一次世界大戦、第二次世界大戦によって経済効率を最小限の資源でいかにして大量に生産するかという世界規模での共通の価値が浸透されてきていた。それらなくして鉄とガラス、コンクリートでできた国際様式は広まることは決してなかったはずである。産業にとって最も巨大である建築はその時代の社会性に大きく関係するものである。「建築は社会を写し出す鏡である。」と建築家として巨匠と呼ばれたミース・ファン・デル・ローエはこのような名言を残したが、社会性なくしてこの巨大な建築は成り立たないということを言いたかったのであろう。この時代にはバウハウスと呼ばれるドイツの工業大学など機械時代を世界に示す運動がヨーロッパを中心として行われていた。そこでは芸術と工業を目的とする絵画、家具、プロダクト、建築、にいたるまで生活の小さな部分からを統合して工業化の時代に適したデザインを模索する場所であった。また必ずしもこれらの機械や工業を主体とするインターナショナルスタイルと呼ばれら近代建築運動は様々な障害の中でなされてきたものであった。
より合理的により効率よく町並みを築きあげることは17世紀の市民階級のルイ王朝の打倒によって起こった革命期に遡る。古くからヨーロッパでは古き良き町並みは厳格な装飾を持った石造りの建築が最も美しいものであると言われてきた。ギリシャ時代、またはゴシック呼ばれる15世紀の大聖堂に使用されたデザインを復興させるという運動ゴシックリバイバルやグリーク・リヴァイバルと呼ばれるものが主流であった。政権などの様々な社会情勢の変化はその他の産業等に影響を与える。これらの時代にもまた芸術など様々な分野で革命運動が起きた。クロード・ニコラ・ルドゥーと呼ばれた王宮のお抱え建築家がいたが、彼はこの動乱期に現代を彷彿とさせる最初の近代建築革命を行った人物であった。この時代は装飾が建築にあるということは絶対の定義であった。今で言う建築に鉄、ガラス、コンクリート、木造を使用することと同じものであるぐらい絶対的に国家的規模の建造物や芸術には多くの装飾を付けなければならなかったのである。ここでルドゥーは装飾といった概念をほとんどなくすものを革命によって仕事が全く来なくなった際に書いた建築論に書き残した。これらは装飾をなくした建築が書かれ、また球状の建築が書かれている。彼の残した言葉は「新たな宗教を作り出すことほど困難なことはない。」である。新しい文化を作り出すことは確かに非常に困難なことである。広告の世界でも新しい文化を作る為に多大な出費を行うよりも従来ある成功した事例を使って広告を行った方が効率的であると広告界のオグルビィなどは著書に書いていた。またイスラム教を作ったムハンマドでさえも20年余りを神のお告げが来たと各地を周り言うことによって初期は頭のおかしい人間であると言われていたという話がある。普遍的にあるその地域にいる人々の価値観を変えることは非常に困難であることが分かる。ルドゥーの死後200年あまりの歳月が訪れて、装飾の概念を失くした、新しい工業技術を駆使した国際様式は20世紀に花開いた。これらの様式にはイギリスから続く産業革命が存在していた。工業を主体とする様式はバウハウスに始まる建築運動から始まったが、当時のナチスドイツは古典的な厳格な様式であったため、迫害を受けたのである。国家レベルで廃校に追いやられたため、指導者達はアメリカに亡命し、アメリカのハーバードやイリノイ等の大学を中心として国際様式が確立されていった。
それらが成し遂げられてから、100年あまりが立とうとしている今、それらの影響が各地で見られている。装飾と封建制を絶対とする時代から量産を資本主義を主体とする時代へとスペイン、イギリス、アメリカへと超大国が変わっていく中で確実に変容してきたのである。
建築は人が作るが最後は建築が人を作る。
(ウィンストン・チャーチル イギリス大統領)
第二次世界大戦時にイギリスの大統領であった名政治家ウィンストン・チャーチルの言葉は様々な名言があるがここに興味深い言葉がある。建築は人が作るが、最後は建築が人を作る。このような言葉がある。これらは建築に言える言葉だけではない。空間であれ、景観であれ、自然であれ、文化であれ、そこにいる場所によって人が形成される。その地域や文化が人を作り出すというのは自然の流れでもある。浅草などの賑やかな場所で生まれれば、祭り好きで喧嘩好きな江戸っ子のようになるし、新宿三丁目で万が一生まれたならば世の中の裏を知るいい意味でも悪い意味でも世渡りの上手になるであろうし、ニューヨーカーとして生まれればませたことを覚えるようになる。貴族階級に生まれれば貴族としての生き方が当たり前と思うようになるであろう。人間には必ず遺伝子というものがあり、それらを生まれてから変えると言う事はほぼ不可能である。しかし、人間はその場所、文化、言葉によって環境が変わることによってそれに適応する生き物であることを忘れてはならない。このようにして建築というものは人々を作る上で絶対必要なものであるし、人間が環境に適応して繁栄していくために建築が生まれたのだから建築が人を作ることは確実に起こりうる要因である。それでは現代はどうか?国際様式は世界に共通の材料と造形をとうして世界共通の価値観を生み出そうというものである。そして建築が人を作ることになると言うのであれば、世界中の建築が同じものになるというのであれば、現代の問題である。人間の均質化はこれらの国際様式から起きているものなのではないだろうか?建築は産業の世界で最も大きなものである。結果社会にもたらす要因も大きい。グローバリゼーションは情報化だけではない。建築の世界でも国際化、世界規模での価値観の共有が行われているのである。均質化の波はとどまることをしらず、情報化革命が20世紀後半に浸透することによって更なる進展が見られそうである。これらは非常に有利な所もあるが、欠点もある。それでは均質化が行われるとどんな悪い点があるのであろうか?
人間は本来は機械ではないのは当然のことである。機械そのものは人間が作った道具である。人間がこのような道具になるわけはないと誰もが考えることである。しかし、周りを見渡すと経済効率、合理主義社会の産業によって人間までもが生産ルートの一部として数えられている。まさに人間が機械となる社会である。赤ん坊の頃からキチンとレールとしての仕組みが確立されている。初期は教育のレールに私たちは乗ることになる。まず幼少期には幼稚園や保育園という3歳から5歳児までをこれらの場所で過ごす。ここでは大人になってからの集団生活の最初の段階である保育士を先生と置く集団生活がある。日本ではひらがなやカタカナと言った初歩的なこと、集団生活の基本を教える場所となっている。そして卒業すると義務教育と言われる。小学校と中学校での生活を始める。ここでは社会に出るにあたっての簡単な英語や文学、数学、社会、理科などの教育が行われる。ここで行われるのも団体での協調性といったものである。これらの教育に言えるのは合理的に教育によって生産性のある人々を育てることによって国家の力を強くするという目的がある為、政府もまたより合理的により効率よく教育のシステムを制度化し、規則などで最初のレールを作っていくのである。
この教育によって私たちは固定的な何が良くて、何がいけないのかといった普遍的な価値観を学ぶのである。これらを別に悪く言うつもりはないが、教育のレールによって最初の均質化が訪れる。均質化は教育の段階で訪れる。前に言ったように生産をするにあたって違うということは非常に効率が悪くなることがある。それは宗教や文化の違いなどによってお互いのやり方が異なる為である。これらは互いに争いを生み、時には戦争にもなりかねない事態を引き起こす。人々にとって普遍的な価値観の共有は互いに協力をしていく上で必要なものである。だからこそ義務教育という一本のレールを敷くことは資本主義社会にとって経済効率を高める最も適している方法なのである。幼少期からひらがなやカタカナ等の言語の基礎を教えるのも初期の価値観の共有であると言える。これらによって幼いころから資本主義社会に適応していく為の基礎を学ばせるのである。教育は資本主義社会にとって特に重要なものである。特に欧米は学歴社会が浸透しているのでハーバード、コロンビア、プリンストン、オックスフォード、スタンフォードなどの米英の名門大学に子供を入らせようと親は必死になる。何故なら大学によって確実に就業の階層性が存在するからである。これらは日本でも存在する観念である。旧財閥系の大企業は東大、早稲田、慶応しかとらない企業すらも存在する。これらは教育システムが作った階層性であると言っても良い。アメリカの企業は日本以上に学歴がその人の成功を裏付ける要素になっている。何故なら特に卒業することが非常に厳しいからである。一週間で本を10冊読むことなど日常茶飯事で毎日図書館に付きっきりの生活になってしまうことがある。しかしこれらの学歴主義は本当に能力に反映するのかと言うと疑問点が出てくる。ではエジソンは何かと言いたくなるし、スティーブ・ジョブス、坂本竜馬もまた義務教育などで優秀であったわけではない。彼等は確実にこれらのレールでは枠外者、落ちこぼれであったのである。
レールの形成、人間の機械化
私たちの日常には人々を見ても必ず何かしらの系列に分けられる。これらは様々な階層によって構成されている。大体が自分と似たような人間といようとする。これらは人間にとって自分と同じ人種といた方が楽であるし、価値観を共有することによって様々なことが円滑に進むからである。人間は本来は安定や調和を求めるのは動物の本能として当然のことである。安全に生活できるのであれば人間はそれに安住しようとする生き物である。人間が初めは狩猟をすることによって生活をしていたが、定住することによって生活のリスクを減らしたのである。ここに農耕民族として集団で生活することが生まれた。古くから現代のような定住して生産を行う行為は確立されていたのである。
製品ラインと人のライン
人々の生産ラインは現在にとって確実にできているものである。教育による最初のレールに人々は敷かれ、普遍的な価値観を植え付けられる。大学においても社会人になる為の最初の関門として就職活動がある。就職することはその人の学習を社会に還元することを示すものである。しかしこれらにもこの時期に就職しなくてはならないと言ったような定説も存在する。ほとんどの学生がさきほど言ったように義務教育やそのあとの高等教育によって普遍的、共通的な情報を持っている。そして大学でも同じことが行われる。そこで就職活動は最初の社会と若者を繋ぐものとなっている。
教育のラインと製品ライン
そこでこれらの教育ラインと生産ライン比較してみる。製品のラインは機械によって大量生産を可能にした。これらは自動車王であるヘンリー・フォードが組み立て式の対象生産システムを確立するなどして自動車だけでなく様々な産業が機械によって大量生産されていった。これらが確立されたのが18世紀から19世紀の初期である。
量産によって人々は同じものを持ち、大量の資源を得たのは言うまでもない。これらを人々の基礎を作る、教育のラインにあてはめてみると同じことが言えないであろうか?製品のラインは同じものを大量生産することによって大量の消費を促すものである。であるならば教育によって機械と同じ共通の特徴を持った人々が大量生産されているのではないだろうか?量産化が始まると同時にそれらは最初、食品や生活用品から始まったものが人にまでも侵食してきているのである。それではある事例を見せる。
これらは人間の量産化、消費に加わる情報によってできた新しい概念である。これらによって新しく人間の量産化が行われている。
秋葉原の人々
秋葉原に行く人々のイメージは日本の漫画でもよくあるが典型的なのはメガネを付けて紙袋を持ち、太って汗をかいているものが描かれている。彼等はオタクと呼ばれるある漫画やアニメなどにおいて様々な情報を持ち、それらを彼等は共有しながら、同人誌ショップやコミックマーケットに出没する。彼等の共通するものはアニメやフィギュア、漫画などの仮想空間のキャラクターなどに関するものである。ある秋葉原のアニメなどのカードの販売店に行くとそこに集まる人々はある特定の共通するものを確実に持っている。これが場所にある階層性である。秋葉原という街はある特定の情報を共有することによって人々が交流している。現代においてこのような階層性が出現するのはある特定の情報によって人々が集まる。これらは先進国においてたいていの場合はウェブの検索エンジンから始まる。検索エンジンでその個人の好きなものを検索し、そしてそれらの情報を集める。そしてある一定の知識を得て、そのあとにそれらの情報源となる場所に行く。これらは全ての人々にあてはまるものである。彼等は特定の情報を集めることによって行動を起こすのである。オタク、不良、老人、子供、サラリーマンなど様々な種類の人々でも情報がなければ行動を起こすことはない。 しかしこれらの階層は貴族階級などの封建的なものに代わる、現代の階層性と言えることである。
また、現代の若者が他にも集まる場所がある。それらはナイトクラブである。これらの場所にも特定の情報をもって交流している。これらも基本的には秋葉原の若者と風貌は異なっても、特定の情報を集めて行動を起こすことはどんなに違っていたとしても変わることはほとんどない。検索エンジンは限りなく人々と身近なものになっている。そして地域には様々な情報がある。浅草、ナナプラザ、ラスベガスであってもその地域で文化や人種が違うのも確かなことである。しかしこれらには新しく情報検索という概念が加えられようとしている。秋葉原という街はその場所にあるオタク、先端機器、アニメなどの場所はこれらの前提として検索という概念が加えられている。これらによって人々は個人の趣味や好きなものから、新しい階層を作り出しているのである。
趣味趣向が同じ人間が量産化される世界では人もまた特定の特徴を持った人が大量に生産されている。これらは経済効率を促進させる上で重要なものである。では人々が機械のように大量生産されるということによって得られるものと失われるものは何か?価値観の共有とコミュニケーションは容易に図れるものになる。人間は自分と同人種の人間には安心を求めるからである。機械になることによって生まれるのは機械は感情を持たない。笑うことも、怒ることも、泣くことも、失敗することもない。そして温度を持たない冷たいものになる。人々の同じ価値観を持った経済効率を上げるための教育や社会社会制度では人間の感情的な生きている証といったものが失われていくのである。
製品ラインに乗る人々
検索エンジンによって趣味趣向による新しい階層性が存在するようになった。これらは情報化時代の新しい文化である。社会にとってもこの新しい階層の定義によって私たちは分類することができる。検索エンジンでも様々な情報のカテゴリを分ける分類作業がネット上で行われているが、それらの影響もまた確実に社会に浸透してきている。人々はカテゴリ化された製品ラインの上に乗って同じ人間が大量に生産される社会、それが現代社会に本当になりつつある。発明家であるニコラ・テスラの言う人間が肉でできた機械に本当になりつつある。製品は大量にあった方がいいが、人間は大量に生産されるべきではない。人間にとって必要なものはもっと違う何かがあるはずだと切実に感じている。量産、消費、情報の流れは確実に人間の生産ラインまでもを生み出している。人間が大量生産され、大量消費される社会。本当に私たちはこれで良いのだろうかと考えなくてはならない。
製品ラインは確実にグローバリゼーション化している。私たちにとって一つの場所しか知らない、多種多様な人々を知ることのないまま量産され、消費されていくのは人生を生きる上でもいいことなのだろうか?社会が作った常識、制度はあたえられたことしか知らないということである。そして情報と実際の体験は非常に異なる。歴史などはメディア等が作るものであるから、経済によりあったものへと改編されていることが多い。人間という存在が機械になるということは確実に現実の世界で起きていることである。事実身の回りで周りと同じことをしなければ生きていけない人々が目につく。しかしそれは人もまた量産化されていって社会の与えられた仕組みの中で生活しているということを理解しなくてはならない。
人間という歯車
よくサラリーマンは企業社会の歯車であるという言葉が使われている。もちろんのこと機械にとって歯車は重要である。しかし一方でそれらは取り替えることがいくらでもできるのである。大量生産、大量消費の波は確実に人々を取りかえることが容易にできるような均質化した社会を生み出した。これらによって確かに多くの利点もあるが、現代社会は人間機械論などが論じられていたりするが、本当に人が取り換えのきく歯車となり、ただ言われたとおりに作業を行うだけの冷たいものとなりかねない。歯車は替えがきく。これは当然である。経済は歯車を効率よく廻すことで資本主義は成り立っている。しかしそれは人間にとって本当に良いことなのだろうか。
レールの内にあるもの
資本主義社会は経済をいかにして効率よく廻すかということが鉄則となっている。産業を効率より合理的に大量に生産する為には機械だけではなくやはり人が必要である。そして経済効率をあげる人を生み出す為には教育ラインを生み出す必要がある。よって人間は機械や生活用品を生み出す産業のレールと全く同じ構造を持った仕組みの中で育てられることになる。よって生産性をあげようとすればするほど人を効率よく生産しなくてはならない。よって人間が機械となっていくのである。そして人間は感情を持つが、それらの社会構造に疑問を思わないように教育する。与えられたものをより良くこなしていくことが人生にとって最も意味のあることだと理解するようになり、よって感情の欠落が始まる。これが人間が機械になるという現象である。これらは日本だけではなく、世界で起こっていることである。資本主義が確立され、経済が発展すればするほどより効率がいい方が良いと政府も企業も合理的に物事を行おうとする。しかし、それらの効率化を行えば行うほど、豊になればなるほど感情の欠落が始まる。これが資本主義社会の欠点である。日本はとかく経済効率を考えて政府も企業も合理化を推し進めてきた。それは人間の機械化を推し進めてきたことにもなる。機械は冷めたスープのようなもの。人としての暖かさも何もない。作業を坦々とこなすだけのものである。もし資本主義がこのようにして世界中を覆い尽くしていくのだとすれば世界全体の人々の感情の欠落が始まっていくことであろう。経済効率を推し進める前に対策を練らなくてはならない。機械はもちろんの事いくらでも代替えがきくものである。そしてやがてさびて使いものにならなくなる。これらを現在の雇用制度、若者の生き方にあてはめてみると確実にそれらに当てはまることではないだろうか?さびれば変えると言う事は老いれば変えるということに等しい。派遣等を簡単にやめさせるということは部品を変えていることに等しい。これらは日本国という先進国で身近に起こっていることである。
恋人、友人の大量生産、大量消費
これらを恋人や友人にあてはめてみる。基本的に人々は産業構造の中の与えられた階層の中で寄り集まって友達や恋人も作っている。自分と同じ人間といた方が快適であるし、同じ境遇にある人であれば価値観の共有も行いやすい。教育の敷く階層性、企業の敷く階層性、そして検索エンジンの敷く趣味趣向による階層性などがここに大きく分けられる社会の階層である。これらは現代社会にとって最早世界共通の価値観であると言える。この大きく3つに分けることのできる階層性の中で人々は友人や恋人までもを消費する、生産する行為として捉えられている。先進国の全ての基礎が大量生産、大量消費であるから、人間が機械であるとするならば当然のことである。
6.装飾と服飾を纏うもの
人々には確実にある特定のレールがあり、彼等はそれに従い、そこにある情報をたよりにして趣味趣向に従い行動をする。特にそれらが表わされるのが服やそれに付ける装飾にある。人々は服や装飾を身にまとうことによって日常生活を行っている。そしてこれらもまた世界規模で共通の概念がグローバリゼーションによってもたらされている。インド、シンガポール、中国、アメリカ、日本、台湾、フランス、イギリスにいたるまで祭りや行事の時以外はその地域の工芸品や服装を着ることなく、ジーンズやジーパン、スカート、パンツ、Tシャツといったものを世界共通の概念として人々は着こなしている。これらもまた世界の均質化を表すものである。特に男女の好みや美しい、ダンディ等とされる場合もまたミスユニバースやミスワールドなどの国際的な美女を決める大会などでも背が高く、胸が大きく、そして顔が整っているなどアメリカやプレイボーイ誌やフランスのパリコレクションのモデルを基本に置いた気世界共通の美しさの定義が厚生されている。日本の奈良時代などは女性の美しいとされるものはふくよかで、眼が細いことなどがある。そして地域によってこれらの美しさの概念は全く違っていた。特にアフリカ民族の中には首の線の数で美しさを決めるという民族もいるが地域性が現代において乖離してきたことによって美しさもまた世界規模で均質化をたどっている。
流行の世界化、ファッションの聖地
ファッションの聖地はパリである。パリは服飾界にとって世界的なデザイナーが集まり、彼等はそれらの腕を見せるようにコレクションを開く。コレクションは自らデザインし、モデルにその服を着させて世界にアピールしようとするものであるが、ここから最先端の服飾デザインが出てくるのは言うまでもない。初期はニューヨークを中心として流行が世界中に広がるようになったがもはや現代は自動車は日本、半導体は韓国、雇用は中国やインドなどその古くは地域間で補っていたものを世界規模で構成されるようになってきている。流行などがその国だけではなく、世界に多角化して存在しているのである。現代では特にイタリアやフランスが服飾やブランド品の発信地となっている。アルマーニ等はハリウッドのテレビ試写会やパーティ等でセレブが身に纏う必需品となっている。アルマーニはジョルジュ・アルマーニというイタリア人が作ったブランドである。彼のデザインはモダンデザインの中に華麗さや繊細さが存在する服飾となっている。彼のデザインは黒を基調とする。黒は人を落ち着かせ、知的に見える効力を持つ。彼のエレガントなデザインはモード界の帝王として世界的な富豪などに愛されている。アルマーニ、ヴェルサーチ、ルイ・ヴィトン、グッチなどはイタリアとフランスで始まったものである。これらは先進国の人々が好んで自分をアピールする為のものともなる。本当に美しいものは世界に広がっていくのである。クジャクが繁殖期に子孫を残す為に行うのが雄が羽を広げて美しさを雌に競わせる行為である。服飾は時にセックスアピールとしても使われる。そして装飾もまた同じことが言える。
装飾の起源、身に纏う装飾
哲学で使われるものごとにはかならず理由があるという目的論に従って言うと装飾は何がしかの意味を持つはずである。装飾と言う概念は人々がほら穴に暮らしていたころからあった。古くはほら穴に壁画や町の生活の様子などを書いていた。彼等はこれらの刻むという行為を記録の為に、または権力の象徴、自己の象徴として身に纏っていたのである。確かに装飾的な概念を人になくせば職人の労力も減るし、経済だけで考えれば人にとって不必要なものである。しかし装飾は使われていた。これらは歴史学的に見ても事実であるし、現代において装飾が極力なくなったのは時代背景と言うほかない。装飾というものはセックスアピールなど様々な意味を持つのである。特にエジプトの時代から化粧という女性を美しく見せる為の行為が行われていたがこれらも身に纏う装飾の一部である。装飾を纏うことによって更にその人、空間を際立たせるのである。身に纏うものとしてネックレス、リング、イヤリングなどがある。イヤリングやネックレスはそれらを他人にアピールするために使用するものである。これらは古代の装飾を身につけることから続いているものである。
人々はなぜ服を着るのか?
服を着るのは当然のことである。外を素っ裸で歩いていたら確実に捕まってしまうことは言うまでもない。では何故人々は服を着るのかといったら、現代において人間は毛が他の陸の動物と違ってほとんどないといっていい。これらは人間が外部の環境に適応していくために必要であったからだと言われている。では何故ネクタイをつけるのか、ネクタイは仕事をする時はスーツを着て、ネクタイをするという共通の概念がある為使用される。よってサラリーマンはネクタイとスーツという概念が生まれる。しかしネックレスをみにつけるのに意味はあるか?これらは均質化された社会の中で個を確立しようとする行為である。均質化された社会では人々は人と違うことを望みながらイヤリングやリング、ネックレスをすることによって他人と違うことを願うのである。しかし、社会や雑誌などで移った共通の服飾の流行を真似することによって個は保ちたいと願いながらも共通の輪の中に入って安心してしまう。周りの情報が共通する情報しか得ることが困難な為に、人と違う服装やファッションをしたとしても、10人ではなく100人の単位で考えると何処にでも自分と似たような服を着た人間が存在する。これが服飾の均質化である。何処に行っても、どの国に行っても、セレブはアルマーニを着て、若者はジーンズやスカートをはく。その中で個性を競ったとしても結局は自分と同じ服を着ている人間が100人集まれば1人はいるのである。服は世界規模での均質化の表れでもある。仕事をするのにスーツを着るのはこの均質化が世界中で浸透しているからである。
そして装飾もまた20世紀初頭にはヨーロッパで広がった様式があった。それをアールヌーヴォーという。フランス語でアールヌーヴォーは新芸術という意味であるがこれらの装飾の概念もまた一時期ヨーロッパ覆い尽くした様式である。ベルギーなどではぺリングスタイルでうなぎ様式、ドイツではユーゲントシュティルで若い様式と呼ばれた。これらはアントニオ・ガウディの建築を見れば容易に分かるものであると思う。曲がりくねっていて、植物などの造形を鉄を使用してそれと同じ形態に加工するものである。これらの装飾もまた20世紀の新しい様式として全盛を担った。またこれに繋がる様式としてアール・デコがある。これもまたフランスで生まれたものである。20世紀初頭のフランスは流行の発信であった。アールデコはアールヌーヴォーよりもより工業に近づいた様式であると言える。これらは時代背景を表している。必ず時代の転換期にはこれらの様式もまた生まれる。
流行の流れは創造、隆盛、衰退、そして復興である。
この流れを繰り返してはまた新たな様式が生まれる。しかし、物質には限界がある為に、それほど景観が根本から変わることはない。モダニズム建築革命やインターナショナルスタイルと呼ばれるものは完全に独立した様式ではなく、必ず何かの要因が繋ぎ合わさって創造されるものである。古くは日本の木造建築などはモダニズムの柱と梁の構成が同じであるし、特に現代様式はパルテノン神殿などの古代の建築を参照して作られている。時代の創造には歴史が存在する。
また、衣服には伝統的な衣装が存在する。
韓国の民族衣装のチマ・チョゴリと呼ばれる衣装、またはリオのカーニバルで使用される女性の服装などはその地域で行われる行事の為の衣装である。日本では和服や刀などが日本独特のものである。これらは世界共通のジーパンなどとは異なるものである。その地域に独特の文化や伝統があればそこには衣服にもそれらの特徴が存在する。世界が均質化する中での地域性ある。これらはじょじょに世界規模で失われつつある。
他人と異なる文化を持つことはこれからの社会には非常に重要なことである。均質化の中での多様性を考えていかなければ本当に全ての産業や人間が機械的、敬税効率を優先することだけに捕らわれてしまうことになる。服飾や装飾にも世界規模での価値観の共有している。
何故装飾や服飾を付けるのかということは一言ではいいがたいものがある。権力やセックスアピールの為につけるのであろうか?それだけではないはずである。それらを心理学や医学の領域から探ってみたい。人間が生み出す造形は古くは直線や直角と言ったものは存在しなかった。自然界を見渡しても直線や直角は存在してはいない。これら自然界の造形を作りかえることによってより合理的な直線や直角を人は生み出したのである。装飾に見られる造形は直線や直角というよりもむしろ造形には円や楕円が使われる。これらはヨーロッパの大聖堂のバラ窓にも見られるものである。これらで使用されるのは湾曲した形であり、造形を描くことはない。また人々は宗教的な絵画を描くときには必ず円を描く。これらには人間にとってこれらによって補えるものがあるのである。ユング心理学の曼陀羅という概念では人が心を描くときは必ず円や楕円を描くと言う特徴があるという。ユングは50人の心理的病気にかかっている被験者や健康者を使って何も知らせることなく、絵画を書くように言うと、彼等はみな円や楕円または卵のような形を共通して描いた。絵画は人々の心理の表れでもあるから彼等がこうようなものを描くのは人が深層心理の中でそれらの形体を求めているからである。このようにして植物などの湾曲した形をモチーフにした装飾を加えるのは医学的な根拠があるからである。事実、曼陀羅は心理療法でも用いられるものである。
装飾は20世紀の近代建築にとって不必要なものであると言われてきたが、人間にとってもこのような医学的根拠があるから古くから存在していたのである。だからこそこれらの装飾を完全に経済主義の為と言って失くしてしまうのは矛盾するのではないかと思わないだろうか?植物のような造形を持った装飾を身に纏ったり、身に付けたりすることは意味のあることなのである。
人々は権力や他人と違うことをアピールする為にこのように装飾をまとうのではなくて、心理的にも効力を持つからこそ装飾を身に纏うのである。装飾には権威、権力、心理的な効力をもたらすのである。装飾や服飾をまとうものは自らを誇示することも、魅せることも、安堵をもたらすこともある。
民族を感じさせる衣装、地域独特の装飾を付けることや着ることによっても少しは均質化を打開する為の手段になりえるのかもしれないが、それらの服などが人と違うことだけでは均質化を解決することは難しい。しかし均質化を打開していく方法は人と違うことにある。
7.移民、少数、革新
移民や少数の人々は集団においては非常に弱い人種である。しかし、彼等から世界を変えてしまうような革新が起こることが多い。移民は特に世界都市において複雑に流動化しながら存在している。初めに知ることができるのがニューヨークという都市群である。ニューヨークは移民の人口が都市の10分の3割を占める都市である。ニューヨークは多種多様な人種が入り混じる人種のるつぼと化している。都市は碁盤の目のような都市形態となっている。ニューヨーク証券取引場のある世界金融の中心であるウォール街もまたここに位置している。ニューヨークの基本的な計画は当時のアメリカ建築家界の権威であったダニエル・バーナムと彼の後任のトーマス・アダムスというイギリスの都市計画家が発案したものである。ニューヨークという町並みはアメリカ人もさることながら、中国系、ヒスパニック、プエルトリカンなど様々な人種が各々の価値観を分かち合いながら共存している。彼等は共通する価値観を持ちながらも多様性を持っていた。これらがニューヨークを世界の首都と言わしめた理由である。
特にニューヨークは20世紀をとうして世界の首都であった。特にマンハッタンの都市計画などは様々な建築家が興味を持って研究している地域である。都市計画や調和など、人々は景観に対してある美意識を持つが、急速に進む、経済、社会、政治などによりそれらの理想が追い付かなくなり、人々の欲望、経済効率や各々の個人の求めるものなどによってできる都市になっていく。これがオランダの建築家であるレム・コールハ―スの言うマンハッタニズムである。マッハニズムという概念はニューヨークだけに言えることではない。これらはシンガポールや東京、香港、ベトナム、ムンバイなどの都市にも言えることである。世界的に共通の価値観を持つことによって都市形態までもが同じ形態となる。基本的に資本主義社会によって先進国の都市形態は非常に要素や形態が非常に似た構成となっている。
ワシントンの輝きと衰退
アメリカは世界経済の中枢である。アメリカ、世界の中心であり、超大国である。21世紀を迎えようとしている今もアメリカは世界の頂点に立つ国であることには変わりはないが世界情勢は加速度的に変化している。アメリカは世界一の軍事国家でもある。特に軍備に力を入れているのは言うまでもないが、日本は日本国憲法では軍備を一切もたないと言っておきながら軍事予算にかける予算は世界第3位の国なのである。
ワシントンDCはアメリカの首都である。経済的な価値ではニューヨークに劣るが政治的に見れば世界銀行やホワイトハウス、ペンタゴンなどの国家の重要機関が集まっている場所である。この都市はフランスの軍人であったピエール・シャルル・ランファンという都市計画家が計画したものである。人民の人民による人民の為の政治と言われたアメリカであるが、実際の背景は巨大な軍事力や資本を武器にして対外交渉を行う国家ともなっている。しかしまた21世紀に入ってウォール街の崩壊によって世論はアメリカよりも中国の時代だと言って賑わせている。しかしまた中国もまたまだまだ経済に関しては発展途上の国であると言える。彼等の国内総生産はあくまでも人口が13億人いるからであって個人がその資産を持っているわけではない。地方は未だに経済は発展途上である。北京オリンピックの開会式などによって中国は次代を担う存在になるとアピールできたことは確かだが、まだまだ発展途上にある。しかし2050年になる頃にはゴールドマンサックスの統計によると中国はアメリカを超す大国になるとある。これらの世界情勢をグローバリゼーションで知るということは非常に重要なことである。世論に流されては物事の本質は見えない。本当に見るべきなのは本質であり、20年後を読む先見性である。みなが中国だと言う事によって中国に移民する人間が今後は増えることになるが、外国人の移民が増えれば雇用等を巡って過度な争いがあるのは必至である。キリスト教の聖書であるマタイの書物にこのような記述がある。
「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道に入るもの多し」
人々が時流になってもてはやされているものには必ず人々が集まる。そしてその広き門に入れば過度の競争が起きる。本当に活路を見いだせる場所は狭き場所であるという言葉である。これは難しい、困難であるなと思う場所に思い切って飛び込んでみるということである。これらの道は入るのは難しいが入ってしまえばそこに他人にはない活路が見出せるということである。これらは均質化を打開する糸口になる。人々が時流に乗り、そこに乗り込むのではなくて各々の道を勇気を持ってリスクを背負いながら歩いて行くことがそれらを打開する方法なのではないだろうか?
アメリカは確かに世界を動かしてきたがアラブ、ロシア、中国、ブラジル等の台頭によって世界情勢は確実に変わるはずである。近くにユーロのような国家連合体がアジアにもできることが予測できるがその中で日本は中国、台湾、シンガポール、韓国の中でどのようにして国家間を交渉していくかが重要になってくる。大東亜計画は日本が第一次世界大戦時に大韓民国や中国、シンガポールやフィリピンを戦争により支配していた頃に提唱されていたものであるが、これからは国家間が戦争によりどちらか一方が植民地化するのではなく、国家間が協力しあう共同体がこれからできていくはずである。特にロシア、ブラジル、中国などはBRICSと呼ばれる経済共同体を敷いている。これらには世界の投資銀行などは注目していて、これらの諸国に専攻投資しようとする動きが実際に起きている。世界が多角化する動きはこれから拡大していくと見られる。建築では特に中東のアラブでは石油によって得た資金によって大規模な開発が行われている。これらの施工会社はアメリカのゼネコンであるベクテル社や大成建設、韓国、フランスの建設会社などをつかって建設を行っている。これらの建築を設計するのは世界各国の有名な建築家または大規模な組織設計事務所である。多種多様な人種が入り混じり、国家的な優れた建造物を作る。これらの新しい多様性のある場所にアラブはなっている。人々が均質化することなく人種が入り混じる場所はそこの経済活動もまた勢いがあり活気に満ちている。ワシントンやニューヨーク変わる都市は現実に世界規模でできつつあるのである。
アメリカ、イギリスの留学生から。
アメリカ、イギリスは世界的でも屈指の教育を行う場所となっている。アメリカの教育もまたある程度の教育制度が確立され、教育のレールと言ったものが形成されているが、アメリカやイギリスの大学院は特に卒業することが大変難しい。実際にハーバード大学院デザインスクールの博士課程に所属する方にインタビューを行ったところ、やはり非常に大学内の学業は大変であると言うことを語っていた。彼女は日本人であるが日本と違いハーバードなどの大学は世界中から留学生が集まって来るためことを聞いた。特にハーバード、エール、オックスフォード、ケンブリッジの英米を代表するこの4校は様々な国々から留学生が集まる場所である。これらにはインド、中国からの留学生が多い。彼等は異国の先端技術や文化を学びにやってくるのである。もちろんのことグローバル化の中で複数の学歴を持つ人間は特定の地域から出ないで学業を学んでいる人々より視野が広い。特に研究室にいるチリ、スペイン、ドイツから来た留学生の話を聞くと日本にいては考えられない情報を知ることができる。同じ場所に定住している人間の話を聞くよりも多様な経歴の持ち主は勉強になるものである。
アメリカの大学教育は日本の大学教育と違って入るのは容易であるが、出るのは非常に難しい。これらは一般的に知られていることであるが、これらはどうやら本当のことであるらしい。聞くところによるとハーバード大学で博士号を取るのは通常は大学院から始まり7年から10年は容易にかかるところであるということに驚愕した。日本の大学で博士号を取るには大学院から約5年真面目に学業に励めば取れることと比較すると非常に厳しいものである。日本は大学の課程が大学、大学院、博士課程と進めば進むほど自由な時間が確保できるのに対して、アメリカの大学は進めば進むほど大変になり単位を取ることですら大変であるという。ここが日本とアメリカの教育システムの差であろうと思う。アメリカの就職では成績が特に重要視される為、学生は必至になって学業に励むという。しかし日本は入れば何とかなりうる場所と言われているが本当にある程度勉学に励めば何とかなってしまう場所である。決められた教育制度の中で入るよりも勉学が楽であるというシステムはより人間の弱体化を生み出す原因となる。日本は特に世界競争力が10年前の2位から22位まで落ち込んでいるがこれらは他の国と比べても教育に始まる容易さが表れているのではないか?今必要なのはグローバリゼーションに適応する為にも英語教育に力を入れ、そして学校を出るのを厳しくすることにある。特に日本は横並び社会である。これらは日本が狩りというよりも飛鳥時代から続く農耕型民族が多数を占めるからに他ならない。坂本竜馬はそれらに懸念して江戸時代の封建的な鎖国を閉鎖し、海外の様々な人間と付き合っていく日本を目指した。しかし世界でも三流と評価される日本の政治システムはゆとり教育だのなんだのを提唱して若者達を更に豊かさの中に埋没させていった。そして経済至上主義により効率的な生産ライン、教育ラインが出来ていくことによって、人間が機械となってしまったのである。私たちに必要なのは経済主義を考えた上でそれらを超えた人々が活気に満ちる国づくりが必要である。
ロンドンやボストンに来る留学生は学業を見慣れない文化の中に行っても最先端の学問を学ぼうとしているので目的を持って来ている学生が多い。覚悟や目的があれば個は妥協することなくそれを解決するしか道がないから非常に困難であったとしても乗り越えてしまう。自分の国ではなく他国で学ぶことは非常に重要である。
ボクシングやサッカー等のスポーツでも同じことが起きている。日本であってもオランダの監督が指揮をして、ブラジルの外国人選手が得点をする。これらは国を超えてよりその地域に有利な選手が生き残り、国を隔てることなく多様な環境の中で能力を発揮する。サッカーはヨーロッパに世界中の有望な選手が集まる。サッカーは各国で一年をとうして試合が行われる。特にドイツのブンデスリーガ、スペインのリーガエスパニョーラ、イギリスのプレミアリーグ等である。これらのリーグにはブラジルやアルゼンチン等の国、またはアフリカのナイジェリア、カメルーン等から多くの人々が集まってくる。イギリスのプレミアリーグなどは完全なグローバリゼーションを感じることのできる場所である。アフリカ、イギリス、アルゼンチン、ブラジル、韓国、ポルトガル、スペイン等の外国人が国境を超えて活躍している。彼等こそ国籍を意識することなく、活躍すればそれに見合った報酬を得ることができる。
これらはサッカーの話だけではない。ボクシングでも同じことが言える。日本ではボクシング人気を集める為に海外から有望な選手を招き入れて、日本でトレーニングし、世界を舞台にして試合をする。日本、タイ、フィリピン、韓国、そしてメキシコやアメリカのラスベガスやニューヨークで試合を行う。日本に来る選手はニカラグアやプエルトリコ等からやってくる。彼等が日本に来るのは給与の面や整備が優れている為である。そして日本のトレーナーを持ち、メキシコ籍でラスベガスを本拠地にして試合をするマルコ・アントニオ・バレラ等もグローバリゼーションの恩恵によって多様なバックグラウンドを持った選手である。彼は勿論のことフェザー級を代表する世界チャンピオンになった。フィリピンでボクサーになった選手ではマニ―・パッキャオという選手がいるが、彼もまた東洋人でありながらアメリカのトレーナーが付き、ラスベガスを主戦場にして闘っている。彼は世界一になりアジアの英雄になった選手である。
このようにして多種多様な人種が集まる場所は一言で言うと強さを表すものとなる。
これら多種多様な文化を知ることは非常に21世紀には重要な要素である。
多様な文化を受け入れることは他者を受け入れる意味でも有利である。多様性なくして革新はない。アメリカやイギリスに留学する人々が世界を変えてしまうようなものを多く生み出すのは、多くの文化を受容し、多くの価値あるものを吸収しているからである。
アジアの龍、香港
香港はアジアでも有数の世界都市である。アジアで最初に発展したのが東京である。東京は戦後にかけてアメリカのベトナム戦争や精密機器の輸出により高度経済成長期に入り、欧米の世界都市の仲間入りを果たした場所であった。しかし、香港はそれらに変わるアジア圏と世界を繋ぐ世界都市となっている。特に香港はイギリスアヘン戦争などによってイギリス文化が多く流入してきた。香港はその中心地であった為、多くの被害を受けたが、港にはイギリス風の建築が並んでいる場所もある。文化が発達する上で重要なのが教育であるが、特に香港大学は英語を公用語として授業を行っているため、世界共通の言語を用いていること、特に香港はイギリスと交流がある為に世界の学会でも発表を行いやすいという利点もあるため世界的な評価もアジアを代表する大学である東京大学と並ぶほどの評価を得ている。海外のアメリカやイギリスに代わり発展していく都市には必ず、イギリスやアメリカと密接に繋がっていることが多い。香港は事実上イギリスの植民地とも言えるような街であった。アヘン戦争ではイギリスが国内の銀の不足を補うために自国のアヘンを取引に使い、特に貿易の中心地であった香港ではアヘンの一般市民への流用が大問題になり、イギリス、中国間で争いが起こり、アヘン戦争になっていった。中国は当時はまだ発展途上国にあったから先進国であるイギリスの軍事力には勝てずに香港は事実上は植民地として支配されていた。世界都市としての評価はロンドン、東京、ニューヨークなどが世界でも有数の都市として知られているが、香港はインド、シンガポール、ベトナム、タイワンなどを繋ぐ都市として非常に重要な場所である。世界都市の経緯は特に香港やインドのムンバイなどの場所の高度成長によって移民や世界情勢の流動などによって世界の縮図は変わりつつある。香港はアジア圏のニューヨークとも言える場所である。ここにはアジア以外にもイギリス、アメリカ系の外資系企業や日本企業なども進出している。中国の雇用費用は自国に比べても10分の1程度で済むからである。これらの企業は中国やインドで製品を作り、自国へ持ち帰って販売する。特に香港は世界への貿易都市としても重要な場所である。移民の流動もまたメディアの報道によって中国へと集まりつつあるのが現状である。
特に外資系企業はアジア圏もさることながらBRICSと呼ばれる経済共同体に加盟しているロシアやブラジルへの進出も顕著である。彼等は文化や国家の距離等が離れている国家間同士でも互いを尊重しあいながら協力体制を取っている。
ロシア(旧ソ連)はアメリカと並ぶ大国であった。両国間の冷戦は非常に緊張したものであった。特に宇宙開発等の技術開発の争いは非常に熾烈であった。ゴルバチョフ政権の時代からソ連崩壊後のエリツィン、プーチン、メドヴェージェフと続く政権であるが、ソ連時代は軍事力を背景にして圧倒的な力を誇っていた国である。ソ連はスターリンやレーニン等がロシアが帝国主義であった頃に革命を起こし、社会主義国家を築き上げた。特にアメリカとソ連は2大超大国と呼ばれていたがソ連が崩壊し、エリツィンのロシア共和党へ移行する際に、アメリカが世界を支配する構図ができていった。ロシアの首都はモスクワにある。モスクワはロシアの首都である。これらには聖ワシリン大聖堂や文化拠点として、政治拠点として1000万人の人々が集まる世界都市である。しかし現在では世界都市としては東京やロンドンに比べると世界的影響力はかつてのアメリカと二分した世界の首都と言われた面影はあまり残っていない。モスクワはポーランドやウクライナなどの東欧との繋がりは非常に強いが東京やロンドンに比べるとインフラや人種の流動性に劣る。しかし、モスクワは経済政策により、500ある電力会社を8に集約することやより効率的に経済の流動性を活発に行ようになっている。また銀行なども1100もの銀行がある為、これらも国際性を考えると集約する動きが今後見られる。しかし、効率性だけを考えると、人間までもが製品として扱われ、経済という巨大な動きに飲まれてしまう。ここでいかにして白人を中心にすることなく、多種多様な文化をより受け入れていくかが重要になる。しかしロシアは非常に多くの資金を石油などで手に入れている。イギリスにあるサッカーで有名なクラブチームであるチェルシーなどはアブラヒモビッチという石油王が100億円にも昇る赤字債券を買い上げてクラブごと買収し、世界中から良質な選手を集めて国際性のあるビッククラブに作り変えた。特にロシアの石油による力は大きく今後これらは世界が注目するものとなるはずである。そしてアラブもまたロシアと同様にオイルマネーによって多額の資金を持っている。しかしこれらの国はまだ国家間で格差は非常に激しい。格差は資本主義社会になると歴然として出てくるものである。社会主義国家であったロシアはソ連崩壊とともに資本主義の流れが大量に流れてきたが、アメリカやイギリスなどと違ってそれらの体制を確保する基盤ができていなかったことも、ロシアという国が衰退した一因でもある。そして資本主義の流れはものすごい速さで世界中を覆い尽くしている。これらの流れに適応できない地域や国家間はより国家間での格差が広がっていくことになるであろう。
植民による均質化
ラテンアメリカはマヤ文明やアステカ文明など、古代遺跡があり、人々が陽気で暖かい気候にあるというイメージがある。チリ人等にはあいつはラテンだからなぁと言って物事がすんでしまうことがある。実際に日本は忙しいことを良いとするが、チリなどでは逆に暇があることが良いとされるという。温暖な気候の中で心にも暖かさがある。特にBRICSの加盟国であるブラジルは近年、GDPでも1998年から4.4%に及ぶ経済成長率となっている。鉄鉱石の輸出量は世界一位であり、アルミニウムの輸出量は世界2位になっている。これらを中心として貿易が活発に行われている。GDPでは韓国を超えて世界でも11位となっている。特にサンパウロは世界でも有数の都市へと変化を遂げてきた。ブラジルはブラジリアが首都であるが、事実上の経済の中心地はサンパウロである。ブラジルは19世紀までポルトガルの植民地であった為、公用語はポルトガル語で話す。そしてブラジルには日本の移民が多く流れてきたこともあって日本企業などが非常に多くある。外資系企業の投資銀行や日本の総合商社や自動車会社、またはスペインやドイツから様々な国籍が集まる南アメリカ最大の世界都市となっている。特に近年は工業の発展も見られ、もはや資源だけではなく、技術的に見ても世界水準となっている。ラテンアメリカでは特に携帯電話業界でも世界的な水準を持った会社が存在する。特に携帯電話の流れはフィンランドのノキアを中心として、日本のNTTドコモ、アメリカのブラックベリー、イギリスのボーダフォンと言った機種が世界シェアとして広まっていたが、ここに来てフォーブス誌の世界の富豪ランキングでもメキシコの携帯会社鉄メックスを経営するカルロス・スリム・ヘルは元は国営であった電話会社を買収したこともあって電話業界を支配することになった。近年ではフランスの電話会社であるテレコムを買収するなど事業はラテンアメリカだけではなく世界に進出している。そしてラテンアメリカも同様に先進国として発展して行けば勿論のことグローバリゼーションの波を受ける。メキシコにも携帯電話が普及しつつある。特にパソコンと携帯電話は情報化時代にはかかすことのできない製品である。これらはブラジルやメキシコシティ等を中心としてラテンアメリカでも確実に広まっている。世界の均質化はもはや世界中の何処の国においても起こっていることである。
ブラジルと隣国であるアルゼンチンは特に経済的に深刻な問題を抱え、最早国民の期待はスポーツ以外見出すことができなかった。アルゼンチンの首都はブエノスアイレスである。特にイタリアやスペインから移民が流れてきたことによって発展した都市であるので欧州との繋がりもまた強い。ブエノスアイレスはアメリカと同様にヨーロッパからくる多くの移民から成り立っている都市である。特にスペインの植民地であったこともあり政治的にも密接な関係を持ってきたため、国民はスペイン語で話す。アメリカもまた同様に植民地であったが移民が独立運動をして現在の超大国になったように現在の世界都市は半数に及ぶ都市が植民地であったという事実がある。日本もまた敗戦国となった時は事実上アメリカの植民地であった。インドや香港もまた植民地であった。
大日本帝国の植民支配。
そして日本もまた第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦時中はヨーロッパを参考にして巨大な大日本帝国という今では北朝鮮と韓国に二分されている大韓民国、中国、フィリピン、台湾などの東アジア全域を支配した時期があった。当時の日本は江戸幕府を薩摩と長州協力してできた明治政府であった。明治政府は天皇を頂点に置いて、ドイツのプロイセンなどの軍国主義を参考にしてできた政治体制であった。この為、ヨーロッパの植民地支配を真似て自国にない資源を他国を侵略することによってそれらを解決しようとした。それによってできた領域が大東亜共栄圏であった。この半ば強制の支配は日本語や日本文化などをアジア諸国に強制させ、数多くの移民の流動が自国や東洋の国々へと移民していった。日本は多くの朝鮮民族を日本に労働力として移民させて安い賃金などで奴隷のように働かさせていた。日本にアジア系の移民が多いのはそれらの戦争によるものと、日本に出稼ぎに来る人から構成される。東京、大阪などは在日の韓国人が多く。身近に韓国語や中国語を話す人が存在する。
このようにして都市の縮図は移民の縮図を表している。世界は各々の文化を持ってきたが、パソコンや携帯により確実に世界共通の概念が浸透しているのである。特に植民という移民は自国に住んでいたものにとっては非常に許し難い行いであるが、グローバリゼーションにとっては非常に影響をもたらすものである。支配国が半ば強制的に自国の文化を持ち込み文化の強制を強いる。これらはイギリス、オランダ、ポルトガル、スペイン、フランスなどのヨーロッパを中心にして行われてきた。これら強制的な文化の受容は植民都市において普通に行われてきた行為であるが、これらによってこれら先進国と密接に関わり発展している世界都市もあるのは事実である。宗教や植民による文化の伝達は世界規模ではなくても最初の国家を超えた均質化であると言える。
こぼれおちた人々
ヒッピー、ニート、フリーター、ホームレス、落ちこぼれ、いじめ、これらは非常に感情を悪くする言葉である。一般の人々から見たら彼等は人生の敗北者などととらえられがちである。人生に敗北はつきものである。勿論のことその障害が大きければ大きいほど失敗も多くなる。人の人生は失敗し、立ち上がり、また転ぶことの連続である。これらの人々もまた社会から見れば少数派の人々であったが、近年格差が進行してこのような人々が少数派ではなくなってしまった。しかし、教育のレールや社会のレールをはみ出す。抜け出すことは世界を変えてしまうような革新を生み出すことがある。社会が与える価値観から出ることによって新たな価値観を持つからである。彼等は社会から見たら歯車に成りきれなかった人々でもある。ロボットにもネジが取れて通常とは違った行動を起こす。彼等は通常あり得ることのないものを生み出すことのできる可能性を持った人々である。
電球、パソコン、ソフトウェア、自動車、飛行機
これらは全てこのこぼれおちた人々から生み出されたものである。彼等はほとんどの場合変わり者、または不審者などといい意味で使われない言葉で定義される。しかし、世界を変えてしまう発明はほとんど彼等から生み出されている。
エジソン、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、スティーブ、ウォズニアック、ライト兄弟、ヘンリー・フォードなど彼等は大衆から見たら変わり者である。
飛行機ができた当初、ライト兄弟は自転車屋であった。彼等は未だかつてどんな技術者も誰も成し遂げることのなかった空を人が飛ぶという夢を持っていた。イカロスなどの童話があるが、ライト兄弟が最初の友人飛行を行うまでは誰もが空を飛ぶことは無理であると考えていた。イギリスの有名な教授までも人が飛行できるわけがないと断言していたのである。そしてとうとう初の有人飛行をやってのけたが、誰もが彼等の言う事に耳を貸さずに20年余りをそれらの業績が認められないまま不遇の時間を過ごした。事実彼等が世界認められたのは死後の事である。しかし彼等はグローバリゼーションの時代になくてはならない飛行機を生み出したのである。これらはほとんどの場合、大衆から生み出されることはほとんどと言っていいほどない。
情報化革命は1975年の3月、会社にリストラにあった人々が集まったコンピューター好きの集まるホーム・ブリュー・コンピュータークラブという見た目の良くない変人エンジニアが集まる会であった。これが最初の情報化革命の到来であると言われている。この会がきっかけでスティーブ・ウォズニアックは世界最初の個人向けコンピューターを発明した。そしてジョブスと二人でアップルを立ち上げて世界を代表する会社を作りあげたのである。スティーブ・ジョブスは大学も中退し、完全にヒッピーであった。彼等は教育のレールからは外れた落ちこぼれに属する人々である。
レールの外にあるもの
産業のレールから外れた人々がこれらの人々であるとするならば彼等は資本主義社会にとっては不必要なものである。効率よく作業を行うというものからはみ出てしまった人間は厄介者である。しかし、この厄介者である彼らには人間としての血が流れている。彼等は反逆者でもあり、その資本主義の流れに必死に抵抗し、新しい流れを生み出そうとする。いや、それしかないのかもしれない彼等にとって新しいものを生み出し事が世の中に抵抗し、挑戦する唯一の方法であるのだから・・・競争、抵抗、闘争は彼等にふさわしい言葉である。彼等は何もしなければただの変人である。特に抵抗や闘争からは強力なカリスマを持ったリーダーや世の中そのものを変えてしまうは快適なイノベーションなどを生み出す人々が現れる。トレーニングでも同じことが言える、強大な敵、ストレスがなければ負荷をかけて強くなる必要もない。腕立て伏せを行うことによって負荷がかかり、より強力な筋肉を持つ体になり競技スポーツに勝つことができる。彼等は絶えず社会的な負荷がかかっているものである。だからこそ強靭な体力や集中力から今までにない画期的なアイデアを生み出し、人々にとって新しい価値観を生み出すのではないかと思う。機械は負荷をかけても、強くなることはない。しかし人間であるならば、より強靭に生まれ変わることができるのである。自動者王であるヘンリー・フォードもまた3度目の経営によって成功した人物である。抵抗は革新を生み出すプロセスである。ここにはあきらめなければというものが付く。
歴史という重要なもの
歴史は過去のものであるから人々は忘れがちなものである。しかし、歴史というものは技術革新にとって非常に重要な要素である。ふとしたことで何かひらめきが起きる場合がある。それはお風呂場であったり、ピアノを弾いていたりささいな日常の事を行っている時に起きる。これらのアイデアは全て過去から成り立っている。どんな偉大な作家であれ、政治家であれ、全て過去から成り立っている。彼等は最初はそれらに行きつくまでに様々な障害を乗り越えてきたはずである。人は必ず自分以外の他者である両親から生まれてくる。そしてそこには必ず遺伝子というものが組み込まれている。そして何百万年前に人が生まれた時から遺伝子は現代にいたるまでそれらの過去の情報をつないできたのである。そして現代に見られる全てのものは自然が生み出し、そして人工物は過去の人々が切磋琢磨し、壮大な夢を持って生まれたものである。これらはすべてのものは必ず過去がある。そして過去はこれからの世界がどうなっていくのかを知る鍵となる。何かと何かを足し合わせて新しいものを作りだすということを人々は行ってきた。木と石を使い、弓をつくり、弓と矢を使い、獲物を狩る。そべてはこれらのプロセスを繰り返すことによって偉大なものはできてきた。そこに天才という要素が加わった結果、今までの歴史を覆すようなものが出てくることがある。それも過去なしには天才的なものは生まれない。モーツァルトにもピアノがなければ音楽が作れなかったのと同じことである。歴史は繰り返す、バビロニア、メソポタミア、アステカ、マヤ、ミケナイ、ティリュンスなどの紀元前に起こった文明も、ローマ、ペルシャ、ベロリンガ、ゴシック、ロマネスクなどでも文明の発展はあるにしても、人間の構造は大して変わってはいない。そして、必ずこれらの分英は繁栄を極め、衰退する。ポルトガル、スペイン、イギリス、アメリカと近代において超大国が移り変わっていくように、歴史を振り返れば未来の辿る道が少なからず想定できる。そして、これらを繋ぎ合わせる作業をすることが重要である。現在の120億ページに及ぶ情報もまた過去から成り立っている。全ての事象は過去から成り立つ。それを認識していかなくてはならない。
均質化の流れも、膨大な歴史から成り立つ。私たちは80年の寿命で作られているわけではない。膨大な先人達の努力によって成り立っているのである。そして、社会の転換期には必ず革新が起きる。情報化革命によっても、盛える場所と衰退する場所が表れたように時代は繰り返してできている。均質化もまた歴史の流れが生み出したものである。情報化もまたアメリカの精密機器を販売する会社であるヒューレット・パッカードでアップルの創業者達がスーパーコンピューターを見る機会がなかったら成り立たなかった、HPの出身大学であるスタンフォード大学がなかったら彼等は出会うことも創業はしなかったはずである。とにかく良質な過去を集めたものである本を読み、過去と現在を繋ぎ合わせることが私たちには最も必要なことである。全ての革新は過去から生まれる。歴史は少なからず資本主義によって金儲け向けに改編されながらも現在も生まれ続けている。革新のキーワードは少数であること、多様であること、過去から成り立つということである。資本主義社会の大企業に勤める人々がこれらの歴史に残る革新を成すことがほとんどないのは歴史の繋ぎ合わせをうまく行っていないからではないだろうか?少数であること、多様であることはチームを編成して大企業でも行うことができることである。同じ環境にいる人々でチームを固めれば加速度的に進む現代社会のスピードにはついてはいけない。今人様なのは多様な人材を集め、シェイクすることにある。
9.動物、人間、多様性
人間もまた動物である。同じ哺乳類のゴリラやチンパンジーを見れば人間の職場などで同じことをしていると感じないだろうか?縄張りを持って威嚇することも、集団にグループがあることも人間と類人猿の社会構造は根本的な違いはあまりないと言える。
人間が多様であるということは何か?ダーウィンの進化論を借りるならば生物は元々は一つであった。これらはすべてバクテリア等の細菌類から生まれたと言われている。バクテリアが酸素、窒素、二酸化炭素などと化合してアミノ酸を形成し、最初の生物ができたと言われている。それらの原資生物が進化していくことによって生物は枝分かれして様々な特徴を持つようになっていった。最初は海だけで魚などの生物は生活していたが、陸で生活するができるようになった魚類が存在するようになり、それらが陸に上がり生活を行うようになった。これらは40億年にものぼる歳月をかけて構成されている。最初は生物は細菌としてしか存在しなかったのである。陸に上がった魚類は両生類になり、恐竜の原型である爬虫類へと進化していった。そして、太古の氷河期の突入により恐竜が全滅し、わずかだけの哺乳類が生き残った。これが私たちの祖先である。彼等はやがて進化して類人猿となり、今の人間の原型を司るホモ・サピエンスとなった。生物の始まりは一つで枝分かれするように進化することによって今にいたるのである。
動物と人間の違いとは・・・
動物もまた様々な進化を遂げて今に至っている。特に犬や猫などの身近な動物は人間が支配する社会にうまく適応することによって滅びることなく存在しているものである。哺乳類には雄と雌が存在する。これらは外部の厳しい環境から生命を維持する為により効果的な方法として性別が生まれたと言われている。哺乳類は雄と雌で構成される。哺乳類以外の昆虫などの世界では雌の方が能力的にも上である。男性が上位を占めるのは哺乳類のみである。基本的には動物は雄が狩りを行い、雌が子や家を守るという場合が大部分を占める。特にアフリカに生息するライオンやチーターなどはその典型である。種の保存で重要であるのは様々な特徴の違う種が多く存在することにある。雄と雌が時に交配し、より環境に適応する為に進化することによって、種は繁栄を極めてきた。
これが生物の進化論をもとにした人間の形成の歴史である。
生物の過程を現代社会の人の構造にあてはめてみればいくつもの不可解な点が出てくることが理解できる。種の繁栄には遺伝子も含めて様々な性質を持ったものが多く存在するということが必要不可欠である。しかし、グローバリゼーションによって均質化は更に進行している。人間の機械として、同じものを大量に作り出し、産業構造を成り立たせる世の中である。これらは動物の種の保存論にはほど遠い価値観である。では人間が均質化していき種の保存論が成り立たなくなるとどういった問題が出てくるのか?種の保存は遺伝子や性質が違うものが交配をして外部の環境に適応できる新しい種を作るというものである。動物は雄と雌でも違う性質を持つもの同士が交配することによってより強い種を確保することになる。しかし、人間が機械として均質化し、社会がより安全な環境、豊かな環境になったおかげでお互いにあまり大差のない種が子供を産むようになってきている。人は抵抗や競争がある場所であればあるほど人間としても肉体的にも精神的にも強い力を持った種が生まれやすい。しかし、現在の先進国における社会構造ではこのような人間がより強くなるということは起こらなくなる。遺伝子レベルで違っているとしても、環境がより厳しくなくなることで今度は退化の現象が起きてくる。進歩はより強くなることであるが、勿論のことトレーニングをしなければ筋肉は落ちて力は弱くなるのと同じで、人の強さも資本主義社会の完成された社会では進化よりも衰退が起こることになる。この先進国の人間を機械として考えてより経済効率を進めるという社会の問題点でもある。特に先進国において人間は機械になっている。そして、機械は多様性や外部環境によって能力を落とす。これは機械がさびついて能力が落ちていくことと同じことである。均質化は人の弱さを生み出すものとなる。豊かになればなるほど外部環境への抵抗力や競争力は失われていく。これは何もしなくてもそこに生存する為に必要なものが必ずあるからである。
動物は外部環境で生き残る為に様々な手段をこうじて今にいたっている。キリンの首、シマウマの白黒の模様、像の巨体、これらは全て生存するため、他者と競争をして生き残る為の手段であった。先進国社会にはこれらをすることなくより便利で、より快適な住まいが常にある為にこれらの努力を行おうとしなくなる。結果的に退化が始まっていく。特に日本という国はそれをよく表している。日本はアジアを代表する先進国である。道路などのインフラもロンドンに次ぐ世界都市として素晴らしい環境にある。一般の中流階級にいればほとんどの場合、生活にまず困る事はない。とにかく中流家庭であれば日本人の身の回りには何でもあることに気が付く。テレビ、パソコン、冷蔵庫、電子レンジ、掃除機、携帯電話、これらはより便利により快適に人間が生活できるように発明されたものである。先進国の人々は先端機器を簡単に入手できる。国家には必ず盛えることと衰退することがある。世界はこれらを繰り返すことによって今に至っている。日本や韓国の競争力が世界的に見て限りなく落ち込んでいるのは、これらの便利で安全な環境にいることにある。安全や調和は生存にとって必要なものであるが、過度になれば人を弱体化させる効力を持つ。
成長するアジアは日本と同じ道を辿っている。
韓国等のドラマをテレビ等で見てみると文字や言語以外はほとんど同じものであるという感じを少なからず受ける。これは最初に世界都市として先進国の仲間入りをした日本の東京などの都市の影響を受けているからである。植民や戦争によって文化が広まることは世界都市の関係を見ても理解できる。特に日本はアジア圏を支配してきた歴史がある為、アジア圏の人々の日本への意識は少なからずある。それは中国や韓国の反日感情や台湾の日本のアイドルやマンガなどの日本文化の憧れでもある。世界の繋がりは貿易だけではなくて戦争や植民によってもたらされている。そして、日本、韓国、中国、台湾などは同じ文化を少なからず共有し、同じ道を辿ろうとしている。資本主義社会は過度に行きすぎると少なからず人間を弱くする原因になる。日本のゆとり教育などは結果的には失敗に終わったといっても過言ではない。この失敗はこの弱体化の構造にあてはめれば当然の事である。国家の安定や調和は一方で国家を弱くする役目を持つ。いかにして安定や調和を維持しつつ、若者達に目的をもたせ、より厳しい環境で教育を行うことが先進国では重要である。
目標と言うものは非常に重要なものである。
動物や人間の行動は必ず何かしらの目的があってほとんどの行動は目的に支配されている。何かを起こしたいという衝動がなければその為の行動を起こすことはない。人間というものは考えること以外の行動を起こさないから考える思考が現実のものとなる。これはナポレオン・ヒルという成功学の権威が長年の研究により発見したものである。確かに考えなければ行動を起こすことはない。それが小さな思考であればあるほどその人の行動もまた小さくなるのは当然の事である。そして、先進国になっていくことによって思考の欠落が起っていく。
では、人の思考の欠落は何故起こるのであろうか?
目的を持っている人間と持っていない人間の行動も活力までも大きく異なるのは何故か?これは目的があればその目的を達成しようとしてより行動をするからである。行動を起こせば起こすほど結果が生じる。しかし、行動を起こさなければ何も起きることはない。戦後の日本の目的はいかにして日本を復興させてアメリカを追い越すかにあった。これらは当時の国民全体が持っていた目標でもある。国民が共通の目的を持つことによって生きがいも、目標もあったからこそ高度成長期に乗り、アジア最初の先進国となった。かつての日本人は働き蜂として海外での評価も非常に高かったのである。しかし、豊かになり、それらの目的が薄れて、なくなってしまった現代では国民レベルでの共通の目的意識の欠如によりかつての勢いはなくなってしまっている。人間もまた産業ラインとして扱われてしまっている世界では目標どころか感情までも失ってしまいがちである。そして思考の欠落は人間が機械になりつつある兆候でもある。
思考の欠落は単純な与えられた作業を行う時は非常に有利なものである。機械は思考することなく与えられた作業をプログラグされた情報を基にして作業を行うからである。しかし、思考することを人間がしなくなればあるのは機械の代わりになって歯車として社会構造の中で廻るだけのものになる。思考の欠落は人を機械にし、弱くする。これらは現代の世界競争力の低下にも表れている。情報化によってほとんどのものが資本主義社会を基盤にした無数の情報によって構成されている。人間や動物も、ミクロの世界で見ればDNAによる無数の情報によって構成されているのである。全てのものは情報で構成されている。より思考が欠落し、産業構造の中で与えられたことを行うだけに人間がなっていけば、プログラミングされたパソコンなどとなんら変わらなくなる。そして、感情が失われ、さびついた集団が行うものは、何も良質のものを生み出さなくなる。ここで資本主義によって先進国化すればするほど人間が機械になり、機械としてさびつく、衰退の路を辿って行く。これは日本や韓国だけに言えることではない。へたすれば中国やインドなどの成長を続けている国でもこのままの先進国の制度を繰り返せば衰退という後退が起きることになる。均質化は資本主義社会にとって合理的に物事を進める上で重要であるが先進国の衰退をも促す要因になることを考えなくてはならない。
本書で言っている多様であることには何の利点があるのであろうか?多様性は様々なものから求められているものである。大企業であっても多様性を重要視する。種の保存であっても多様であることが有利である。グローバリゼーションの中では多様なものが生存する上で有利であると言われている。
多様であるということは何か?
多様であることはまず多角化を意味する。同じ環境にいて同じ田畑を耕す行為だけを行ってきたものは情報の共有は行いやすいが一方で行動の範囲もまた狭くなる。何故ならそこから移動する必要もなく、その田畑を耕し収穫し互いと協力しあってより効率を上げることができるからである。これが農耕型社会の人々である。農耕型にとって定住し、同じ価値観を共有しながら田畑を耕すことが重要であって無理して自分たちと異なるものと付き合う必要はない。しかし、21世紀を迎えた今は一つの地域や一つの価値観で物事をとらえようとするのは非常に危険なことである。
狩猟としての留学生
それでは多角化、多様化することで有利な点は何かが具体的に分かることは各国の留学生を見れば理解できる。留学生はスペイン、ドイツ、チリ、韓国人、中国、ケニア、パラグアイ、フランスなど様々な国籍を持った人々が存在する。彼等の生活を共同作業などやインタビューをとうして知れば知るほど彼等の文化は様々に異なることが理解できる。何よりも彼等に感じるのは一定の地域や人種間に捉われることなく、国境を超えて平気であるということである。これらは一定の場所にいて同じことをしてきた人々とは思考のレベルでも、活力という意味でも力の差が存在する。特に日本ではいまだに外国人との交流をさけようとする人々がいる。何故なら根本には日本人は英語を使えないからということと農耕型社会の名残りが未だに根強く残っているということにある。確かに英語が使えなければ様々な留学生と本当の意味での交流を行うことは難しい。言語はコミュニケーションを取る意味で非常に重要なものである。ひとつの場所で場所を変えることなく田畑を耕していく事は事務的な仕事をすることや公共の仕事を行う意味では非常に重要である。しかし、大多数の人々がこの田畑を耕すことのみに従事している。グローバリゼーションが進む現代では定住して田畑を耕すことはリスクが伴う行為である。
外資系企業の世界進出
世界を見渡してみれば国境に捉われることなく外資系企業は行動している。特に中東のアラブ首長国連邦は国営の投資機関としてジェトロと呼ばれる投資促進企業などがあり、国家レベルの外国資本などの投資や開発事業が行われている。そして、石油を背景にしたオイルマネーによってアラブの民間の企業もまた世界に進出している。特に国際化の面では日本の北海道の土地をアラブ人が大量に購入していることも国境を超えて取引が行われていることが理解できる。
広告業界の世界への多角化
広告は様々な業種を知る上で非常に重要なものである。日本では電通や博報堂や日本を代表する広告代理店と呼ばれているが世界にはこれよりはるかに大きな広告代理店が存在する。それがアメリカのOMNICOM、IPGイギリスのWPPという企業である。これらはアメリカだけではなく世界に影響力を持つ広告代理店である。広告代理店はメディアを司る影の支配者とも言えるがこれらの企業もまた自国にこだわることなくヨーロッパやアジアを舞台にして様々な企業をクライアントにしている。この3大広告代理店を含んだ世界の広告代理店において有名なのはフランスのピュブリシス、アバス、アジアでは日本の電通である。WPPグループでは広告界で有名なオグルビィ・アンド・メイザーなどのCMや各メディアの広告を製作するクリエイティブ企業が存在する。クライアントはIBMやDOVEなどのアメリカを代表する企業である。しかし、これらの広告会社は自国だけに絞って業務を行っているわけではなく、日本などのアジア進出なども見られる。フランス人であるカルロス・ゴーン率いる日産自動車もオグルビィ・アンド・メイザーのクライアントである。これらの外資系企業は間違いなく田畑を耕すことなく、様々な場所に赴いて狩りを行うことによって生活を行っている。特にこれらの広告代理店は各々に密接に関係し、近年では電通などはグローバル戦略としてフランスのピュブリシス等と業務提携を行っている。そして、グローバル企業と限られた地域のみで業務を行う企業間にも格差が広まっている。特に外資を相手にする企業との差が広がっていることは業界の売上高を見ても顕著である。世界でもOMNICOMなどの外資系企業は多国籍企業であることが多い。特に世界のトップに位置する人々の共通の言語は英語である。広告は日本では電通の吉田秀雄という4代目の社長が民営放送の基礎を作り上げた事によって現在のテレビ、新聞、広告の仕組みが作られたと言われている。
その結果、広告代理店はメディアの世界では影の支配者と言われている。しかし、情報化革命によってメディアの本質が検索エンジンを使って自分の欲しいだけの情報を取り出すことやウェブをとうして広告収入を取るということに転換してきている為に、テレビ、新聞、広告のメディアの法則は崩れかかっている。これはメディアの転換が情報化革命により起きたからである。馬車や船から自動車、電車、飛行機へと交通の手段が変わり世界が変わったように、パソコン、ウェブ、検索エンジンによってメディアの転換期が訪れようとしている。メディアの移行は世界でも顕著である。現代では情報検索によって広告収入を得る時代へと変わりつつあるので、日本の代理店などは苦渋をなめることになる。特に新聞社は赤字を出すなど対策に追われている。これは若者がウェブをとうして情報を得ることによって新聞を読まないことに起因している。新聞は購読料と広告料で経営を行っている為に、若者層が大人になる頃には更に縮小が始まると予測できる。特に朝日新聞社は深刻な経営難に陥っている。そして、新聞社、テレビ、広告代理店は互いに密接に影響をしているのでこれらの業界は今後どう情報化に対応していくかが重要になってくる。ウェブ上でもビデオを投稿してユーザーが見るYOUTUBE、ⅠPLAYER、ニコニコ動画、それらに続くウェブビデオがテレビに代わる新しいメディアとして注目されている。これらもまたウェブ上に付属する広告によって収入を得ている。ウェブ広告は代理店を介さないでGOOGLEやYAHOOなどの企業が直接介して行っているものであるから従来の広告代理店はこれらにいかにして対抗していくかが重要になっている。GOOGLE(アメリカ)、YAHOO(アメリカ)、BAIDU(中国)と言った検索エンジンは情報化時代の新しい広告代理店である。これは40年前では考えられないことであった。世界でもパソコンが世界中にこれほどまでに広まると言う事は誰も創造していなかったのである。大事なのは世論などに従って人が集まることにあるのではなくて歴史をとうしながら世の中の先を
見渡す先見性であるということを忘れてはならない。
「耕す」から「狩る」時代へ
メディアの世界は新たな転換期を迎えようとしている。多角化が進む中で従来の農耕的な考えでは21世紀に生き残ることは非常に難しい。耕す時代からいかにして国境を超えて狩る時代へと転換しつつある。国境なしの時代を生き抜くには定住して畑を耕すだけではいけない。何故なら外側から新しい人間がそれらの畑を狩りに来る時代だからである。耕すことは重要であるが、これら外国の人々を外国の人と考えるのではなく違う文化を持った人間とどうやって付き合っていくかが重要である。彼等は広い世界を見ている。そして、地球を一つのものとして見ているのである。他国から来る留学性、外資系企業の社員、様々な目的を持って来る文化の違う人々はグローバリゼーションの時代には非常に必要不可欠な存在である。彼等は勿論の事英語を駆使し、お互いに違う文化を認めながら新しい時代を作り出しているのである。
多様であるということ
多様性とは様々な価値観、文化、伝統などの国家間を越えて持ち続けるということである。そのものにはそのものにしかないものがある。大事なのは共通の価値観を持ち続けることとそこにしかないものを繋ぐことにある。
10.紡ぐものと隔てるもの
現代において私たちの身近にあるものは膨大な情報から構成されている。どんなに大きな家も、小さな部品からできている。これらには勿論のこと設計図などを必ず必要とする。そして、バラックであっても頭の中で人が家を思い描くことによって作られる。自然にあるものや物質はそのものが性質を持つようにDNAや構造式で設計されることによって構成されているならば、全てのものは膨大な情報から成り立つという定義ができる。しかし、私たちの日常には触れるものと触れないものに大別できる。世界は情報と言う膨大でありながら2文字の「情報」という言葉で成り立つ簡単な構図により成り立つ。人間はこの物質というものに分けることができる。動物や日常にある掃除機や冷蔵庫などの生活用品もまた物質である。そして、現代社会はこの膨大な情報と日常の世界に支配されている。ここで言う紡ぐものと分けるものとはグローバリゼーション、情報化革命によって繋がるものと分離するものを指している。情報化が始まった1975年から21世紀を迎えて30年以上経過しようとしているが、情報化革命は確実に世界を変えたものである。情報化によって世界中を簡単に知ることができるようになった。しかし、物質的に見ればそれら世界の情報は必ずしも正確であるとは限らない。情報は確実に都合のいい様に書き換えられていることが多いからである。情報化は確実に世界を一つにする役割を果たしているが、あくまでも実際に行き、体感しなければそれらを完全には理解することはできない。匂い、風土、文化などは実際に行かなければ完全に知ることはできないことである。世界を一つにすることに確実に情報化革命は貢献したが、世界規模での人間の機械化、均質化が起こっていることを自覚しなくてはならない。
膨大な情報の流入、国家間の交渉、移民問題、貧富の格差、格差問題、テロリズム、世界は新しい局面を迎えようとしている。私たちの文化は超加速度的なスピードで価値観の普遍化は進んでいる。これからより英語を駆使しながらもはや移民や外国人と言えなくなるほどの割合で東京、ロンドン、メキシコシティ、北京、香港、ムンバイ、パリ、ニューヨーク、シンガポール、サンパウロ、シカゴ、ミラノ、モスクワなどの世界都市はより情報を共有し、人々が入り混じることになる。これらの都市はもはや国家のみの首都や都市ではなく、地球の世界都市として盛えていくことになる。一方で均質化の波も忘れてはならない。文化を共有すること、情報化が進むことによってより国家間の争いは少なくなっていくが、より人々が同じになり、資本主義、経済効率だけを考えることによって人間が機械となりさびついて死んでいく世界になる危険性が潜んでいる。
世界を紡ぐ交通
これからの社会は航空が非常に重要になる。情報だけのやりとりだけではやはり仕事をするにもコミュニケーションをするにも限界がある。交通をより速く行う為に様々な発明がされてきた。人、馬車、牛車などの動物を使う乗り物は最初の交通機関である。そこに20世紀初頭に自動車の大量生産が可能になり、自動車は人々にとってなくてはならないものとなっている。アメリカは自動車によってできた都市として考えても差し支えがないぐらいに自動車が必要な社会である。都市計画もまた自動車が中心にして計画されていることが多い。そして、自動車は建築までも変えた。自動者のデザインを参考にした移動型建築はこの時代にできたものであった。20世紀は交通の革命が起きたと言ってもいい。自動者、電車、飛行機の出現である。これらの交通は世界をより身近なものにした。そして、現代社会にとって密接に関係するのが飛行機であると言える。飛行機は世界を繋ぐ交通ルートである。自動者、電車などの交通機関と比べても非常に短時間で長距離を移動することができる。
航空と飛行機といった交通機関は国際化が重要視される21世紀では非常に重要なものとなっている。飛行機は軍用機、旅客機、輸送機などの種類がある。軍用機は戦争に使われるものである。飛行機は自動車と違い空港さえあれば自由に移動できる利点がある。長距離を最短の速度で移動することができる。アメリカのボーイング社やヨーロッパのエアバス社は航空会社としても軍用機などの製造元としても非常に有名な会社である。飛行機は世界中に点在する空港を経由して移動する。特に国際空港はその国の人の流れを理解するのに格好の場所である。新興国であるアラブ首長国連邦の国際空港では約8割の人が外国人であるという。中東は石油にオイルマネーだけではなく建設ラッシュによって人々がビジネスチャンスを見出しているからである。
交通の進化は世界を繋げる役割を果たす。これらは物流、人の流れ、文化の流れを促進し、世界共通の普遍的な価値観を普及する役割を持つ。特に重要であるものは時間の短縮である。資本主義社会が発達すればするほど企業の売上を上げていかなくてはならない。何故なら売り上げをあげれば収入が多く手に入るからである。収入が多く入れば今度は生活が向上する。全ての経済はお金というもので成り立っているからである。人類史上最初の偉大な発明はお金にあるのかも知れない。そして、より効率的に作業するにはいかにして短い時間で能率をあげるかが重要になってくる。今までに何時間もかかるものが数分でできるようになることで経済効率の促進が始まる。航空がより進歩することによって人々はより短い時間で目的を達成できるようになってくる。これら交通の発達に資本主義社会がより活性化していったが、交通の進歩に加えてより人々の距離をゼロにしたものが情報である。世界中の人々の距離を限りなくゼロにしたのは情報と交通の発達である。パソコンや携帯を使用して世界がリンクすることによってより作業効率やコミュニケーションが容易になり、様々な技術が世界標準として世界に発信されるようになる。ITなどの最先端技術はアメリカで発信されてきたものであるが、これはアメリカが冷戦後に力が一極化し、軍事力や大量の資本を背景にして世界に影響力を持ってきたからである。しかし、21世紀に入り、アメリカだけでなく様々な地域の情報などウェブを使って認識することのできる現代では流行が多角化する。パリやイタリアがファッションの聖地であり、車の聖地は日本になり、半導体は韓国、雇用に関しては中国やインド、石湯に関してはロシアやアラブ、鉄鉱石などの資源はブラジルや南アフリカなどになり、その地域によって強みを発揮するようになる。これらが新しい時代の多角化と言えるものになる。
それでは各国の航空のネットワークについて調べてみる。ネットワークもやはり植民や戦争を起こした国々と密接に関係していることが多い。これらは言語、文化、移民、教育が半ば強制され、または流れ込んできた推移があるためである。その国の言語を知り、文化を知っていれば貿易も容易に行いやすいからである。
世界都市と航空の関係
世界都市と呼ばれる地域は基本的には密接にリンクしている。東京、ニューヨーク、ロンドン、香港、ソウルなどの世界都市は密接に関係している。これらは外資系のグローバル企業などが支社を世界の主要都市へ構えているからである。特にロンドンが密接に関係しているのがニューヨーク、パリ、香港である。特にイギリスの首都でもあるロンドンは世界都市の影響力を示す順位の中でも1980年代から1997年にかけても世界一世界都市として影響力を持つ都市であると言われている。ロンドンヒースロー空港はロンドンにある国際空港である。首都であるロンドンにはここから15分程度でいける距離である。特にロンドンは世界金融の中枢を担っている。特にロスチャイルドは世界の金融界を支配してきた一族であり、アメリカの金融界はロックフェラー、ヨーロッパの金融界はロスチャイルドと言われ今でも影で金融システムを操っている。特に1800年代にロスチャイルドの5人の息子がヨーロッパの金融の流れを作ったと言われ、ロンドンに行った三男のネイサンは金融の祖とも言われている。特にロンドンの投資銀行などは世界でも特に強い力を持ち、中東への出資などはロンドンの投資銀行等が先駆けて行っていた為、日本企業などは遅れを取っていた。ヨーロッパはEU(欧州連合)の誕生によってGDPを合わせるとアメリカを超す力を持った国家連合体となった。ロンドン、パリ、ルクセンブルク、ミラノは欧州連合の世界首都という役割も担っている。そして、香港はヨーロッパとアジアを繋げる重要な都市となっている。これらの移動時間は13時間20分となっている。そして、ロンドンは世界都市を繋げる上で非常に重要な役割を持つ。ヨーロッパへはパリを経由して、アメリカへはニューヨークを経由し、アジアへは香港を経由する。このようにして世界都市は各々にリンクし合ってお互いの文化を国境を越えて受容している。これを繋ぐのは情報と航空というものである。この移動時間などは今後もっと短くなる可能性がある。そして、世界を時間の短縮をとうして猛烈なスピードで進化しているのである。情報の共有は世界の均質化を生み出すが、様々な人種が自国を越えて相互に移動することを可能にしている。
世界を紡ぐ情報
パソコンや携帯もまた世界を繋ぐ道具である。交通の革新と同時に情報化革命が起こらなかったらこのようなグローバリゼーションが進行し、世界が一つになるという現象は決して起きなかったはずである。膨大な情報は世界を繋ぐ役割を果たす。世界を繋ぐものは検索エンジンを介して行われる。そして、携帯もまた世界へと国際電話が当たり前のようにできる時代へと突入している。特に国際電話ではIP電話と呼ばれるSKYPEというインターネットを使った国際電話ができ、簡単な機器さえあれば世界中の人々と簡単に会話が出来る時代へと突入してきている。電話やネットの進化によって世界は確実に短くなってきている。これらはたった30年余りで成されたものである。時間の短縮が技術革新により交通、通信、日常の生活など様々な世界で起こったことによる。技術の進歩は世界の周期を確実に短縮している。現代の技術革新は18世紀の産業革命の時にかけた歳月よりも短い。これらは更なる技術革新によってある地域で起こった革新は一瞬で世界に広まることになる。時間の短縮は過度の消費や量産の促進を促す。大量生産、大量消費によって出る有害物質による環境問題は非常に重要である。高度成長期においても様々な公害問題を日本は起こしてきた。水銀の流出や工場排水による水俣病、イタイイタイ病などである。そして、更に進むと考えられる生産と消費は世界にとって共通の新たな問題となる。情報の発達はこのように日本だけではなく世界という概念で考えることができるようになったことを示す。GOOGLEでは翻訳システムなどが発達し、英語がしゃべれなくても外国のサイトを見ることができるようになった。これによってますます国際化は進むことになる。日本の国際化の問題点は英語ができないということであったため、この翻訳によって市民レベルでの情報の共有が促進することになる。
世界を隔てるもの
世界は一つになるといっても、東京からいきなりロンドンなどにいけるわけではない。日本のアニメであるドラえもんなどではどこでもドアという一瞬にして世界の何処にでも行けることのできる発明品が存在するがこれらはあくまでも架空のものであり、人間は物質なので一瞬で地球の裏側に行くことができるということはほぼ不可能である。ここに全ては一つになるといっても隔てるものが存在することが理解できる。上海から南アフリカへ行くにも航空によって移動の時間は短縮したが、その地域の人と違う場所に行く人々が実際に会って話したりするのはSKYPEなどで繋がりが可能になったがその人の匂いや完全な姿までを知ることはできない。実際に現地に行かなければ知ることのできないことは未だに多くあるのである。移動するには時間というものがかかる。それは遠ければ遠いほど時間がかかるのである。しかし、情報の共有ができるのは世界の富裕層のみである。
隔てざるを得ないもの
アフリカは世界の大陸の中でも特に貧困に陥っている国々が多い場所である。パキスタン、イスラエルなどの中東もまたいまだに情報化の恩恵を受けているとは言えないが、情報化にとって最も必要なものである携帯やパソコンを持つことができるのは先進国にいる人間である。ほとんどの途上国の人間はこれらの通信機器を持っていない。そして、情報を促進させる為のインフラも整ってない。アフリカのシリア、ルワンダなどは未だに戦火の中にある。特にソマリアなどは政府自体がアルカイダのような国であり、国レベルで拉致などが行われている。これは北朝鮮の拉致問題と同じことを政府レベルで行っている。特に世界でも中東、アフリカ北部、中部は危険であると言われている。中東やアフリカの地域には戦争もさることながら道路などの基盤も、または衛生上でも問題がある。特にアフリカでは夜になると真っ暗になり、何も見えなくなる地域が非常に多い。特に日本人はアメリカ人やヨーロッパ人と違ってアフリカに来ることがあまりない為に非常に目立つという。そして、この地域は貧困、戦争、宗教間の隔たりによって資本主義が民間レベルでは流入してこないこと、資本主義社会の最下層に位置することがこの地域のグローバリゼーションを妨げる理由となっている。アフリカは先進国の産業システムの最下層に位置する場所であると言っても過言ではない。特にアフリカはほとんどの地域がヨーロッパの植民地であった。アメリカやフランスに黒人が多いのはこのアフリカという地域から強制的に連れてこられた為である。黒人差別が未だにあるのも、肌の色だけではなくて白人の奴隷であったことが影響している。特に中東では女性差別が未だに根強く残っている。21世紀を迎えても、人種差別などの問題は完全には解決されてはいない。
アフリカは何故資本主義の最下層に位置しているのであろうか?
何故資本主義の最下層に位置しているのかは植民の歴史が示している。「愛と悲しみの果て」というアメリカの映画がある。白人によるアフリカの植民支配を背景にして描かれた映画である。しかし、この映画はアフリカの実情を完全には描写していない。アメリカ向けに作られた映画である為、アメリカの植民地支配を完全には描写してはいない。資本主義のピラミッド構造の最下層はアフリカにあるのは先進国の利益追求によるものである。例えば、大企業がチョコレートを生産して販売して利益を得ようとすると何処でその経費を削減するか考えてほしい。勿論、この製品の開発はほとんど外国で行われている。何故なら自国で人を雇うよりも開発途上の国で雇った方が絶対に安いからである。中国やインドが何故世界中の企業が進出し、製品を作っているかと言うとアメリカ、ヨーロッパ、日本の約10分の1の給料で人を雇えるからである。アフリカでもこれと同じことが言える。植民地時代ではアフリカの人々は奴隷として雇われていた。勿論のこと給料はほとんどない。食糧や住まいが与えられるだけで人間としての生活は保障されてはいない。先進国はチョコレートを手に入れる為にマカオ等の原料が必要である。その為には広大な土地を使ってマカオを栽培する場所が必要であり、それがアフリカであった。先進国の企業が利益を出す為には経費をできるだけ落とす必要がある。その為、アフリカの人々は原料を大量に栽培するがそれらで得られる収入はほとんどない状態である。現在のアフリカでは未だに植民地の名残を利用して先進国では考えられないほどの安価な給料で人々を雇っている。これが貧困のシステムであり、資本主義の最下層に位置する理由である。イギリス、日本、アメリカの先進国の人々は勿論これらをほとんど知らされることなく生きている。これらの実情をよく知っているのは経営陣や政治家達である。そして、先進国はこれらを黙認しているのである。
アフリカは貧困、宗教、民族間の問題によって紛争の絶えない地域である。これらは資本主義社会が作りあげた最下層民とも言える。最下層民は封建主義国家には必ずあるものであった。貴族、農民、市民、武士などは階層化されて国家が成り立っていた。これらの人々に問題を起こさせないようにする為に最下層の階層を敷いたのである。日本ではえた、ひにんと呼ばれた。これらに位置するのは犯罪者や奴隷などに位置する人々である。何故このような最下層を作り出すのかというと階層性社会では必ず問題が起きてくる。自分達はなんでこんな苦渋をあじ味あわなきゃいけないのかということを言う人々が出てくるのである。これらは多くは農民であった。農民一揆などは飢饉が起こった時には頻繁に起きるものであった。それを解決する為に通常置かれた階層に最下層を作る必要があった。そして、自分より下がいるのだと思わせることで暴動や反乱などを起こさせないようにするという効果があったのである。奴隷は雇用としても費用がかからない為先進国にとってはなくてはならないものであった。アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどの国は自国では確保しきれない資源を外国に求めたのである。それも自国以外の地域を植民地化することによって原住人を使い、食料、原料、人を物として大量に持ち込んだ。それが自国において利益を最も出すことができる方法だったからである。事実黒人は物として扱われ販売されていた歴史がある。これらはアフリカが資本主義社会の最下層に位置することに関係している。彼等はほとんどの場合、先進国に見られるような教育を受けていない。教育がなければ文字を書くことも、高度な技術を必要とする仕事に就くことはできない。紛争のある国では兵士として7歳~10歳ぐらいの子供達が兵士として使われている。彼等は隔てざるをえない人々である。このような地域の人々は資本主義社会の情報を知ることも制限されている。知ることのできるのは支配者階級だけである。紡ぐものと隔てるものとは現実世界が情報により繋がっていること、大量生産、大量消費を生み出す物流によって繋がっていることと、隔てるものは必ず人は一人しかいないので複数の場所に共存することができないということ、そして、宗教や国家間での地域性によって隔てられることがあるということである。これらは情報化時代においては錯覚を生み出すことがある。行ったことのない場所に行ったようになることは情報化における疑似体験である。これらは非常に危険である。実際に行ったことのある場所と知っている場所では全てが違っているとは言えないが、それらはその風土の風や匂いや触れることのできるものを感じないままそこにあたかもあるような感覚に陥ってしまうことがある。これが情報化時代に陥ってしまう弊害である。
第一に隔てるものは物質間の問題である。人は必ず一つの場所いることしかできない。同じ人間が複数の場所に存在することは物質間ではありえない。例えばシンガポールにいるサラリーマンが、シカゴ、インド、フランス、ロシアに存在することは不可能であった。しかし、世界に同時にリンクすることが不可能であったことを可能にしたのが情報化である。パソコンや携帯を通せばこれらの共存は可能になる。現代社会は一つの場所に存在しながら、複数の場所に繋がることができる。だが物質間では人は一つの場所にしかいることができない。実際に移動する際には交通である航空を介する必要がある。隔てることなく繋がるにはこの情報と交通の要素がなくしてはこれらを成し遂げることは不可能であることを自覚しなくてはならない。
物質間の航空の発達による時間の短縮。情報化による情報の共有。
航空や情報化は紡ぐものと隔てるものをよりなくすことのできる非常に重要なものである。そして、世界はこの2つの要素の発展によってより世界に共通の価値観を持ち込むことによって資本主義を促し、貧困を救うことができる効果も持つ。資本主義が進めば進むほどその国の飢餓はなくなっていく。これらはインド、中国で証明されていることである。しかし、国家間や宗教の隔たりによってこれらの流れが遮られているのも事実である。均質化には欠点だけではなく利点も存在するということも私たちは自覚しなくてはならない。
第二に隔てるものは宗教や地域性である。宗教や地域性によって共通の意識を認識させるものは加速度的に進んでいる。そして、これらは均質化を生み出す。宗教や地域性と言ったものはこれらを妨害することもあるが、そこにしかない場所を生み出す力も持っている。アルカイダなどの地域はこれらの個々の場所としての力を国際様式と共存することが困難な場所であるが、地域性による隔たりと資本主義社会の和解が進んで行けば全世界規模で国際様式とその地域独特の文化を併せ持つ場所が生まれるはずである。人々が均質化することなく、お互いに国家間を越えて理解する為には国際様式と独自の文化との共存が必要である。均質化だけが進み、同じ価値観だけを植え付けてもそれでは機械として量産されているだけである。共存と個別化は両立が可能なものである。そして、何よりも世界標準、地域性、個人の共有を行うことが大切であることを忘れてはならない。
11.生と情報のはざまに
情報化によって都市が発展すればするほど人間の機械化は進んでいき、精神の衰退が起こる。活力を求めようとすれば今度は資本主義に支障が起きていく、現代社会には見えないはざまが存在する。
人々が活力を持ちながらグローバリゼーション、資本主義の中で生きていくにはどうしたらよいかというのが本書の目的である。人間とは本来は理性と感情でできている。哲学者であるラ・メトリーやデカルトが言うような人間機械には本来は人間が活力を持つ生き物であるならばならないはずである。しかし、日本の現状は豊かになればなるほど個として、人間として弱くなっていく。経済大国になり、世界でも有数の国になったことによって、国家主導であっても夢を追うこともなく、ただ生きていければいいと考える人々で満ちている。これらはイギリスでも同じである。事実目的を失って働くこともしないニートは日本でもイギリスでも非常に増えている。現代社会は確実に人々までもが製品ラインの中で製造されて資本主義社会の中で歯車となり動いている。正に人間が機械になっている時代である。機械は使えなくなれば代わりの歯車に代用すればいい。自分は国際様式、世界共通の価値観を植え付けるこの様式は本当に正しいのであろうかと真剣に思っていた。世界で最も巨大な産業である建築の世界をとうして、この国際様式という同じものを、同じ材料を使って、地域を関係することなく普及するという行為は間違っているのではないかと真剣に考えていた。建築は最も大きなものである。勿論のこと全てを包み込む。人、テレビ、携帯、パソコン、ベッド、風呂、トイレ、台所などは全て建築と同じものであると言ってもいい。勿論これらは相互に作用する。新しい革新が起きれば建築も変わる。そして、建築が変われば人の動きも変わるのである。これらは相互作用のもとになりたっている。人は理性と感情で構成されていると言われている。理性は合理性や効率性を重んじること。それでは感情とは何を表すのであろうか?感情は人間に喜び、悲しみ、怒り、嘆きなどを刺激するものである。これらは国際様式では芸術、服飾、絵画や彫刻によって解決されるべきものであった。しかし、資本主義の進んだ国家での人々を見れば均質化が進み個人としての力もまた弱くなっている。これらは結果であり、理想は理想である。結果として何かしらの要因を理由にして人々は弱くなっている。その何かしらの理由は建築にも必ずあるはずである。ウィンストン・チャーチルの言うように建築は人が作るが最後は建築が人を作り出すこともあるのである。それでは、この新しい時代には何が考えられるであろうか?時代にはそれに適した様式がある。機械時代には機械時代の様式があったように情報化時代には情報化時代の様式が必要である。
新しい世界を切り開く様式
二一世紀の新しい様式として挙がっているのが機械と自然を融合させるという概念である。元々、人間は洞窟の中で生活していた。狩猟で生活をしていた原始時代は周りの環境は全て直角や直線がない自然形態であった。ならば人々が本当に落ち着くのは自然の造形や自然がある場所なのではないかというのが日本の現代思潮として流行しているものである。これらは伊東豊雄建築設計事務所、佐々木陸朗、藤森輝信などの現代建築思潮を作っている人々は機械と自然の融合を提唱している。しかし、自然形態を使用することによってできた建築は通常の規格化された部材を使うよりも何十倍の建設費用がかかる。今後二〇年後、三〇年後の中国、インドの台頭を見ると、イスラム建築や中国の屋根など、東洋の建築は得てして自然形態になる可能性が高い。新しいグローバルスタンダードは中国、インド、日本、韓国、台湾などの東洋を中心としたものに移り変わっていくと考えられるので今後アメリカに代わって超大国が変われば国際様式と呼ばれたものにも変化が訪れるはずである。特にヨーロッパやアメリカで始まった国際様式は東洋の文化を引き継いだとは言い難い。それは東洋という国がまだ国家としての力がまだなかったからである。国家権力は世界の文化を作り出すものとなる。イギリスがまだ大英帝国として世界の4分の一を支配していた頃はイギリスの力が絶対的であり、文化や技術などが世界標準となった時代があった。だからこそ英語は中国語と同じく世界で最も話されている言語となったのである。超大国の文化は世界に伝道して伝わるのである。そして、イギリス後の超大国はアメリカであった。国際様式はアメリカで生まれたものである。特に金融システムはロスチャイルド家などの台頭によりイギリスが金融システムを世界標準にしたものである。世界は基本的にはその時代の超大国の影響を受ける。現代においてもイタリアの新米派の務める二コラ・サルコジが大統領を務めるイタリアもまたアメリカの政治システムの流れを色濃く受け継いでいる。特にヨーロッパの国々はほとんどがアメリカの政治システムを参照していることが分かる。超大国の模倣は世界中で行われるのである。
西洋の様式と東洋の様式の統合
新しい時代を読んで行けば新しい時代は中国やインドに変わっていく可能性が高い。次なる超大国から様式が受け継ぐものがあるとするならば考えられるのは建築ではインドのイスラム建築や中国の左右対称を基調とするような象徴性を重要視する建築であると考えられる。そして、現代の日本の建築思潮は新しい時代に非常に近いことを行っている。このようにして超大国の流れを読めば、未来もまた予測することができる。これらに必要不可欠なのが情報や航空という概念である。新しい国際様式は西洋と東洋が入り混じる世界になる。それは情報化という概念を踏まえなければ話にならない。古来より様々な技術革新により建築もまた変化してきた。産業革命以降、鉄やガラスが産業に使われるようになったのを経緯にして鉄、ガラス、コンクリートでできる近代建築が20世紀初頭に確立された。自動車、電車、飛行機などの交通の進歩によって都市が変わったのである。このようにして建築は社会を映し出す鏡となっている。そして、国家間を超えた21世紀の建築を作り出すのは航空と情報化である。事実自動車業界は変化を遂げてきている。アメリカの外資系証券会社であるリーマン・ブラザーズの破綻によってアメリカ経済は転換期を迎えようとしている。特にブッシュからオバマ政権へ変わったことにより政治的な意味でも様々な分野で転換期が訪れようとしている。時代の節目には必ず革新が起こる。台頭するものがあれば、衰退するものがある。自動車は想像を絶するほどの経済危機に陥っている。アメリカを代表する自動車会社であるフォード、ゼネラル・モータース、クライスラー等のビック3企業は経営危機に陥っている。特に都心の若者層を中心にして購買率が減少している。また新聞もまたITというメディアの台頭によって苦境に陥っている。時代の節目には必ず、台頭と衰退がある。
デザインは情報によって構成される。
情報化によって国際様式が変わっていくとするならばパソコンを使ってデザインを行う先進国の人々に当てはまる。彼等はパソコン上の膨大な情報を使用してデザインを行う。そして、素人でも気軽にデザインを知ることができるので模倣をすれば簡単にある程度の外観的なデザインを行うことができる。デザインもまた膨大な情報により成り立っているのである。これらは文学作品等を作り出す作家、ジャーナリストにも言えることである。彼等は現代ではパソコンを利用してデザインや執筆を行うようになっている。過去には膨大な時間が必要なものでも、今では容易に取り出すことができる。ひとつの場所にとどまりながら、複数の場所で作業を行うことができるようになってきたのである。これらは航空と情報の更なる発達によってより合理的に加速度的に経済活動が行われることになる。航空と情報が更に発達して行けば紡ぐものと隔てるものがなくなっていくはずである。しかし、人間が移動する時には時間を必ず使わなければならない。日本からロンドンへも移動時間が10時間以上かかることからも時間の弊害は地域間を移動する上で最も隔たりのあるものである。交通の時間の短縮は今後縮小していくと考えられるが、宗教間や国家間の問題が解決されれば、グローバリゼーションが進んでいく上で最も問題となると考えられるのが地域間を移動することが最も大きな隔たりとなる。
情報の中にある「自然」と「宗教」
情報化による利便性の章でも述べたが、パソコンや携帯などを使用することによってデザインまでもが情報によって形成されている。パソコンもまた膨大な情報によって成り立っているからである。これらは細分していけば半導体といった膨大なデータが詰まった部品を合わせることによってできているのである。情報化は無論のこと均質化を促進するものである。そして、デザインを行う際にも使うツールは世界でも共通のものである。イラストレーターやフォトショップなどがある。アップル社とシスコシステムズというシリコンバレー有数のソフトウェア制作会社が協力をして開発したもので、この2つの革新的なデザインアプリケーションは非常に便利なものである。デザイナーはウェブデザイナーであっても、家具デザイナーであっても、建築デザイナーであってもパソコンを使う限り、ほぼ共通のデザインツールを使ってデザインを行っている。グーグルアースを使い敷地を調べ、グーグル、百度、YAHOO等の写真を使い、デザインアプリケーションを使用してデザインする方法が現代様式と言ってもいいものとなっている。デザインは情報の集合であるという定義は現実のものとなりつつある。超大国と流行の変化を見れば東洋で見られる機械と自然の融合、イスラム建築、中国建築に新しい世界共通の様式が見えてくる。それではこれらに共通するものは「自然」と「宗教」である。自然と宗教を密接に繋げるものは人間である。人間は心理学の面で見ても円や楕円などの造形に快適さを求めている。これらは宗教学でも絵画などに表れている。特にアジアで見られる仏教寺院にある描画である曼陀羅と呼ばれるものは、全てにおいて円を書いている。円は人々において最も美しいものであるとされているが、これらは人間が円というものに安らぎを抱く為だと言われている。特に曼荼羅は医療でも使用されているものである。これは人間が類人猿の頃から見慣れてきたものであるからと考えられる。自然形態には量産に適した直線や直角の規格品等はほとんど使われてはいない。これらの造形は近年、世界規模で見られるものである。自然、細胞などを表す造形が世界で見て流行している。特にドバイなどの新興国の国を見ればそれらの造形が多々使われ始めていることを理解することができる。生命と情報は二一世紀を送っていく中で絶対に必要なものである。どちらも乖離しては行けない。より良い生活を求めるがゆえに資本主義は世界中に政治、経済、文化、食品、生活用品、乗り物において絶対的に必要なものとなってきている。資本主義はより効率よく、より機能的で、より豊かな社会を与えてきたが一方で失ってしまったものがある。一九八〇年代に入り、パソコンや携帯が先進国の人々に必需品となっていく中で産業革命以降の私たちの生活はグローバリゼーションという世界規模での情報の共有によってより均質化が進み、膨大な情報、大量生産、大量消費によって流通の速さが異常なまでに進んでいき、都市や国家の在り方でさえ、資本主義、情報化という流れに逆らえずに飲み込まれてしまっている。
生と情報のはざま
均質化というものは価値観の共有でもある。情報化が進むことによって私たちの生活はより迅速に、より快適な生活を送れるようになったのである。人々は同じ場所にいながら複数の場所にいる。先進国社会は複数の国家と繋がっているのである。現代では資本主義、情報化が進めば進むほどはざまができて失うものが存在する。失うものは活力である。人々の力、個人としてのエネルギーとも言っていい。戦後や戦前の私たちの親や祖父などを見てみれば彼等の若年の時に比べれば確実に国家としても、社会としても元気をなくしていっている。これらは資本主義社会や情報化というものが確実に関係している。人々に及ぼすものは相互作用のもとに影響しあっているからである。人間の生と情報にははざまが存在している。情報化が進めば進むほど、グローバリゼーションというものが世界規模で構築される。情報化によって均質化が進むほど人々の活力は弱くなる。
だが資本主義社会は確実に豊かさをもたらすものである。経済発展の結果を見れば社会主義というものとどれだけの差がついたことであろうか?資本主義、グローバリゼーション、情報化は人々にとって物質的な豊かさを与えるものである。しかし、人々の心や精神に活力を与えないという副作用が存在する。資本主義社会の国家の形成は現在ではこのような形を辿っている。
「既存社会」、「国家の形成」、「開発途上」、「発展途上」、「先進国」である。そして、新たに加えられるのが「精神の衰退」である。
この段階は国家というものが誕生する上で必要不可欠なプロセスである。日本であっても現在の日本国憲法を基とする日本という国が形成されるまでに過去500年の流れで見れば室町、豊臣、江戸、明治という国家が移り変わって行くことによって形成されている。しかし、国家が形成される時は既存社会といったものに軍事的介入や政治的介入が存在することによって形成されている。江戸から明治政府へと移行する時も戦争は起きなかったが柱小五郎と西郷隆盛を長とする薩長同盟という軍事的圧力があったからこそ坂本龍馬による太政奉還が実現し、天皇を頂点とする大日本帝国ができたのである。新しくできた明治政府は西洋の文化を取り入れて、近代化を推し進めることによってできたものである。現在の日本はアメリカに戦争に敗れることによって成立した国である。日本国憲法等も、アメリカのリンカーンの有名な演説である「人民の、人民による、人民の為の政治」を参照してGHQによって日本国憲法に改変されてはいるが挿入されている。日本はアメリカの力に絶対的に支配されている。それは日本の政府制度そのものがアメリカという超大国によって形成されていったものだからである。敗戦国や植民知となった国々は間違いなく、その勝者である国々の影響を受ける。それは文化だけではなく政治的な部分も含めて様々な分野で影響を受けている。そして、資本主義社会として日本は戦後、類を見ない発展を遂げることとなる。戦争による復興を含めて発展途上にあった日本は、輸出を国家の基盤とすることによって想像以上の発展を遂げることに成功した。
イギリスとアメリカも同様である。
アメリカは1775年に英国領であったアメリカで独立戦争が起きたことによって成立した国家である。しかし、コロンブスがアメリカ大陸に上陸したときはそこにはインディアンと呼ばれる先住民が住んでいた。今ではアメリカは自由と民主主義の国であるが、アメリカという国家が成立するまでには先住民の迫害や追放があったことは否定できない。アメリカは非常に若い国家でもある。国家が形成されてからまだ230年程しか経過していないが、イギリスやヨーロッパなどから自由を求めて移民が大量に増えていったこともあり、ヨーロッパの技術革新や文化などが入り混じる国家であった。そして、先住民、ヨーロッパ各地からの移民、奴隷としてアフリカから強制連行された黒人によって構成されていた。ニューヨークなどを見ても、人種が多様なのはこのような時代背景があるからである。スポーツを見れば人種間の差別が理解できる。黒人が水泳を行うことがほとんどないようにスポーツにもこのような人種間の階層性が未だ存在しているのである。独立戦争、南北戦争はアメリカが国家として完全に機能するまでに起こった戦争である。母国であったイギリスを越える経済大国が形成されるようになるまで既存社会、国家の形成、開発途上、発展途上、先進国のプロセスを必ず経ている。特に元々英国領であったアメリカはイギリスの文化を強く受けている。
イギリスは1000年前にノルマン系民族が従来あったイングランドに住んでいた先住民を追い払うことによって形成された国である。初代君主はウィリアム一世であり、侵略王と呼ばれた。彼はフランス人の母を持っていたので、イギリス人は元々はフランス人の血を引いていたことになる。この国の政治はイギリス国王を頂点とする立憲君主制である。近年ではブレア首相がイラク戦争に参戦などが話題になったが、この国はアメリカ以前の超大国である。かつてのイギリスの力は絶対的であった。特にイギリスは教育や金融においては世界でもトップクラスである。ロンドンなども世界最高の都市として文化、芸術、政治、金融、建築などの拠点となっている。ノーマン・フォスターやリチャード・ロジャースは世界のハイテク建築思潮を作り出すなど、建築や芸術の中心地でもある。特にイギリスは15世紀から世界史に頻繁に出てくる。古くから宗教間の対立などによってイスラム教国と戦争を起こし、隣国であるフランスと18世紀は英仏戦争を起こした。特にイギリスは領土自体がない島国なので、海を出ることによって資源などを手に入れた。特にその植民地は1950年代にも存在していた。インドは17世紀以後、英国エリザベス女王が支配するようになってから完全な英国の植民地であった。ガンジーやネルーが非暴力の独立運動を行い、インドが完全に自治を持つのは1950年代に入ってのことであった。インド人が英語を話せるのもこのような政治的な経緯がある。中国もまたアヘン戦争により香港などは事実上の植民地であった。このようにしてイギリスは他国に自らの文化を介入させ、植民地から資源や労働力を手に入れたのである。17世紀に起きた産業革命の時代はイギリスは世界に最も影響力を持つ国であった。イギリスと同様に、オランダ、スペイン、ポルトガル、ドイツなどの国々は自国にないものを他国に求めることで自国を豊かにしていった。
これらの国家の形成のプロセスは様々な要因がある。そして、国家の形成には必ず既存社会という基盤があり、それらに何かしらの介入があることによって形成されているのである。既存社会、国家の形成、開発途上、発展途上、先進国のプロセスは資本主義社会において国家が発展していく上で必要不可欠なものである。
国家の先進国へのプロセスの中で先進国になった後に辿るものが存在する。それが「精神の衰退」とも言っていい。精神という定義は非常に難しいものである。資本主義社会が浸透し、飢餓や貧困などがなくなる。格差はあるものの、道路、水道、電話、公共設備などが確立していき、大量生産、大量消費社会が当たり前になっていくことにより物質的な資源には困らないで生活を行うことができるようになる。しかし、より豊かになればなるほど、より合理的に、より快適性を求めるようになる。そして、効率化が進めば全ての産業は大量生産に適した自動車のようなレールが形成されるようになる。結果、人間までもがレールの中で形成される。社会が経済というものを求めている為に、より多くの生産性を生み出す人間を求める。よって人間もまた機械と同じレールの中で組み立てられて人が形成されるようになる。その教育のレールでうまく適応できない人々は機械として捨てられていく運命にある。現代社会は人までも機械として扱っている。そして、機械となることで人はより抵抗力や感情をあまりもたないものとなる。これが「精神の衰退」である。進歩が進めば進むほど、資本主義社会が確立されればされるほど「精神の衰退」が始まっていく。日本人やイギリスの若者等にニートや無気力で働かない人々はこれらの資本主義社会の仕組みによって活力がなくなってしまった人々である。人間は目的がなくなれば動かなくなるし、行動も起こさなくなる、与えられたことだけをやるのを社会が良いとする社会では抵抗や強さは生まれない。ましては世界をよりよくする革新が生まれるわけがない。経済効率を求めること、資本主義社会を廻せば廻すほど全世界規模での均質化が起こっていくのである。これは現実のものとして私たちは捉えていかなければならない。
世界を認識すること
活力の低下を解決するにはどうしたらいいか?これらを政治、文化、医療、広告、建築など身近な分野で解決する為には?それは私たち自身が社会構造を認識することが大前提である。知っていれば抵抗も生まれるし、打開策を探そうとするはずである。だが大抵の人々はこれらを知ることはない。何故ならほとんどが自分の歩くレール以外から出ようとしないからである。資本主義が作り出したレールは人間にも敷かれている。レールの上を歩けば周りの人々が歩んできた道を歩んでいくことができる。そこを歩くことは悪いことではない。しかし、決められたものしか知らないということによって自分たちが産業構造のレールの中を歩き、大量生産、大量消費されていくことを理解できはしない。だがレールの外はとてもじゃないがいいものではない。中退者、落ちこぼれ、ニートなどはこのレールに入れない人々である。彼等の存在を実際に理解する人は少ない。だが彼等は資本主義に支配されなかった人々でもある。彼等は産業に新しい構造を作り出す可能性を持っている。そして資本主義社会人々は量産化されている。同じ価値観を持った人間で固まり、教育、社会、地位、検索などによって確実に階層化されているのである。大体の人々はこれらの階層に留まる事で一生を終えていく。この階層性はヨーロッパの階層社会に続く、資本主義社会の階層性である。現代社会では階層性を元にして人々は大量生産、大量消費されていく。そして、豊かになればなるほど精神の衰退が起きる。このままの資本主義社会が全世界規模で進んで行けばアメリカ、イギリス、日本などの国と同じような結果となり、豊かさの中で生きる目的をなくして仕事もしなくなる社会人やニートが増えていくことになる。活力の低下は国家の衰退をもたらすものである。資本主義社会、グローバリゼーション、情報化には利点もあるが人間の機械化という問題点がある。今後インド、中国、ブラジルなどは先進国化し、同じ道を辿る可能性が高い。
12.活力とは何か
人々にとっての活力とは何か?
人々がより元気で、いきいきとした生活をするにはどうしたらいいだろうか?何が活力を表していて、何があらわしていないのかを定義するのは大変難しいことである。ここでは年代で見ていきたい。日本の10代、20代の若者を見ているとほとんど目標大きな目標を持っていないことが分かってくる。ただ好きなことができて暮らして行ければいい。別に今の生活には満足しているし、何もそんなに必死になって努力することもないじゃない。彼等から帰ってくる答えはこのような返答が多い。そして、資本主義社会にも確実に存在している階層性の中で若者達は同じ階層の人間と寄り添い、同じ価値観を共有しながら生きている。階層性とは一種の敷かれたレールである。現代の資本主義社会は発展すると完全な分業を行う工場と化している。そこでは人間が機械となって生産されては社会という製品の流通を通り定年まで社会の流通の中で歯車として動き、古くなったら交換される。特に10代、20代の若者達はある意味資本主義社会が完成されきった中で生きていることによってより機械として生きる人間が多くなっている。彼等は感情をあまり持たない。ある意味感情を持つことは生産という観点から社会構造を見ていけば支障をきたすからである。
それでは日本の50代、60代の人間を見ていこうと思う。彼等は確実に目的を持っていた人間が多い。特に国家レベルにおいていかにして日本経済をいかにして成長させていくか、アメリカに追い付け追い越せという明確な目的意識を持っていた人々が多いので彼等は私たちから見たら確実に元気である。元気というのは行動力を見ても50代、60代の人々は活力があると言える。彼等は明確な目標を持っていたため、日本を成長させていった日本で最も貢献した人々である。特に団塊の世代などは日本国を世界の経済大国にしていった原動力である。ここに目的というものは非常に重要であることが分かってくる。人々が考えることが現実になると言ったのはナポレオン・ヒルという成功者に関する研究を行った人物である。人は自分が考えているものよりも大きなものになることはないと論じた。確かにそのことを考えなければ行動をしないのは当然のことである。
何かを起こそうという目的がなければ大きなことを成し遂げることはできない。プロスポーツの世界でも同様である。テニスで世界的なプロテニスプレーヤーになろうとすればアメリカ、スペイン、オーストラリアなどのテニスクラブに行かなければ世界で闘うのは難しい。しかし、行かなければプロになる目的を成し遂げることはできない。ここに目的の存在がある。目的とは思考すること、目標を持つこと、夢をもつことである。お金でもいい、スポーツでもいい、恋愛でもいい、権力や地位であってもいい。目的を持つことによって行動が生まれ、そこに活力が生まれるのである。日本の若者に元気がないのも強い目的がないからというのが理由にある。自己実現の権威であるロビン・シャーマの著書でも大きな夢や目標を持つことが人生において重要なことであると言っている。現代において大きな目的を持てば、目的が違えば行動が違う。その中で大きな目的を持つとそれを持たない人々との隔たりが生まれるのを感じることになる。共同作業において価値観が違うということは人間関係を作っていく上で支障をきたすものとなる。しかし、全ての偉大なものは大きな目的から成し遂げられることを忘れてはいけない。周りに合わせれば楽であるが、新しい革新は生まれることはない。周りと同じことをしているのであるから当然のことである。まず重要であることはどんな人でも目的を持つことによって活力を得ることができるということである。そして、できるだけ大きな目的を持つことが重要になってくる。資本主義社会の完成された国に住むことはこの目的を失わせる要因ともなる。国家レベルでの目標の共有があることによって日本は高度成長期に乗って世界の先進国の仲間入りしたことを忘れてはならない。
全ての行為には目的が存在する。
全ての自然物や人工物には目的があると哲学では言われている。これを目的論という。アリストテレスやカント等が提唱したものである。人間だけではなく全ての自然や人工物は目的を持って形成されているという見方である目的論を提唱したのはアリストテレスが始めであると言われている。プラトンもまた物質や思考は目的を持って成り立っていると言っていたが、目的論として体系化したのはアリストテレスである。哲学の世界においてこれに対立するのが機械論である。目的とは人間の機械化を打開する方法論でもある。目的がない人間は活力もないはずである。ただ生きる為に最低限の事だけをして生きることはもはや生きることではない。機械である。機械は冷たくなって最後には錆びて交換されることになる。物質や自然物が目的を持っているというものは機械を打開するものである。目的を持つことによって活力が生まれ、人々がより心からの豊かさをもたらす。肉食動物が他の動物を食べるのも生きる為である。彼等は人間社会のように複雑ではないが、獲物を仕留めなければ家族を養っていく事ができない。チーターやライオンが他の草食動物よりも速く走ることができるのは獲物を狩る為である。そして、地球に水があるのも地球の温度は水素が水になる為の適温であるからである。水は生命を生み出す。このようにして考えると自然物や動物などは目的を持っているから形成されていることが分かる。目的は万物を構成する上で非常に重要であり、これらは人間にもあてはめて言えることである。
誰の為の正義か?
一つ目的論としての例を出してみる。現代において一番重要な観点は宗教間の戦争である。宗教間の戦争は何故起きるのであろうか?パキスタンが世界の火薬庫と呼ばれるのは何故だろうか?それは冷戦が原因にある。ジハードとは聖戦を表す言葉である。聖戦は古来よりイスラムの聖地イスラエルを巡る争いをしてきた。この闘いを聖戦と呼ぶ。イスラム教を冒涜するものに対して行う戦争を彼等はジハードと呼んできた。イスラム原理主義者達が聖戦をアメリカに仕掛けるのは自分たち以外の侵略者から自国、イスラムを守る為である。ここに彼等の目的が出現する。動機はいかなる動機であっても人を行動に駆り立てるものである。二〇〇一年九月一一日にワールドトレードセンターがテロリストたちによって崩壊したのもイスラム原理主義者達がロシアからアメリカに標的が変わったからである。彼等は自国の為の聖戦を仕掛ける為に入念にニューヨークに下見にきている。これらはすべて動機があったからこそ行われたものであった。パキスタンが火薬庫であるのもアメリカとソ連の冷戦の為にパキスタン等の中東が戦場になった為である。この地においてアメリカはCIAをとうして大量の武器供給が行われた。これもまた対ソ戦争の為に武器を大量に送ったからこそこの地は世界の火薬庫と呼ばれるようになったのである。目的は人々に行動を促す時に重要なものとなる。目的なくしてこのようなブッシュがテロとの戦いと言った宗教戦争が起こる筈もない。特にイラクを侵略したのはイラクが世界でも屈指の石油産出国であったことも要因であると考えられる。サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦の中東に石油が集中して存在する為、経済を循環させる為になくてはならない中東を巡って冷戦時から争いが起きていた。特にイラク戦争によってアメリカがこの石油資源を完全に独占して使用できるというメリットは戦争を起こした裏の事情でもあったに違いない。戦争は起こすべきではないが戦争もまた目的を持ってして行われる。 これらは自国の利益の為に行われるものである。
社会構造の目的
また現代の教育が幼稚園から始まり、小学校、中学校、高校、大学というシステムができているのも資本主義社会、経済効率を考える上でより合理的な形で大量に生産性の高い人材を輩出する為に行われているものである。このような教育は階層性に分かれた人間を大量に生産する役目を持っている。第一に人間の機械化はこの教育から始まっている。生産性、経済性、合理性と言った資本主義社会にはなくてはならないものが重視されて現代の教育システムが出来上がったのである。
流通や労働力関しても同じである。アメリカや日本などに中国やインドの外国人労働者が増えているのも10分の1の給料で働いてくれるからである。同じ労働力なのだから外国人を雇った方が得であるからである。流通にメイドインチャイナやメイドインインド等が記名されて外国で製品が作られるのも労働力や資源を使うさいに自国で製造するよりもはるかに安価であるからである。
良い事であれ、悪い事であれ目的は行動を促す要素となるものである。動物の3大欲求は食欲、性欲、睡眠欲である。基本的にはこれらを基にして行動を起こす。そして、資本主義社会が完成され、先進国となった場所はこれら全てが何不自由なく手に入れることができる。東京であれば何処に行っても食品は手に入る。格差間の問題は存在するようになったがコンビニエンスストア、スーパーマーケットに行けば簡単に入手できるものである。また睡眠する場所なども大部分の中流階級に生まれれば簡易に手に入る。性までもがパソコンなどの情報や都市圏には大量の人間が集まる為にクラブや風俗と言った場所で大量生産、大量消費の名のもとに頻繁に行われている。本来の動物であるならばこれらの欲求を満たすために行動を起こすが、満たされてしまった先進国の人々は行動をあまり起こさなくなる。よって人間としての力が弱まるのである。先進国では高い目的を持つことが行動を起こす為に重要なものとなるが、この目的を定めることが教育においても難しくなっているのである。だが高い目的を持つことはできるはずである。
欲求を超える目的
動物の3大欲求が満たされている中で人々は欲求を超えた目的を持つべきである。志ともいっていい。世の中の発明はほとんどが人々の為に何ができるだろうかという個人を超えた夢や志から生まれる。そこには自分だけではなくて、たくさんの人々が願っているものだからである。権力や金などを求める野心は一代で終わるが人々の為に何かを成し遂げようと思う志は次代に繋がる。世の中は螺旋である。イスラム教のように神様が存在するとはあまり信じられないが世の中は輪廻するものであると思っている。どんなに若い人でもいつかは老いて死んでゆく。これらは絶対に逃れることはできないものである。そのわずかとも言える一生の中でいかにして人々の為に生き、いかにして後世に繋ぐかが大事なことである。そこには大きな目的が生まれる。そこにあるのは楽しいことばかりではないが笑顔、怒り、嬉しさ、苦しさが待っているはずである。しかし、そこに訪れるのは人間の活力、その人の人間としての力である。
完成されてしまった先進国の人々の人間の機械化を防ぐ方法は目的を持つことである。生活をする以上、現代において規則には従っていかなくてはならない。ただ従うだけでは部品と何も変わる事はない。そして、大きな目的を持つことは人々に個人の能力以上の活力をもたらすものである。考えなければ人は行動しないからである。これらは単純であるが、現代において失われつつあるものでもある。本来なら教育を持ってして行うことである。何よりも人に教える教育者は高い目的を持つべきである。成長や活力のない指導者には誰も付いていかないのは当然のことである。
高い目的を持つことは人を変え、高い活力をもたらす。目的を持つことは人に活力を与えるものである。だが目的を持ち行動することは社会などの現状を知らなければ行動しても無意味である。その為には世界を正確に認識することが重要である。確かな情報なくして行動しても失敗に終わる事は眼に見えている。必要なのは正確な知識を持って高い目的を持つことである。
13.おわりに
人々が活力を持ちながら資本主義社会を生きる上で必要なものとは?
それは「国家」、「全球化」、「多様性」、「情報化」、「航空」。
これらを「認識」し「目的」を持つことである。
国家、全球化、多様性、情報化、航空という概念は様々な章で述べてきたが現代社会にとって非常に重要なものである。これらは互いに作用しあうことで成り立っている。全ての産業は互いに影響し合っているのである。自動者ができれば交通も変わり、交通が変われば建築も変わる、建築が変われば生活用品の在り方も変わるはずである。全ての産業は相互作用を伴って共存している。完全に乖離したものなどはほとんどないはずである。特に現代の状況を認識すること。その上で自分は何をしていくかという目的を持つことが重要なことである。目的は考えることであると言ってもいい。正確に世界を認識することがなければ行動しても無駄な労力で終わる。社会におけるほとんどのものは時代の流行などに影響されているからである。そして、何よりも考えること、目的なくして行動は持続しないし、人々のいきいきとした姿を見ることはできないはずである。目的を持つ人は50代、60代になっても眼の輝きが違う。特に目的は大きければ大きいほど行動にも変化が起きる。大きな目的を持てば現実とのギャップに挫折することもあるが、目的を持ち続けることである。それらは地位であっても、金銭面のことでであってもいい。「認識」と「目的」を持つことは現代を生きる上でも非常に重要なことである。
様々な製品のレールの上を歩くように人間が量産される世界。それらは現実のものとなろうとしている。現代の世界標準はアメリカやヨーロッパなどか形成される資本主義である。資本主義の影響力は絶大でこれに抗おうとすれば国際的な観点から見ても世界で渡りあうのは難しくなる。現に台頭している国々は全てアメリカやヨーロッパと友好関係を結んできた国々であるからである。中国、インド、メキシコ、ブラジルなどの国々もまた資本主義、グローバリゼーションに適応してきたからである。経済の力はその他の物を覆いつくしてしまうほど絶大で人間までもが経済効率の中で生産されるようになってきている。そして以下の5つを認識することが重要になってくる。
第一に国家。国家は超大国による絶対的な影響力と、戦争や植民による文化の伝達である。超大国の力はスペイン、イギリス、アメリカの流れを見ても世界に影響力をもたらすものである。そして、戦争や植民によるものも世界を覆い尽くすものとなる。戦争や植民はその地域を変える大きな要因となる。これらは現在の世の中が資本主義で支配されている限り逃れられないものである。国家間の政治的な影響力は時に全てを飲み込んでしまう。現代はアメリカの一極化は薄れてきて、中国、インド、ブラジル、ロシアなどの力も強まっている。これらの諸国から新しいグローバルスタンダードができることになっていくと考えられる。アジアの影響力が強くなることによって環境問題が進み、西洋と東洋の文化が交われば、自然と宗教はスタンダードを作る上で重要なものとなる。
第二に全球化。グローバリゼーションであるがこれは1980年代に流行したものである。特にグローバリゼーションの研究家である社会学者サスキア・サッセンは世界都市は貿易、文化、移民などによって相互に関係し合って存在していると言った。これらはロンドンや東京などを見ていると理解できるように先進国社会というのはもはや他国のものが存在しない限り都市として機能することがなくなっているのである。それらは食品を見れば明らかである。ペットボトルでさえも外国で作られている。しかし、均質化は共通の価値観を生み出すことでもある。グローバリゼーションや情報化によって人間までもが量産されていく現象が起きている。
第三に多様性。文化、地域、種族、言語、宗教は様々な分野で影響を及ぼすものである。多様であると言う事は生物学的に見ても重要なものである。文化はそれぞれの国の伝統や習慣などを指す。地域とは場所にしかないものを指す。その場所にはその場所しかないものがある。種族は人種の事を指す。世界には様々な人間がいる。白人、黒人、黄色人種などである。言語は英語、ヒンドゥー、スペイン、中国、日本、ポルトガルなどの言葉を指している。宗教はその地域独特のものである。これらはキリスト、ヒンドゥー、イスラム、仏教だけではなく世界中には多くの宗教が存在する。多様性は全てそのものにしかないものを指している。一方で隔たりや争いを起こす要因ともなる場合もある。グローバリゼーション、資本主義の時代には共通の価値観を共有することが非常に重要であるが、その場所だけにある地域性、個人の趣向や価値観といったものを共有すべきである。言い換えれば世界共通の価値観、地域性、個人の3つを共有することである。
第四に情報化。金融の改革や交通によって世界の仕組みが変化するように情報化によっても世界は様々な分野で変化することになる。情報化はパソコンの発明と共に爆発的に世界中に広まっていったものである。これらウェブにも第3段階の進歩が見られている。ウェブ1.0、ウェブ2.0、ウェブ3.0である。特に検索エンジンによる新しい階層性は情報化が進んだことによって新しく形成されたものである。情報化は世界規模で共通の価値観を広めることに貢献した。今後もまだ情報化革命は世界中に浸透していくことになる。そして、情報化によって人種や国家間を超えた付き合いが当たり前になっていく。特にクラウドコンピューティング、ウェブテレビは世界に新しい価値観を創造することになる。情報化で認識しなくてはならないのがメディアの移行である。新聞、テレビ、雑誌などからパソコンや携帯で何でもできる時代に移行してきている。
第五に航空。交通は二〇世紀以降、加速度的なスピードで進歩してきた。車、電車、飛行機などはこの時代に発達したものである。そして、グローバリゼーション、情報化によってより資本主義社会の流動性をより迅速に行う為に欠かせないのが航空という交通である。国家間を繋ぐ最初の入口として、物質間の時間をより短縮する為には航空の発達が何よりも必要である。人、動物、輸入品、輸出品であれ、船で大量に運ぶよりも確実に迅速に運搬することができる。膨大な情報が流れ、グローバリゼーションが加速度的に広まっていく現代では航空はなくてはならないものになっている。膨大な情報は現在では120億ページにも及んでいる。人々は欲しい情報を引き出すには最早検索エンジンを使わなくては認識することもできないほど、情報の量は増えている。それにより国家間の繋がりは情報や航空を通して加速度的な速さで行われることになるだろう。二一世紀は国境を超えて地球という一つのものとして捉えられることになる。
「認識」と「目的」
どんなことをしても資本主義社会で生きている限りグローバリゼーションと情報化からは逃れることはできない。これらを認識したうえで目的を持っていかにして現代を生きていくかが重要である。大衆の時代から個の時代へと言われてはいるが、現実には階層性の元に均質化が進んでいる。この著書を書くことによって求めたのは人々がいかにしていきいきとした生活を送れるのかということであった。いきいきや元気、活力などは非常に定義しづらいものであるが、個としての力をより強くするにはどうしたらいいだろうかと真剣に考えてこの著書を書こうと思い立った。日本という社会は世界的に見ても最も裕福な国であると断言しても良い。豊かな社会で生きてきた若者は戦争もない平和な日本で生きている。その中で豊かさの中で失われていったものも多い。生と情報のはざまを埋めるには人々が5つの基本的要素を認識し、目的を持つことである。
現代社会では情報化が進めば進むほど、人々の生命の豊かさはなくなり「精神の衰退」起きる。
この二つの間には深い谷のようなはざまができている。それは私たちがその実情を知り、考え、行動することによってのみ解決できるものである。情報化が進めむほど人々が自分の知を使って考えを行うことが非常に難しくなってきている。何故なら考えなくてもそこに知識があるからである。それでもはざまは埋めることができる。それは私たちの手によって解決できることを信じている。
14.謝辞
本書を書くにあたって以下の人たちには本当にお世話になった。もし勇気を持って21の時に伊東豊雄建築設計事務所に行かなければ自分は世界の広さも、自分の浅はかさ、無能さを知ることもなく一生を過ごしていたかも知れない。そしてなによりも恩師である石山修武先生には本当にお世話になったのは言うまでもない。石山修武という人間に出会わなければ今はどうなっていただろうかと本当に怖くなる。設計においても、生きることに関してもこの人なしには語れなかった。自分にとって初めて出会った恩師である。鈴木博之先生には建築史の授業を受けさせて頂き、その上様々なアドバイスを頂いた。歴史の深さを心底教えていただいた。アベル・エラゾには本当に感謝したい。彼の存在によってどれだけ世界が広いと知り、設計においても、友人としてもチリ人の建築家であるアベルの存在は本当に大きかった。李在裕には設計における基本的な技術を学んだ。彼の純粋さと強さは言うまでもない。友人としても心強かった。福澤レベッカ先生にも感謝したい。自分の夢を応援してくれた初めての人であった。ここにアベル・エラゾ、セバスチャン、イゴール、クリスチャン・ミューラー、ジュリアン・ウォラル、安西直紀、石山修武、佐藤俊介、諏訪太一、鈴木博之、福沢レベッカ、李在裕、隈研吾、吉村百代、吉田涼子、青柳陽介、青木信之、田中希恵、山口大地、山畑剛、渡辺詞男、渡辺大志、太田厚子、丹羽太一、鐘ヶ江健太、大矢周一郎、松尾美和、横手義洋、安藤直見、陣内秀信、高村雅彦、山名早人、中谷礼二にもお世話になった。石山修武研究室、伊東豊雄建築設計事務所に所員の方々、そして両親にも感謝しきれない。法政大学建築学科、早稲田大学建築学科、早稲田大学図書館、東京大学建築学科の厚き心にも感謝したい。
グローバリゼーションと情報化が進む中でいかにして均質化によって人間の力や多様性がなくなることなく、人々をより心から豊かにするかが本著の目的である。そして自分にも伝えたい。30になっても、40になって、50になっても、人の為に駆け続けるような夢を持ち続けてほしい。
「全てのものは情報の集合である」という定義は膨大な情報が氾濫する21世紀において現実のものとなろうとしている。これは自分にとって始まりであり、生涯闘っていこうと思う。機械時代から情報時代へと変容していく中で、笑ったり、怒ったり、泣いたりする感情を持った人間であることを忘れてはならない。生と情報のはざまという題名はそのことを意味している。
15.参考資料
1. Sociology of globalization saskia sassen W.W.NORTON
2. Territory,authority,rights saskia sassen Princeton Press
3. Global networks inked cities saskia sassen
4. The world is Flat:A brief History of Twenty-first Century futher Update and Expanded Edition Thomas L.Friedman
5. Information retrieval Christopher.D.manning
6. DELIRIOUS NEW YORK rem koolhaas The Monacelli Press
7. S.M.L.XL remkoolhaas ,bruce mau The Monacelli Press
8. Content remkoolhaas, OMA,AMO Taschen
9. International style henry-Russell Hitchcock ,Philip Jhonspn
10.Architecture history Hiroyuki Suzuki lecture in Tokyo university
11.Architecture history Hiroyuki Suzuki lecture in Tokyo university Graduate school
12.Frederick kiesler endless house
13.Osamu ishiyama laboratory 12 architecture vision setagaya museum In Tokyo,Japan
14.Emotional Architecture in Tokyo,Japan masahiro katsuki
15.Connecting and separate in tokyo,beijing,and newyork masahiro katsuki.
16.Wikipedia with language Japanese and English website.
17.Youtube for Google information retrieval website .
18.Wired weekly magazine 2008~2009
19.Time weekly magazine 2008~2009
20.Japan times news paper November,2008~junuary,2009
21.Global city Newyork,LondonTtokyo saskia sassen PRINCETON
22.Cities in a World Economy saskia sassen PINE FORCE PRESS
23.ELEMENT Cecil Balmond
24.Almanakh Gulf survey Dubai Guide Moutamarat AMO Global Agenda Archis
25.FREI OTTO COMPLETE WORKS LIGHT WEIGHT CONSTRUCTION NATURAL DESIGN BirkhauserV/A
26.今日の装飾芸術 ル・コルビュジェ著 前川国男訳 SD選書
27.建築を目指して ル・コルビュジェ著 吉坂隆正訳 SD選書
28.ビジョナリー・カンパニー ジェームス・C・コリンズ、ジェリー・ポラス 日経BP出版センター
29.ビジョナリー・ピープル ジェリー・ポラス、スチュワート・エメリー 英治出版
30.売る広告 レスター・ワンダーマン 翔泳社
31.ある広告人の告白 ディビッド・オグルビィ 海と月社
32.広告で一番大切なこと クロード・C・ホプキンス 翔泳社
33.広告マーケティング21の原則 クロード・C・ホプキンス 翔泳社
34.スティーブ・ジョブス 偶像復活 ジェフリー・ヤング、 ウィリアム・L・サイモン 東洋経済
35.インフォーマル セシル・バルモンド TOTO出版
36.ピーター・ライス自伝 あるエンジニアの夢みたこと ピーター・ライス著 鹿島出版会
37. GOOGLEを支える技術 西田圭介 設備評論社
38.我が経営 ジャック・ウェルチ 山本文庫
39.GMと共に アルフレッド・スローン ダイヤモンド社
40.風の変容体 伊東豊雄 青土社
41.ジョルジュ・アルマーニ 帝王の美学 レナータ・モルホ 日本経済新聞出版社
42.抽象と感情移入 ウィルヘルム・ヴォリンガー 岩波文庫
43.永遠の現在~美術の紀源 S・ギ―ディオン 東京大学出版
44.エアライン・ハンドブック 全日空広報室
45.飛行機100年 山田圭一 成山堂書店
46.風の変容体 建築クロニクル 伊東豊雄 青土社
47.CIA秘録 その誕生から今日まで ティム・ワイナー 文藝春秋
48.ジハード戦士 真実の顔 アミール・ミール 作品社
49.アメリカ後の世界 ファリード・ザカリア 徳間書店
50.アップルを作った怪物 もう一人の創業者 スティーブ・ウォズニアック ダイヤモンド社
51.IBMの息子 トーマス・ワトソン・ジュニア 新潮社
52.輝く都市 ル・コルビュジェ SD選書
53.ミース・ファン・デル・ローエ ディビッド・スペース SD選書
54.マーケティング22の法則 アル・ライズ、 ローラ・ライズ 東急エージェンシー
55.ピーター・ライス自伝 あるエンジニアの夢みたこと ピーター・ライス 鹿島出版会
56.アメリカの大学院で成功する方法 吉原真理
57.マネジメント ピーター・ドラッカー ダイヤモンド社
58.経営者の条件 ピーター・ドラッカー ダイヤモンド社
59.ワーキング・プア 解決への道 NHKスペシャル 「ワーキングプア」取材班
60.ワーキング・プア 日本を蝕む病 NHKスペシャル 「ワーキングプア」取材班
61.戦略的データマイニング 池尾恭一、井上哲浩 日経BP
62.プラネット・グーグル ランダル・ストロス NHK出版
63.タルムード ユダヤ教典
64.クーラン イスラム教典
65.ヴェーダ ヒンドゥー教典
66.聖書 キリスト教典
67.人類が消えた世界 アラン・ワイズマン 早川書房
68.日本の論点 2008年 文藝春秋
69.電通の正体 週刊金曜日取材班
70.MBAベストスクールガイドブック ビジネスウィーク 伊東奈美子訳 インターフェイス監修
71.プレジデント 雑誌 二〇〇八年五月五日 ダイヤモンド社
72.3週間続ければ人生が変わる ロビン・シャーマ 海竜社
・インタビュー
Thank you for your reply.
I am sorry. A short time ago. I mistaked a return e-mail.when osamu ishiyama exhibition, I looked for your colum.Globalization ,Information,and Architecture is having strong relationship. I think that nationalism is very influential power in the world.Especially,united states and london having influential in the world.because of superpower influence other countrys.The reason why world war has influence.There had a many colonial. The african continent or The republic of india,they had been empired for colonial,almost colonial country influence empire country.Therefore english language used to international language in the world.superpower translation from spain to england to united states .Using for a long time,about 500 years.English language using international language.but capitalism not infiltrate in all country. because of the world existing regional problem.Recentry,i watched on the TV about a dispute in gaza and israel.Legional problem becoming world problem. So globalization existing link and separate.but I have a possible with globalization distance.Ordinally,globalization feed a wealth for developing country.but globalization distance feed a diversity in the world.because traditional and locality protect in other country.capitalism consist of globalization. Almost cosmopolitan city relating globalization.Do not escape this strong power.I have a very interesting in israel. Especially,israel capital city is Jerusalem.Jerusalem exist three regional culture.Judaism, Christianity,and Islam.Jersalem urban becaming complexity method.but having possible, homogenize and diversity coexistence this city planning.So i have a question.How do you think about architecture for coexistence with homogenize and diversity?best regardsmsahiro katsukiwaseda university graduate school master of degreedepartment of architectureosamu ishiyama laboratory----- Original Message ----- From: "Saskia Sassen" <sjs2@columbia.edu>To: "masahiro katsuki" <spd57be9@tea.ocn.ne.jp>Sent: Friday, May 08, 2009 6:35 AMSubject: Re: masahiro katsuki (waseda university in japan)i think i understand the theoretical/philosophical angle you aredeveloping. I think i share that. did you see my essay for hisexhibition?also: i am intrigued by your notion of international style equatingwith arch in some interpretations. i gather you disagree.I nternational sty le was a complex project. Global architecturalstyle of the last 20 years is a an economic project that cleans itselfby parading as style.yes?interview: yes, but i need specifics.Saskia SassenRobert S.Lynd Professor of SociologyDepartment of Sociology andCommittee on Global ThoughtColumbia University422 Fayerweather Hall1180 Amsterdam AvenueNew York, NY 10027USAT - 212.854.0790F - 212.854.2963E/M - sjs2@columbia.edu Website: http://www.columbia.edu/~sjs2/
Quoting masahiro katsuki <spd57be9@tea.ocn.ne.jp>: Dear saskia sassen Nice to meet to you. My name is masahiro katsuki. I`m from japan. I belong to osamu ishiyama laboratory I`m sorry suddenly, I want to question about homogenize of human for globalization. On the level, I still not write in English fluently. My research is globalization and machinery of human. Writing about homogenize of human. "Nationalism", "Globalization", "Diversity", "Informationization", and "Airlines." it compose this book main five chapter. Again and again, I think that international style mistake for architecture style. So I fighting modernization and globalization. I have a question about homogenize of globalization. I have a dream that resolve homogenize of human. How do you think about human of homogenize? If you do not mind I want to interview with mail or meet.Best regards
Dear Masahiro,
Thanks for writing, this sounds like an interesting book.
Please excuse my ignorance – I’m not familiar with Osamu Ishiyama Laboratory.
Also, could you please tell me who is publishing the book, and what kind of questions you wish to ask FOA?
Thank you for this
Kate
FOA
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- 香月真大
- Curatorial Architect Second International Architecture SIA一級建築士事務所 「蒼穹」をテーマにして 済証無・図面無・旧耐震の既存ストック活用の実践をしています。 早稲田大学院建築学科修了 石山修武研究室、上海へ渡航後 株式会社SIA一級建築士事務所設立